「もう大丈夫」マタイによる福音書5:21~37

深谷教会聖霊降臨節第7主日礼拝2026年7月5日
司会:落合正久兄
聖書:マタイによる福音書5章21~37節
説教:「もう大丈夫」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-211,352
奏楽:杉田裕恵姉

      説教題:「もう大丈夫」 マタイ福音書5:21~37   佐藤嘉哉牧師

 本日の聖書箇所は、マタイによる福音書5章21節から37節です。この箇所は、イエスが語られた「山 上の説教」の中心部分にあたります。ここでイエスは、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「離 縁について」「誓いについて」という四つの教えを続けて語られます。一見すると、それぞれ別々の教え のように思えます。しかし、この四つは一つのテーマによって貫かれています。それは、「神が求めておられるのは、心からの義である」ということです。 この箇所を理解するためには、その直前にあるイエスの言葉を忘れてはなりません。イエスは、「わた しが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきた のである」と言われました。そして続けて、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国にはいることはできない」と語られます。この言葉を聞いた人々は、大きな衝撃を 受けたことでしょう。律法学者やパリサイ人は、誰よりも熱心に律法を守る人々でした。その人たち以上 の義が必要だと言われるなら、「それでは誰が救われるのか」と思わずにはいられません。しかし、イエ スは律法の基準をさらに厳しくして、人々を追い詰めようとされたのではありません。むしろ、人々が見 失ってしまった律法の本当の意味を取り戻そうとされたのです。当時の人々は、律法を「どこまで守れば よいのか」という規則として理解するようになっていました。神を愛し、隣人を愛するという律法の目的 よりも、規則を守っている自分を保つことが中心になっていたのです。そこでイエスは、「あなたがたは 聞いている。しかし、わたしは言う」と繰り返し語りながら、律法の背後にある神の御心を明らかにして いかれます。
 最初に取り上げられるのは、「殺してはならない」という戒めです。これは十戒の一つであり、誰もが 知っている神の言葉です。多くの人は、「私は人を殺したことはありません」と言うことができるでしょ う。しかしイエスは、「兄弟に向かって腹を立てる者は裁きを受ける」と言われました。この言葉は、とても厳しく聞こえます。しかしイエスが問題にしておられるのは、一時的に湧き上がる感情そのもので はありません。人を軽んじ、見下し、その存在を否定していく心です。人はある日突然、誰かを傷つける わけではありません。その前には、怒りがあり、憎しみがあり、「あの人さえいなければ」という思いが あります。目に見える行為は、その心が最後に表れた姿にすぎません。だから神は、結果だけではなく、 その根にある心をご覧になるのです。 イエスはさらに、「ばか者」と兄弟をののしることについても語られます。ここで使われている言葉は、 単なる悪口ではありません。「価値のない人間」「神から見捨てられた者」という意味を含む、相手の存在 そのものを否定する言葉です。神がお造りになった人を、自分の物差しで裁き、その価値を決めようとすることを、イエスは戒められます。そして、「祭壇に供え物をささげようとするとき、兄弟に恨まれていることを思い出したなら、まず行って仲直りをしなさい」と言われました。礼拝は神との関係だけで成り 立つものではありません。神を愛することと、人を愛することは切り離すことのできない一つの歩みだ からです。 次にイエスは、「姦淫してはならない」という戒めを取り上げられます。そして、「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫を犯したのである」と語られました。この言葉もまた誤解されやすい箇所で す。イエスは、美しい人を見て美しいと感じることまで罪だと言われたのではありません。問題にしておられるのは、相手を神に愛された一人の人格としてではなく、自分の欲望を満たすための対象として見ることです。相手を自分の楽しみや満足のための道具にしてしまう心が、すでに神との関係を壊しているのです。 続けてイエスは、「右の目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てよ」とまで言われます。もちろん、これは文字どおり自分の体を傷つけよという意味ではありません。罪を軽く考えてはなら ないという強い表現です。罪は行動になった時だけ問題なのではなく、小さな思いとして心に宿り、それ が言葉となり、やがて行動へとつながっていきます。だからイエスは、罪の実ではなく、その根を見つめるように求めておられるのです。 三つ目は離縁についてです。当時のユダヤ社会では、離縁状を書けば離婚は認められるという考え方が 広く受け入れられていました。しかも、その理由は些細なことで十分だと考える人たちもいました。その 結果、弱い立場に置かれていた女性が深く傷つけられることになります。イエスは、そのような社会の現 実を前にして、神が結婚を与えられた本来の目的を思い起こさせます。結婚とは、自分の都合で結んだり 解いたりする契約ではなく、神の前で互いを尊び合うための恵みです。ここでも問われているのは、形式 ではなく、相手に向けられた心です。 最後にイエスは、誓いについて語られます。当時の人々は、「天にかけて」「地にかけて」と様々な誓い を立て、自分の言葉を信用してもらおうとしていました。しかし、その一方で、「この誓いなら守らなく てもよい」という都合のよい解釈も生み出していました。そこでイエスは、「あなたがたの言葉は、『しか り、しかり』『否、否』であるべきだ」と言われます。本当に誠実な人であれば、大げさな誓いは必要ありません。日頃から真実を語る人の言葉には、それだけで重みがあるからです。
 こうして四つの教えを見てくると、イエスが一貫して見つめておられるものが見えてきます。殺人の背 後には怒りがあり、姦淫の背後には欲望があり、離縁の背後には自己中心な思いがあり、誓いの背後には 誠実さを失った心があります。イエスは、それぞれの行為を取り締まろうとしておられるのではありません。その行為を生み出す心を見つめておられるのです。そして、それこそが律法が最初から目指していた神の御心でした。神は、人がどれだけ規則を守ったかだけをご覧になる方ではありません。その人がどのような心で神と隣人に向き合っているかをご覧になるのです。ですから今日の御言葉は、私たちにも 一つの問いを投げかけています。私たちは神の前で、何によって「私は大丈夫です」と言おうとしているでしょうか。人より少しまじめに生きていることでしょうか。教会に通い、礼拝を守り、奉仕をしている ことでしょうか。それとも、神はもっと深いところをご覧になっていることを知り、その御前に自分の心を差し出しているでしょうか。この問いを胸に留めながら、さらに御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
 ここで私たちは、一つの疑問を抱くかもしれません。もし神が行いだけではなく、その人の心までご覧 になるのであれば、いったい誰が神の前に「私は正しい」と言えるのでしょうか。人を憎んだことが一度 もない人はいません。誰かを見下したことが一度もない人もいません。自己中心な思いと無縁に生きてきた人もいないでしょう。そう考えると、イエスの教えはあまりにも厳しく、私たちには到底届かない理 想を語っているようにも思えます。しかし、イエスがこの教えを語られた目的は、私たちを絶望させることではありません。むしろ、自分の力では神の前に義となることができないことを知り、神の恵みに目を 向けるよう導くことにあります。 律法学者やパリサイ人は、律法を守ることによって神に認められようとしていました。「人を殺していない」「姦淫していない」「決まりは守っている」。そのような行いを積み重ねることで、自分は神の前に 正しいと思っていたのです。「もう自分は大丈夫だ」と。しかしイエスはその土台そのものを揺さぶられました。神は行いを数えて人を受け入れる方ではありません。神が求めておられるのは、神を愛し、隣人を愛する心です。そしてその心は人間が努力だけで作り出せるものではありません。 実は、私たちも同じような思いにとらわれることがあります。私たちは知らず知らずのうちに、自分の価値を「何ができるか」で測ってしまいます。仕事で成果を上げれば安心し、失敗すれば自信を失います。 誰かの役に立てば自分には価値があると思い、何もできない自分には価値がないように感じてしまいま す。その考え方はいつしか信仰にも入り込んできます。「礼拝を休まなかったから大丈夫」「奉仕をしているから大丈夫」「きちんと祈っているから大丈夫」。反対に、「最近十分に祈れていない」「奉仕ができていない」「信仰者としてふさわしくない」。そのように、自分の行いによって安心したり、不安になったりすることがあります。もちろん、礼拝も祈りも奉仕も大切です。それらは信仰者の歩みに欠かせないもので す。しかし、それらは神に愛されるための条件ではありません。神に愛された者として生きる中で、自然 に結ばれていく実です。もし順番が逆になれば、信仰は喜びではなく重荷になってしまいます。神の恵み に応えて歩むはずが「もっと頑張らなければ神に受け入れていただけない」という思いに縛られてしまうのです。
 そのことを思うとき、一人のキリスト者の歩みが心に浮かびます。作家の三浦綾子です。 三浦綾子は二十代の頃に肺結核を患い、⾧い療養生活を送ることになりました。当時は特効薬もなく、13 年間も病床で過ごします。自由に働くこともできません。将来への希望も見えません。「何もできない自 分」に苦しみ続けたのです。それまで教師として働き、人の役に立つことに喜びを見いだしていた三浦綾 子にとって、「何もできない」という現実は自分の存在価値そのものを失うような経験でした。しかしそ の病床で聖書に出会い、教会の人々との交わりを通して、一つの大切なことに気づかされます。神は、「何 ができるか」によって人を愛されるのではないということです。健康であるから愛されるのでもありま せん。人の役に立っているから価値があるのでもありません。神は何もできず、弱さを抱えたままの私たちを、それでもなお愛してくださる。その神の愛を知ったとき、三浦綾子は自分を証明し続けなければな らない人生から解放されました。そして後に『氷点』をはじめとする数々の作品を書き、多くの人々に福音を伝える器として用いられていきます。その出発点は「何かができる自分」ではなく、「何もできない 自分を神が愛してくださった」という恵みでした。 私はこの三浦綾子の歩みは、今日のイエスの御言葉と重なるように思います。イエスは、「もっと努力 しなさい」「もっと立派になりなさい」と言うために、人の心を見つめられたのではありません。私たち が自分の行いを頼りに神の前へ立とうとすることをやめさせるためです。自分の正しさを積み上げても、 神の前では誰一人として完全ではありません。だからこそ、神は御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。私たちが築く義ではなく、キリストの義によって私たちを受け入れてくださるためです。 ですから、今日の説教題を「もう大丈夫」としました。それは、「これくらいで十分だから安心しなさ い」という意味ではありません。「あなたはもう何もしなくてよい」という意味でもありません。そうで はなく、「神に受け入れていただくために、自分の正しさを証明し続けなくても、もう大丈夫」というこ とです。私たちは、神に愛される資格を得るために礼拝へ来るのではありません。神に愛されている者として礼拝へ集められています。神に認められるために奉仕をする必要はなく、すでに受けた恵みへの感 謝として仕えているということに気づく。正しい人になったから神に近づけるのではなく、罪人のままで神に招かれ、キリストによって義とされるのです。 今日の御言葉は、私たちに「もっと頑張りなさい」という重荷を負わせるための言葉ではないのです。 「あなたは自分で自分を救おうとしなくてよい」という福音の招きです。神が求めておられるのは、行いを誇る人ではありません。神の恵みに信頼し、その恵みによって少しずつ心を変えられていく人です。その歩みこそが、イエスが今日私たちに示してくださった、「心からの義」に生きる道なのです。

関連記事

PAGE TOP