深谷教会聖霊降臨節第10主日礼拝2026年7月26日
司会:西岡まち子姉
聖書:マタイによる福音書7章15~29節
説教:「良い木は良い実を」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-54,50
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「良い木は良い実を」 マタイによる福音書7:15~29 佐藤嘉哉牧師
本日の聖書箇所は、マタイによる福音書7章15節から29節です。この箇所は、イエスが山上の説教を締めく くられる最後の場面にあたります。「良い木は良い実を結ぶ」「主よ、主よと言う者がみな天国に入るのではない」 「岩の上に家を建てた賢い人」という、聖書の中でもよく知られた言葉が続きます。一つ一つが独立した教えの ようにも見えますが、実際にはすべてが一つの問いへと私たちを導いています。それは、「本当に神の国に属する 者とは誰なのか」という問いです。イエスは山上の説教の最後に、その問いを私たち一人ひとりへと向けておら れます。 これまで私たちは山上の説教を順に読み進めてきました。5章21節から37節では、「殺してはならない」「姦 淫してはならない」「誓ってはならない」という教えを通して、神が求めておられる義とは、外側の行いだけでは なく、人の心にまで及ぶ義であることを聞きました。神は表面的に正しく見える人ではなく、心から神に向き合 う人を求めておられます。続く6章22節から34節では、「思い悩むな」という御言葉に耳を傾けました。この 言葉は、ただ前向きに生きなさいという励ましではありませんでした。何を人生の主人とし、誰を信頼して歩む のかという、信仰の中心が問われていました。そして前回の7章1節から6節では、「人をさばくな」という御 言葉から、他人の欠けを見つめる前に、まず自分自身が神の前に立つことの大切さを学びました。さらにイエス は「狭い門から入りなさい」と語られました。命に至る門は狭く、その道も細い。しかし滅びへ至る門は広く、 多くの人がそこを歩んでいると言われます。山上の説教は、単に人生を豊かに生きるための教えではありません。 神の国へ至る道と、滅びへ至る道という、決定的な二つの道を示す御言葉なのです。 そして今日の箇所で、イエスは「偽預言者を警戒せよ」と語られます。これは突然話題が変わったのではありま せん。偽預言者とは、人々を狭い道からそらし、歩きやすく見える広い道へ導いてしまう存在だからです。だか ら山上の説教の締めくくりにおいて、この警告が語られているのです。 このように見ていくと、山上の説教を通してイエスが繰り返し語ってこられたことが、一つの流れとして見え てきます。それは、人からどう見られるかではなく、神の前でどのような者として生きるのかということです。 そして今日の箇所では、その山上の説教全体を受けて、イエスは最後の結論を語られます。信仰は知識や言葉だけで終わるものではありません。神の恵みによって新しくされた者として、その命が日々の歩みの中に実を結んでいくこと。それこそが、神の国に生きる者の姿であるとイエスは教えておられるのです。 イエスはまず、「偽預言者を警戒せよ」と語られます。偽預言者とは、神の言葉ではなく、自分の思いや考えを 神の言葉であるかのように語る者です。しかし彼らは、一目で偽物だと分かるような姿では現れません。イエス は、「羊の皮を着てあなたがたのところに来る」と言われました。羊とは神の民を表す言葉です。つまり、外見は 信仰深く、敬虔で、立派な人のように見えるということです。教会に熱心に集い、聖書を語り、人々から信頼されているように見えることもあるでしょう。しかし、その内側には神ではなく、自分自身を中心に据えた思いが 潜んでいることがあります。だからこそイエスは、「あなたがたは、その実によって彼らを見分けるのである」と 言われました。ここで言われる「実」とは、一時的な成果や目に見える成功ではありません。その人の歩み全体 に現れる神への従順と、その従順から生み出される人格や生き方です。どれほど多くの人を集めても、どれほど 立派な言葉を語っても、その歩みが神を指し示すものではなく、自分自身を高くするものであるなら、それは良い実とは言えません。イエスは外側の華やかさではなく、その人が誰に従い、誰の栄光を求めて生きているのか をご覧になっているのです。 さらにイエスは、「主よ、主よと言う者がみな天国にはいるのではない」と続けられます。この言葉は非常に厳しく聞こえます。しかも、この言葉が向けられているのは、神を知らない人々ではありません。イエスを「主」 と呼び、その名によって預言し、悪霊を追い出し、多くの力あるわざまで行った人々です。それだけに、この御 言葉は教会の外にいる人への警告ではなく、教会に集う私たち自身への問いとして受け止めなければなりません。 しかし、ここでイエスが問題にしておられるのは、働きの大きさではありません。神との人格的な交わりです。 「知る」という言葉は、聖書において単に相手の存在を知っているという意味ではなく、深い人格的な関係を持 つことを意味します。ですから、「わたしはあなたがたを知らない」という言葉は、「あなたはわたしのことを何 も知らなかった」という意味ではありません。「あなたは、わたしとの交わりの中を歩んではいなかった」という 意味なのです。つまり、神のために何をしたかではなく、神と共に歩んできたかが問われているのです。 この教えは、「救いは行いによる」という意味では決してありません。新約聖書は一貫して、人は神の恵みによ って救われると教えています。しかし同時に、その恵みに生かされた人には、新しい命の実が結ばれていくこと も教えています。宗教改革者カルヴァンは、「信仰のみが人を義とする。しかし、人を義とする信仰は決して一人 ではない」と語りました。本物の信仰は、必ずその人の生き方に現れるということです。だからイエスは、最後 に岩の上に家を建てた人のたとえを語られるのです。そのたとえは、「どれほど多くのことをしたか」ではなく、 「誰の御言葉を土台として生きているのか」が問われていることを示しています。 ここで私たちは、説教題にもなっているイエスの言葉、「良い木は良い実を結ぶ」という御言葉を、もう一度丁 寧に受け止めたいと思います。この言葉を聞くと、「もっと良い実を結ばなければならない」「努力して立派な人 にならなければならない」と感じる方もおられるかもしれません。しかし、そのように受け取るなら、この御言 葉は重い命令となり、私たちを苦しめるものになってしまいます。しかしイエスは、「良い実を結べば良い木にな れる」ではなく「良い木は良い実を結ぶ」と言われたのです。順序が逆なのです。木は、自分の力で実を作り出 そうとしているわけではありません。良い木であるからこそ、季節が来れば自然に実を結びます。反対に、悪い 木はいくら枝に実を結び付けても、本当の意味で良い実を実らせることはできません。つまり、問題は実そのも のではなく、その木がどのような木なのかということです。 では、「良い木」とは何でしょうか。キリストの恵みによって受け入れられ、その赦しに生かされている人で す。自分の正しさではなく、神の憐れみに信頼して歩む人です。だから良い実は、人間の努力が生み出す成果で はなく、キリストに結ばれた命から生み出されるものなのです。これは山上の説教全体を貫いているテーマでも あります。5章では、殺人や姦淫という行為だけでなく、怒りや欲望という心の問題が問われました。6章では、 人に見せる信仰ではなく、天の父だけを見つめる信仰が求められました。7章前半では、人をさばく前に、自分 の目にある梁を見るようにと教えられました。そして最後に、「良い木は良い実を結ぶ」と語られるのです。イエ スは最初から最後まで、外側を飾る信仰ではなく、神の恵みによって新しくされた命を語っておられます。 私たちは時として、実ばかりを気にしてしまいます。「もっと奉仕をしなければならない」「もっと祈らなければならない」「もっと聖書を読まなければならない」と、自分を奮い立たせようとします。もちろん、それらは大 切なことです。しかし、その出発点が「神に認められるため」であるなら、いつしか信仰は重荷になります。で きた日は安心し、できなかった日は落ち込む。その繰り返しになってしまいます。教会生活が⾧くなるほど、私 たちは知らず知らずのうちに、「信仰をしていること」で安心しようとしてしまうことがあります。礼拝に出席し ている。奉仕をしている。献金をしている。聖書を読んでいる。それらはどれも尊い信仰の営みです。しかし、 それらを積み重ねることが目的となり、キリストご自身を見失ってしまうなら、本末転倒になってしまいます。 山上の説教の最後でイエスが語られた厳しい警告は、まさにその危険を私たちに示しているのです。 しかし福音は、そのような生き方から私たちを解放します。神は、私たちが十分に実を結んだから愛してくださるのではありません。キリストにあって、まず私たちを愛し、赦し、受け入れ、新しい命を与えてくださいました。その恵みに支えられて歩む中で、神は私たちの内に働き、少しずつ神が喜ばれる実を結ばせてくださるの です。ですから、良い実とは、決して目立つ働きや大きな成果だけではなく、誰にも知られない祈りもあります。 傷ついた人の話に静かに耳を傾けることもあります。家族を赦そうと葛藤することもあります。礼拝を守り続け ることも、失望の中でなお神を見上げることもあります。そのような歩みもまた、神が喜ばれる実です。 パウロはガラテヤ書で、「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制である」と語っています。これらは人間が努力だけで作り出すものではありません。聖霊なる神が私たちの内に働いてくださる ことによって結ばれる実です。だから私たちは、自分の力で実を作ろうと焦る必要はありません。神が働いてくださることを信じ、その恵みの中に歩み続けることが大切なのです。だからこそ、この箇所は私たちに、「もっと 実を増やしなさい」と迫っているのではありません。「あなたは何を土台として生きているのか」と問いかけています。私たちが自分の力や経験、評価や実績を土台としているなら、人生の嵐に直面した時、その土台は揺らいでしまいます。しかし、キリストの御言葉を土台として歩むなら、どのような嵐の中にあっても、その命は支え られます。 山上の説教を締めくくるこの箇所は、私たちに他者を評価する基準を与えるために語られたのではありませ ん。「あの人は良い木だ」「この人は実がなっていない」と互いを見比べるための御言葉ではないのです。むしろ イエスは、私たち一人ひとりに向かって、「あなたは何を土台として歩んでいるのか」と静かに問いかけておられ ます。その問いの前では、誰かを裁くことはできません。私たち自身もまた、神の前に立ち、御言葉によって照 らされる者だからです。 忙しい毎日の中で、祈りが義務になってしまうことがあります。奉仕を続けるうちに、喜びよりも責任感だけ が残ってしまうことがあります。誰かの欠点には敏感でありながら、自分の心の渇きには鈍くなってしまうこと もあります。また、信仰生活が⾧くなるほど、「これだけやっているから大丈夫」という思いが、知らず知らずの うちに心のどこかに生まれてしまうこともあります。しかし、今日の御言葉は、そのような私たちを責めるため に語られているのではありません。イエスは、私たちをもう一度ご自身のもとへ招くために、この言葉を語って おられるのです。「良い木は良い実を結ぶ」。この御言葉は、まずキリストの恵みに生かされなさいという招きで す。自分の正しさではなく、神の赦しに立ちなさいという招きです。そしてその恵みに生かされる時、神ご自身 が私たちの内に働き、時にかなって実を結ばせてくださるという約束なのです。 山上の説教の最後で、イエスは岩の上に家を建てた人のたとえを語られました。「そこで、わたしのこれらの言 葉を聞いて行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われます。ここでイエスが強調しておられるのは、御言葉を聞くだけで満足することではありません。その御言葉に信頼し、その御言葉を土台と して歩むことです。 人生には、誰の上にも雨が降り、川があふれ、風が吹きつける時があります。病や老い、 愛する人との別れ、思いがけない失敗や苦しみなど、人生には避けることのできない嵐があります。しかし、こ のたとえが見つめているのは、それだけではありません。山上の説教全体の流れから見るなら、ここには終わり の日、神の御前に立つ時も重ねて語られています。その日、私たちを支えるのは、自分がどれほど立派な実を結んだかではありません。どれほど多くの奉仕をし、どれほど大きな働きを成し遂げたかでもありません。ただ、 キリストの御言葉を土台として歩んできたかどうか、そのことが問われるのです。だからこそ、このたとえはこれまで語られてきた「良い木は良い実を結ぶ」という教えとも結び付いています。良い木は、自分の力で実を作り出そうとする木ではありません。キリストの恵みに生かされ、その御言葉を土台として歩む者です。そのよう な人に、神は時にかなって実を結ばせてくださいます。そして、その実は、自分の栄光を現すためではなく、神 の栄光を現し、人々を慰め、励まし、生かす実となっていくのです。 山上の説教を通して、イエスが語られたことは一貫していました。人にどう見られるかではなく、神の前で生 きること。自分の義によって神に近づこうとするのではなく、神が与えてくださる義に生かされること。自分の 力に頼るのではなく、天の父を信頼すること。そして、その御言葉を聞き、その御言葉を土台として歩むことで す。最後にマタイ福音書では、「群衆はその教えに非常に驚いた」と記しています。イエスが律法学者たちのよう に権威を借りて語られたのではなく、ご自身の権威をもって語られたからでした。イエスは「あなたは、この道 を歩みなさい」と、ご自身こそが命への道であることを示しながら語られたのです。「良い木は良い実を結ぶ」。 これはキリストに結ばれ、その恵みに生かされる者には、神ご自身が実を結ばせてくださるという約束です。そ して、その約束に生きる者は、嵐の日にも、終わりの日にも、揺るぐことのない岩の上に立つことができます。 私たちは、自分の力で良い木になろうとするのではありません。主イエス・キリストに結ばれ、その御言葉を 土台として歩みます。その時、神は私たちの内に働き、少しずつ私たちを変え、神が望まれる実を結ぶ者へと導 いてくださいます。その約束を信じ、これからも主を見上げ、その恵みに支えられながら、一歩一歩、神の国に 属する者として歩んでまいりましょう。