深谷教会聖霊降臨節第9主日礼拝2026年7月19日
司会:高橋和子姉
聖書:マタイによる福音書7章1~6節
説教:「豚に真珠」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-55,524
奏楽:野田周平兄
説教題:「豚に真珠」 マタイによる福音書7:1~6 佐藤嘉哉牧師
本日の聖書箇所は、マタイによる福音書7章1節から6節です。この箇所は、「人をさばくな」という イエスの言葉によって広く知られています。教会に⾧く通っている方はもちろん、聖書をあまり読んだ ことのない方でも、この言葉だけは耳にしたことがあるかもしれません。そして今日では、「人それぞれ 考え方が違うのだから、人を批判してはいけない」「他人のことに口を出してはいけない」という意味で、 この言葉が引用されることも少なくありません。しかし、イエスがここで語っておられることは、そのような一般的な寛容論ではありません。この言葉は、山上の説教全体の流れの中で聞くとき、本来の意味が 見えてきます。 これまでイエスは、「律法学者やパリサイ人の義にまさる義」を求めてこられました。それは、人から立 派だと思われるための生き方ではなく、神の前に真実に生きることです。怒りや憎しみ、欲望、偽り、施 しや祈り、富への執着、そして思い煩いに至るまで、イエスは人間の外側ではなく、その心を見つめてこられました。そして7章に入ると、その視線は「自分自身」から「他者との関わり」へと向けられます。 神の前に立つ者は、隣人をどのような目で見るのか。それが今日の主題です。 イエスはまず、「人をさばくな。自分もさばかれないためである」と語られました。 この「さばく」という言葉を聞くと、多くの人は、「善悪を判断してはいけない」という意味に受け取り ます。しかし、聖書全体を読むと、そのような意味ではないことが分かります。このあと7章15節で は、「にせ預言者に気をつけなさい」と命じられています。偽りを見抜くには判断が必要です。また教会 も、誤った教えや罪を何でも受け入れてよいとは教えていません。では、イエスが禁じておられる「さば き」とは何でしょうか。それは、自分が神であるかのように、人を断罪することです。私たちは相手の言 葉や態度を見て、「あの人はこういう人だ」と簡単に決めつけてしまいます。しかし、その人がどのよう な苦しみを抱え、どのような葛藤の中を歩み、神の前でどのように祈っているのかを、本当に知っておられるのは神だけです。それにもかかわらず、私たちは自分の経験や価値観を基準にして、人を評価し、結 論を下そうとします。イエスは、その場所は本来人間が立つべき場所ではないと教えておられるのです。 続いてイエスは、「あなたがたは、自分のさばくさばきでさばかれ、自分の量るはかりで量り与えられ る」と語られます。ここで語られているのは、単なる「因果応報」ではありません。最終的に人を裁かれるのは神です。終わりの日、神の前に立つとき、私たちは裁く者ではなく、裁かれる者です。そのことを 忘れてしまうと、人は知らず知らずのうちに、自分を神の立場へ置いてしまいます。しかし、この言葉は 私たちを恐れさせるためではありません。むしろ、自分もまた神の憐れみによって生かされていること を思い起こさせるための言葉です。自分が赦された罪人であることを知る者は、人を裁く前に、「私もまた神の憐れみによって今日ここに立たされている」と気づくようになります。そのとき初めて、人を見下ろすのではなく、同じ神の前に立つ者として隣人を見ることができるのです。 イエスは、そのことを一つの印象深いたとえによって語られます。あなたは、兄弟の目にあるちりは見 えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのか。」ここで「ちり」と訳されているのは、小さ な木くずのことです。一方、「梁」とは家を支えるほどの大きな木材を指します。そのような大きな梁が 目に入っている人など現実には存在しません。イエスは思わず笑ってしまうほど大胆なたとえを用いな がら、人間の姿を描いておられるのです。 私たちは不思議なほど他人の欠点には敏感です。小さな失敗や短所にはすぐに気づきます。しかし自分 のことになると急に甘くなります。自分の失敗には事情があり、自分の怒りには理由があると思います。 それなのに、他人には同じ寛容さを向けることができません。 この姿は、聖書の最初から描かれています。創世記でアダムは、「あなたがわたしと共におらせられた女 が」と言って責任をエバへ向けました。エバもまた、「蛇がわたしを惑わした」と答えます。人間は罪を 犯したとき、自分を省みるより先に、責任を他者へ向ける存在となってしまいました。だからイエスは、 「まず、自分の目から梁を取り除きなさい」と言われます。これは、自分の罪ばかり見つめて生きなさい という意味ではありません。まず神の前で自分自身を見つめなさい、という招きです。神の前で自分の弱 さや罪深さを知る者だけが、隣人を裁くのではなく、本当に支えることのできる者へと変えられていく のです。 私は、この御言葉を読むたびに思い出す出来事があります。大学生時代、京都教会で礼拝を守っていた 頃のことです。毎年一度、止揚学園の皆さんが教会に来られ、一緒に礼拝をささげ、交わりの時を持つ機 会がありました。正直に言えば、私はその交わりに積極的ではありませんでした。重い知的障がいのある 方々と接した経験がほとんどなく、どう接したらよいのか分かりませんでした。どこか気後れする気持 ちがあり、できることなら参加しなくてもよいのではないか、とさえ思っていました。ところが、その年 は交わりの時間の余興を頼まれました。着ぐるみを着てギターを弾き、一緒に歌う役目です。そのため礼 拝にも交わりにも参加することになりました。 演奏が始まると、目の前におられた止揚学園の皆さんは、本当にうれしそうな表情でこちらを見つめ、 一緒に歌い、手をたたき、全身で喜びを表してくださいました。その姿を見ながら、私は不思議な思いに なりました。「私は、何を恐れていたのだろう。」そう思ったのです。私はそれまで相手のことを知らない まま、「どう接したらよいのだろう」「きっと大変なのではないか」と、自分の思い込みで見ていました。 しかし、一緒に過ごす中で気づかされたのは、問題があったのは相手ではなく、私自身の見方だったとい うことでした。 私は、人から良く見られることや、立派な人間でありたいという思いに知らず知らずのうちに縛られて 生きていました。しかしその日、目の前で喜びを素直に表してくださる皆さんと時間を共にする中で、自 分のそうした生き方が問い直されました。あのとき、「まず自分の目から梁を取り除きなさい」というイ エスの言葉は、まさに私自身へ向けられているように思えました。私は相手のことが見えていないと思 っていました。しかし、本当に見えていなかったのは、自分自身の心だったのです。この経験を通して、 私は改めて思わされました。人は、自分では相手を見ているつもりでも、実際には自分の思い込みや価値 観という「物差し」を通して相手を見てしまうのだということです。そして、その物差しによって人を評 価し、「この人はこういう人だ」と決めつけてしまいます。しかし、神はそのようには人をご覧になりません。だからイエスは、「まず自分の目から梁を取り除きなさい」と言われたのです。その上で、イエス はさらに一つの難しい言葉を続けられます。「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。」 一見すると、「人をさばくな」という教えと矛盾しているようにも思えます。しかし、そうではありませ ん。当時のユダヤ人にとって、犬は町をさまよう野犬であり、豚は律法によって汚れた動物とされていま した。一方、「聖なるもの」とは神に献げられたものを指し、「真珠」は最も価値ある宝の象徴でした。教 会は古くから、この真珠を神の国の福音、あるいはキリストご自身のたとえとして理解してきました。 イエスは、「ある人には福音を伝えなくてよい」と言っておられるのではありません。そうではなく、 福音を力ずくで押しつけることは求めておられないのです。実際、イエスご自身も、拒み続ける人々を無 理やり従わせることはなさいませんでした。弟子たちを遣わしたときも、「受け入れない町があれば、足 のちりを払い落として出て行きなさい」と言われました。パウロもまた、福音を頑なに拒み続ける町では 争い続けることなく、次の町へ向かっています。つまり、ここでイエスが教えておられるのは、「裁くこ と」と「識別すること」は違うということです。裁くこととは、その人の価値や神との関係まで決めつけ ることです。それは神だけがお持ちになる権限です。しかし、識別することとは、神から与えられた知恵 によって、その時、その場で何が最もふさわしいかを見極めることです。教会は、愛があれば何でも受け 入れればよいという共同体ではありません。福音を福音として守るためには、真理を見分けることが必 要です。しかし、その判断は決して人を見下すためではなく、人を生かすために用いられなければなりま せん。 私たちは、この二つを混同しやすいのです。「人をさばくな」と聞くと、「何も判断してはいけない」と いう意味に受け取ってしまうことがあります。しかし、それはイエスの意図ではありません。イエスは、 人を断罪することを禁じられました。しかし同時に、神から委ねられた真理を大切にすることも教えら れました。そして、その両方を支える土台となるのが福音です。私たちは、自分の正しさによって神に受 け入れられるのではありません。イエス・キリストの十字架によって赦され、神の子として迎え入れられ た者です。 神は、私たちの罪を見て「この者には価値がない」と切り捨てられたのではありません。私たちの罪をす べてご存じでありながら、それでも御子を十字架にお与えになるほど、私たちを愛してくださいました。 私たちは、自分の目には見えないほど大きな「梁」を抱えた者でした。しかし神は、その梁だけをご覧 になったのではありません。キリストにあって、「あなたはわたしの愛する者だ」と呼びかけてください ました。だからこそ、私たちも隣人を見る目が少しずつ変えられていくのです。自分が神の憐れみによっ て生かされていることを知る者は、人を裁くことで自分の正しさを証明しようとはしません。むしろ、自 分も相手も、共に神の憐れみの中に生かされている存在であることを覚えながら歩むようになるのです。 私たちは、この御言葉を教会の中で、また日々の生活の中で、どのように受け止めればよいのでしょう か。教会には、さまざまな人が集います。信仰生活の⾧い人もいれば、最近教会へ来るようになった人も います。年齢も、性格も、歩んできた人生も、それぞれ違います。そのような中では、ときに相手の言葉 や行動が気になり、「どうしてあの人は」と思ってしまうことがあります。口には出さなくても、心の中 で評価してしまうことは、誰にでもあるでしょう。そのような私たちに、イエスは今日も「まず、自分の 目から梁を取り除きなさい」と語りかけてくださいます。それは、「自分を責め続けなさい」ということ ではありません。神の前に立ち返りなさいという招きです。相手を見つめる前に、自分自身も神の憐れみ によって今日ここに立たされていることを思い起こしなさい、という招きなのです。 考えてみれば、私たちもまた、多くの人に忍耐され、赦され、支えられて今日まで歩んできました。そして何より、神はそのような私たちを見捨てることなく、御子イエス・キリストを十字架へ遣わしてくださいました。 神は、私たちの罪をご存じでした。私たちの高慢も、自分では気づいていない「梁」も、すべてご存じ でした。それでも神は、私たちを退けることなく愛してくださいました。 だから私たちは、神の前に立つことができます。私たちが救われるのは、自分の正しさによってではあり ません。人を裁かなかったからでもありません。キリストが私たちのために十字架にかかり、罪を担って くださったからです。その福音に生かされる者は、人を見る目も少しずつ変えられていきます。相手の欠 点を探す前に、「この人もまた神が愛しておられる一人なのだ」と思い起こすようになります。すぐに結 論を下すのではなく、神がこの人にも働いておられることを信じて待つことができるようになります。 それは、人に無関心になることではありません。必要な助言をしなければならないときもあるでしょう。 誤りを見過ごしてはならない場面もあります。しかし、その言葉は相手を打ち負かすためではなく、共に キリストへ向かって歩むための言葉でなければなりません。私たちは裁き主ではなく、同じように神の 恵みによって生かされている者だからです。 そして、六節の「豚に真珠」という言葉も、私たち自身への問いとして受け止めたいと思います。私た ちは、この福音を本当に「真珠」として受け取っているでしょうか。毎週礼拝で語られる御言葉を、聞き 慣れた言葉として聞き流してはいないでしょうか。神の赦しを当たり前のものと考え、自分の考えや価 値観の方を優先してしまうことはないでしょうか。 福音は、人間が考え出した教えではありません。神が御子イエス・キリストを通して与えてくださった、 かけがえのない宝です。その価値は、十字架によって神ご自身が示してくださいました。だから教会は、 人を裁き合う場所ではありません。神の赦しを受けた者たちが、共に神の前に立ち、共にキリストに従って歩む共同体です。互いの欠点を数え合うのではなく、自分自身も神の憐れみによって立たされている ことを覚えながら歩む群れです。 イエスは、「人をさばくな」と語られました。それは、人との関わりを避けなさいということではありま せん。神だけが裁き主であることを忘れず、自分もまた赦された罪人として隣人に向き合いなさいという招きです。そして、「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな」と語られたのは、福音 がそれほどまでに尊い宝だからです。 この一週間も、誰かを評価する言葉よりも、まず神の前で自分自身を省みる祈りが、私たち一人ひとり に豊かに与えられますように。そして、自分を赦してくださったキリストの憐れみを覚え、その憐れみを もって隣人に向き合う者として歩んでまいりましょう。そのような教会を通して、神は今も、この世界に 福音の光を輝かせてくださるのです。