「その日の苦労はその日で十分」マタイによる福音書6:22~34

深谷教会聖霊降臨節第8主日礼拝2026年7月12日
司会:斎藤綾子姉
聖書:マタイによる福音書6章22~34節
説教:「その日の苦労はその日で十分」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-209,423
奏楽:落合真理子姉

    説教題:「その日の苦労はその日で十分」 マタイによる福音書6:22~34    佐藤嘉哉牧師

 本日の聖書箇所は、マタイによる福音書6章22節から34節です。この箇所は、「思い悩むな」というイエス の言葉で広く知られています。この言葉を聞くと、多くの人は、「くよくよしてはいけない」「前向きに生きよう」 という励ましとして受け止めるかもしれません。しかし、イエスがここで語っておられるのは、そのような人生 訓ではありません。むしろ、人はなぜ思い悩むのか、その根本原因を明らかにし、そこから私たちを解放する福音が語られているのです。この箇所は、「思い悩むな」という言葉だけを切り離して読むことはできません。山上の説教全体の流れの中で理解することが大切です。イエスはこれまで、「神の国に生きる者とはどのような人か」 を語り続けてこられました。5章では律法の本当の意味を示し、外側の行いではなく心そのものが神に向けられることを求められました。6章では、施しや祈り、断食について教え、人からの評価ではなく、隠れたところで 見ておられる父なる神との関係を大切にするよう勧められます。そして直前では、「あなたがたの宝はどこにあるか」が問われました。地上に宝を積むのか、それとも天に宝を積むのか。その問いを受けて、今日の御言葉が 続いているのです。 最初にイエスは、「目はからだのあかりである」と語られます。一見すると、「思い悩むな」とは関係のない話 のように思えます。しかし、この言葉こそが今日の箇所全体の鍵となっています。聖書において「目」とは、単 に物を見る器官ではありません。その人が何を見つめ、何を人生で最も大切にしているかを表しています。イエスは、「目が澄んでいれば全身も明るい」と言われました。この「澄んでいる」という言葉には、「一つ」「混じり気がない」という意味があります。心が神だけに向けられ、神を信頼している状態です。反対に「悪い目」とは、 神ではなく富や成功、人からの評価に心を奪われている姿を表しています。つまりイエスは、「あなたは何を見て生きているのか」と問いかけておられるのです。私たちが見つめるものが、そのまま人生の方向を決めていきます。 続いてイエスは、「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」と語られ、「神にも仕え、また富にも仕えることはできない」と結ばれます。ここで「富」と訳されている言葉は、原文では「マモン」です。これは 単なるお金ではなく、人を支配し主人となる富の力を表しています。聖書は財産を持つこと自体を罪とは教えて いません。アブラハムもヨブも神から豊かな祝福を受けました。問題は富を持つことではなく、富が人の主人になることです。私たちは、お金があれば安心できる、将来も守られると思いがちです。しかし、その安心を神ではなく富に求め始めた時、富は神に代わる主人となってしまいます。だからイエスは、「神か、マモンか」という二者択一を示されるのです。 そのあとに「だから、思い悩むな」という言葉が続きます。この「だから」が非常に重要です。イエスは突然、 「心配するな」と命じておられるのではありません。「あなたは何を見つめ、誰を主人として生きているのか」と問いかけ、その上で、「だから思い悩むな」と語られるのです。つまり、この箇所の中心は、「どうすれば心配しなくなるか」という方法ではありません。「誰を信頼して生きるのか」という信仰の問題です。思い悩みは、人生 の主人が誰であるかという問いと深く結びついています。この視点を見失うと、「思い悩むな」は単なる精神論になってしまいます。しかしイエスが示されるのは、人間の心を支配する不安から私たちを解放する福音なのです。 イエスは続いて、「空の鳥を見るがよい」「野のゆりがどうして育っているか、考えて見るがよい」と語られます。この言葉を読むと、「自然を眺めれば心が癒やされる」という教えのようにも聞こえるかもしれません。しか しイエスが私たちに見つめさせようとしておられるのは自然そのものではありません。その自然を養い、支えて おられる父なる神です。 ここで改めて、「思い悩む」という言葉に目を向けたいと思います。新約聖書の原文では、「メリムナオー」と いう言葉が使われています。この言葉には、「心が分かれる」「心が引き裂かれる」という意味があります。一つ であるはずの心が、あちらにもこちらにも引っ張られ、神に向かうことができなくなってしまう状態です。私たちにもそのような経験があります。今日やるべきことに取り組んでいても、心は将来への不安に支配されてしまうことがあります。家族と食卓を囲んでいても仕事のことが頭から離れず、礼拝に出席していても生活の問題が 心を占めてしまうことがあります。体はここにあっても、心はまだ来てもいない明日へと引きずられているので す。そのような心の状態こそ、イエスが語られる「思い悩み」です。それは心配事があるということではありま せん。神への信頼と、自分で何とかしようとする思いとの間で、心が引き裂かれている姿なのです。 そこでイエスは、「空の鳥を見なさい」と言われます。鳥は種をまかず、刈り入れもせず、倉に蓄えることもし ません。それでも天の父は鳥を養っておられる、と語られます。もちろん、鳥は何もしないわけではありません。 餌を探し、巣を作り、雛を育てます。鳥も与えられた務めを果たしています。しかしまだ来てもいない明日のことで心を支配されることはありません。神が与えてくださった今日を生きています。 野のゆりも同じです。イエスは、「栄華をきわめたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾ってはいなかった」と語られます。どれほど人が富や権力を手にしても、神が咲かせる一輪の花の美しさには及びません。それ は人間の努力を否定しているのではなく、私たちの命そのものが神の御手によって支えられていることを示して います。だからイエスは、「だれが思い煩ったからといって、自分の寿命を少しでも延ばすことができようか」と 問いかけられます。私たちは心配すれば未来を変えられるように思ってしまいます。しかし思い悩むことによって未来を支えることはできません。 ここで区別しておきたいことがあります。それは、「備えること」と「思い悩むこと」は違うということです。 聖書は勤勉に働くことも将来に備えることも否定していません。しかし備えは神への信頼の中で行われます。一 方思い悩みは、神の代わりに自分が未来を支えようとするところから生まれます。外から見れば同じような行動 でも、その心の向きはまったく異なるのです。そしてイエスは、「あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要であることをご存じである」と語られます。この一言に、今日の箇所の土台があります。私たちは 祈ることによって神に必要を知らせるのではありません。父なる神は、願う前から私たちに必要なものをご存じ です。だからこそ安心して祈ることができます。主の祈りで、「日ごとの糧を、きょうもお与えください」と祈る ことができるのもこの父への信頼があるからです。 「思い悩むな」というイエスの言葉は、「もっと強くなりなさい」という命令ではありません。「あなたには天 の父がおられる。その父を信頼して歩みなさい」という招きです。私たちの引き裂かれた心は、自分の力で一つ になるのではありません。父なる神への信頼へと立ち返るとき、神ご自身が私たちの心を再び一つにしてくださるのです。 ここまで読み進めますと、この箇所が私たちに語っていることがよりはっきりと見えてきます。イエスは人間 から思い悩みを取り除く技術を教えておられるのではありません。思い悩みの根本原因を取り除こうとしておられるのです。しかし、私たちはこの御言葉を別の意味で受け止めてしまうことがあります。「信仰があれば心配しないはずだ」「クリスチャンなのだからもっと前向きに生きなければならない」。そのように考えてしまうと、不安を抱える自分を責めることになります。「思い悩むな」という言葉が慰めではなく重荷になってしまうのです。 しかし福音書を読むと、イエスは不安を抱える人を責められたことはありません。病に苦しむ人、明日の生活 に不安を抱く人、愛する者を失った人々に寄り添い、その苦しみを担ってくださいました。ですから、この「思い悩むな」という言葉も不安を抱く人への叱責ではなく、その重荷から解放したいという主の招きとして聞かなければなりません。 では、その解放はどこから与えられるのでしょうか。イエスは33節で、「まず神の国と神の義とを求めなさい。 そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と語られます。この一節こそ今日の聖書箇所 の中心です。 「神の国」とは、神が王として支配しておられる世界、その御支配の中に生きることです。また「神の義」とは、神との正しい関係に生き、その御心に従って歩むことです。イエスは「まず神を第一にしなさい」と語られます。ここで大切なのは、「まず」という言葉です。仕事や家庭、健康や生活は、どれも神が与えてくださった大 切な恵みです。しかし、それらを人生の土台にしてしまうと人は必ず不安に支配されます。なぜならそれらはどれも変わり得るものだからです。しかし神は昨日も今日も、そして永遠に変わることなく私たちを愛し支えてくださるお方です。だからイエスは、「まず神の国を求めなさい」と語られるのです。それは宗教的な義務を増やしなさいという意味ではありません。人生を支えてくださる方を、もう一度神として迎えなさいという招きなので す。 この御言葉を読むたびに、19世紀のイギリスで孤児院を営んだジョージ・ミュラーの姿を思い起こします。 ミュラーは生涯、多くの孤児たちを養いましたが、その働きは豊かな資金によって支えられていたわけではありませんでした。必要が生じるたびに神に祈り、神が備えてくださることを信じて歩み続けたのです。ある朝、孤児院には子どもたちに食べさせるパンも牛乳もありませんでした。それでもミュラーは子どもたちを食堂に集め、「天の父よ、今日も必要なものを与えてくださることを感謝します」と祈りました。祈り終えた直後、近くのパン屋が焼きたてのパンを届けてきました。さらに、牛乳を運ぶ荷車が孤児院の前で故障し、傷む前に受け取ってほしいと牛乳を届けることになりました。その日の食卓は、神の備えによって満たされたのです。この話を聞くと、「信仰があれば必ず奇跡が起こる」と考える人がいるかもしれません。しかし、ミュラーが証ししたかったのは奇跡そのものではありませんでした。父なる神は、私たちが何を必要としているかをすでにご存じであり、 最も良い時に、最も良い方法で備えてくださる。その神を信頼して歩むことこそ、ミュラーが生涯を通して証しした信仰だったのです。 もちろん、私たちの歩みはミュラーと同じではありません。祈ればすぐに問題が解決するとは限りません。病 が癒やされないこともあります。先の見えない不安を抱えたまま朝を迎える日もあるでしょう。しかし、そのような時にも変わらない約束があります。「あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要であることをご存じである」という主の御言葉です。私たちの状況は変わることがあっても、この約束が変わることはあ りません。そこで今日、私たちは自分自身の歩みを静かに振り返りたいと思います。私たちの目は今、どこを向 いているでしょうか。安心を与えてくれるものとして何を見つめているでしょうか。知らず知らずのうちに、神よりも預金残高や将来の計画、人からの評価を見つめてはいないでしょうか。そのような時、私たちの心は神から離れたというより、不安によって引き裂かれてしまっているのです。これは教会も同じです。教会には、これからの歩みについて考えなければならない課題があります。働き手のこと、財政のこと、地域との関わり、次の 世代へどのように福音を受け継いでいくのか。どれも大切な課題です。しかし、その課題だけを見つめ続けるなら、私たちの心は神よりも問題の大きさに支配されてしまいます。 だからこそイエスは私たちの目をもう一度天へと向けさせます。「空の鳥を見なさい。野のゆりを見なさい。」 それは自然を眺めて気持ちを落ち着かせなさいという意味ではありません。鳥を養い、花を装ってくださる父なる神が、あなたがたのことを忘れておられるはずがないという約束なのです。 私たちに与えられているのは明日ではなく今日という一日です。そして神はその日に必要な恵みをその日に与 えてくださいます。だからイエスは、「あすのことを思い煩うな」と語られました。これは将来について何も考えなくてよいという意味ではありません。備えることは大切です。しかしまだ来ていない明日の重荷まで今日背負う必要はないのです。そして主は、「一日の苦労は、その日一日で十分である」と結ばれます。この言葉は、人生 に苦労があることをイエスご自身が認めておられる言葉です。信仰を持てば苦労がなくなるとは約束されていま せん。しかし今日には今日の恵みがあり、明日には明日の恵みがあります。父なる神は、その日に必要な力を、 その日に与えてくださいます。 私たちは、まだ与えられていない明日の力を今日使おうとして疲れ果てる必要はありません。今日という一日 を神から受け取り、その日に与えられる恵みに信頼して歩む。それが、イエスの語られた「思い悩むな」の本当 の意味なのです。だから、まず神の国と神の義とを求めて歩みたいと思います。問題がなくなるからではありません。苦労が消えるからでもありません。そのような中にあっても、私たちには天の父がおられ、その御手が今日も明日も私たちを支えてくださるからです。「その日の苦労はその日で十分である。」今日という日に必要な恵みを備えてくださる父なる神を信頼して歩みなさい。それが、主イエスが今日私たちに語ってくださる福音なのです。この御言葉を心に刻み、それぞれに与えられた新しい一週間を、父なる神に信頼して歩んでまいりましょう。

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