「へびのように賢く、鳩のように素直に」マタイによる福音書10:16~25

深谷教会聖霊降臨節第14主日礼拝2026年8月23日
司会:落合正久兄
聖書:マタイによる福音書10章16~25節
説教:「へびのように賢く、鳩のように素直に」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-418,520
奏楽:野田治三郎兄

      説教題:「へびのように賢く、鳩のように素直に」佐藤嘉哉牧師
              マタイ福音書10:16~25

本日の聖書箇所はマタイによる福音書10章16節から25節です。この箇所を読んで、皆さんはどのような印象を持たれたでしょうか。私はこの御言葉を読むたびに、「どうしてイ エスは、弟子たちをこんなにも厳しいところへ送り出そうとされるのだろう」と思います。 イエスは十二人の弟子たちに、汚れた霊を追い出し、病気や患いをいやす権威をお授けになりました。そして「天の国は近づいた」と宣べ伝えるように命じられました。弟子たちは、 主から権威を与えられ、主の働きのために遣わされるのです。ところが、その弟子たちに向かってイエスは、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、羊を狼の中に送り込むようなものだ」と言われます。普通なら、羊を狼の中へ送り込むことはしません。羊が狼に勝てるはずがないからです。羊には狼を倒す牙もありません。それなのにイエスは、「狼より強くなりなさい」とは言われません。「狼に対抗できる力を身につけなさい」とも言われません。 「あなたがたは羊なのだ」と、その弱さを前提にして遣わされるのです。 ここには、キリスト者がこの世に遣わされることについて、とても大切なことが示されて います。教会は、世の中より強いから福音を語るのではありません。社会的な力を持っているから宣教するのでもありません。自分たちの力で世の中を支配し、思い通りに変えるため に遣わされるのでもありません。むしろ、自分たちの弱さを抱えたまま、この世界の中へ遣 わされます。そして、イエスご自身がその道を歩まれました。イエスは軍事的な力も政治的 な権力も持たれませんでした。最後には捕らえられ、裁かれ、十字架につけられました。人 間の目から見れば、十字架につけられたイエスは、まさに無力な存在です。しかし、キリス ト教信仰は、その十字架の中に神の救いを見ます。ここに、今日の御言葉を理解する鍵があ ります。 羊として狼の中へ遣わされる弟子たちに、イエスは続けて、「蛇のように賢く、鳩のよう に素直でありなさい」と言われます。蛇と聞くとイヴを唆した狡猾な姿を思い浮かべるかも しれません。ですが、ここで語る「蛇のように賢く」とは、狡猾になれということではあり ません。危険を見抜き、状況をよく考え、軽率な行動をしない知恵を指しています。信仰を 持っているからといって、何も考えなくてよいわけではありません。いつ語るべきか、いつ 黙るべきか、いつ前に出るべきか、いつ退くべきか。その判断にも知恵が必要です。その全てを賢くありなさいと言っているのです。 一方、「鳩のように素直である」とは、純真で混じりけがなく、悪意を持たないことです。 つまりイエスは、賢くなりなさいと言いながら、ずる賢くなれとは言っておられません。現 実をよく見ながらも、その知恵によって人を利用しない。慎重であっても、悪意を抱かない。 自分を守るために誰かを犠牲にしない。知恵と純真さの二面性持つことが、弟子として生きる姿なのです。
これは私たちの日常にも関わります。正直に生きることは大切ですが、正直だからといって、何でも思ったことを口にすればよいわけではありません。純真であることと、無防備で あることも違います。反対に、世の中をよく知ることも必要ですが、現実を知るうちに自分 まで世の中のやり方に染まってしまうことがあります。人を利用すること、勝つためなら何 をしてもよいと考えること、自分を守るためなら誰かを犠牲にしてもよいと考えることで す。だからイエスは、蛇だけでもなく鳩だけでもない、その両方を求められるのです。 しかし、そのように生きたとしても、必ず人々から歓迎されるわけではありません。17節 以下で、イエスは弟子たちが人々から引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督や王の前に連れて 行かれることを予告されます。さらに家族の中にも分裂が起こり、「わたしの名のために、 あなたがたはすべての人に憎まれる」とまで言われます。キリストに従って生きることによって受ける拒絶があるということです。福音は私たちの生き方そのものを問い直します。だ から時には、この世の価値観と衝突するのです。弟子たちの歩みも、主イエスの歩みも、そうした世の中の「当たり前」とかけ離れていました。だから周囲から「憎まれる」こともあ ったのです。 そのような弟子たちにイエスは大きな慰めを与えられます。「何をどう言おうかと心配してはならない。話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊である」と言われます。私たちは、自分の言葉に自信をもつことを難しく思います。信仰について尋ねられても何と答えればよいのか分からない。聖書について聞かれてもうまく説明で きない。そのように思うことがあります。しかしイエスは、すべてを自分の力で語れとは言 われません。必要なとき、聖霊が共にいてくださると言われるのです。もちろん、だから準 備をしなくてよいということではありません。聖書を学ぶことも、祈ることも必要です。しかし最後に、人の心に御言葉を届けてくださるのは私たちではありません。聖霊です。だから、自分が完全でなくてもよい。自分の弱さを知った上で、主に用いていただくことができ るのです。 そして22節には、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とあります。この言葉も誤解しては いけません。苦しみに耐えた人が、その忍耐によって救いを獲得するという意味ではありま せん。私たちの救いは、私たちの努力によって得られるものではなく、神の恵みによって一 方的に与えられます。キリストが私たちの罪を担って十字架にかかり、死んでくださり、復活された。その救いを、私たちは信仰によって受け取るのです。
 では、「最後まで耐え忍ぶ」 とはどういうことでしょうか。それは、救われるために苦しみに耐えることではありません。 すでに救われた者として、苦しみの中でもキリストから離れないことです。苦しいときにも 神を見失わない。理解されないときにも主を捨てない。自分の力が尽きたときにも、「主よ、 あなたにお委ねします」と祈る。そのような歩みが「耐え忍ぶ」ということです。しかも23 節で、イエスは「一つの町で迫害されたら、他の町へ逃げなさい」と言われます。これは大 切な言葉です。忍耐とは、何でも我慢し続けることではないということ。危険から逃げても よい。命を守ってもよい。無謀な自己犠牲をイエスは求めておられません。大切なのは、逃げたら終わりではないということです。別の町へ行き、そこでまた福音を語る。道が閉ざされたなら、別の道を進む。主から与えられた務めを続けるのです。 そして、ここで25節に至ります。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるも のではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」この言葉 は、今日の箇所全体を理解する上で非常に重要です。弟子たちは、なぜ狼の中へ遣わされる のでしょうか。なぜ迫害されるのでしょうか。それは、弟子が師であるイエスの後を歩くか らです。ここで、イエスの十字架を思い起こしたいと思います。イエスは、弟子たちに「苦 しみに耐えなさい」と教えただけではありません。イエスご自身が、その苦しみの道を先に 歩まれました。人々から拒まれ、弟子たちにも見捨てられ、不当な裁判にかけられ、侮辱さ れ、そして十字架につけられました。十字架にかけられたイエスを見て、人々はそこに神の 救いを見ることができませんでした。むしろ、力のない敗北者のように見えたでしょう。し かし、キリスト教信仰はその十字架こそ神の救いの出来事だと告白します。十字架の出来事 は、単に「イエスも苦しんだのだから、私たちも苦しみに耐えましょう」という話ではあり ません。十字架において、イエス・キリストは私たちの罪を担い、私たちに代わって死んで くださいました。私たちが苦しむことによって救いを完成させるのではありません。私たち の忍耐によって、キリストの救いに何かを付け加えるのでもありません。救いはすでに、キ リストの十字架によって成し遂げられているのです。 だからこそ、私たちは苦しみの中でも歩むことができます。救われるために苦しむのでは ない。救われた者として、キリストに従う中で苦しみを担うことがあるのです。十字架は、 私たちに「苦しめ」と命じているのではありません。まず、「あなたのために、キリストが 苦しんでくださった」と語っています。その恵みを受けた者が、「では、私も主に従って生 きます」と歩み始めるのです。 そして、十字架は全ての終わりではなくその先には復活があることを語ります。イエスは 死で終わられませんでした。神は十字架につけられたイエスを復活させられました。だから、 キリスト者の歩みも苦しみだけで終わるのではありません。拒絶が最後の言葉ではなかっ たのです 最後の言葉を語られるのは神です。だから、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という言 葉を、私たちは恐ろしい脅しとして聞く必要はありません。「最後まで主があなたを見捨て ない」という約束として聞くことができます。今は理解されなくても神は知っておられる。 今は弱くても聖霊が共にいてくださる。今は苦しくても、十字架の主はすでにその道を歩ま れ、復活された。その主が、私たちと共にいてくださるのです。 私たちは、教会にいる間だけ弟子なのではありません。礼拝が終われば、それぞれの場所 へ遣わされます。家庭へ帰る人もいます。職場へ行く人もいます。地域の中で人と関わる人 もいます。そこには、教会とは違う価値観があります。時には自分の信仰を理解してもらえ ないこともあるでしょう。そのとき、私たちに求められているのは、何か大きなことを成し 遂げることではありません。現実をよく見て、必要なときには慎重になる。そして、心は主 に対して素直でいる。人を利用せず、悪意を抱かず、主の前に誠実に生きる。自分の力では 語れないときには、聖霊が共にいてくださることを信じる。道が閉ざされたなら、別の道を 探す。倒れたなら、主に支えていただいて立ち上がる。苦しみの中にあるなら、すでにその 道を歩まれた十字架の主を見上げるのです。 私たちは狼ではありません。羊です。自分の力で世界を支配する者ではありません。だか らこそ、羊飼いなる主に依り頼みます。私たちの主は、十字架につけられた主です。しかし、 その主は復活された主でもあります。その主に従う私たちも、時には弱さを経験するでしょ う。理解されないこともあるでしょう。思い通りにならないこともあるでしょう。しかし、 それは主が共におられないということではなく、そのようなところにも十字架の主は共に いてくださいます。 今日、私たちはこの礼拝から、それぞれの場所へ遣わされます。わたしは祝祷の前に一言 置いていることにお気づきでしょうか。あの言葉は派遣の言葉です。礼拝はここで終わらず、 この礼拝で神の御言葉を受け、祝福を受けて、それぞれの生活の場へと遣わされていくので す。羊のように弱い私たちを、主が選び、主が遣わしてくださるからです。ですから、恐れず歩んでいきましょう。へびのように賢く、鳩のように素直に。現実を見つめながら、心を主に向けるのです。自分の力だけに頼らず聖霊に頼る。そして、十字架と復活の主を見上げ ながら、一日一日を歩んでいくのです。

関連記事

PAGE TOP