深谷教会聖霊降臨節第11主日礼拝2026年8月2日
司会:山口奈津江姉
聖書:マタイによる福音書8章5~13節
説教:「異邦人の救い」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-415,371
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「異邦人の救い」 マタイ福音書8:5~13 佐藤嘉哉牧師
本日の聖書箇所は、マタイによる福音書8章5節から13節です。説教題を「異邦人の救 い」としました。この箇所には、カペナウムに住む一人の百人隊⾧が登場します。百人隊⾧ とは、ローマ軍の軍人です。つまり、ユダヤ人ではありません。当時のユダヤ人にとって、 ローマ人は自分たちの国を支配している異邦人でした。そのような百人隊⾧がイエスのもとに来て、自分の僕が病気で苦しんでいるので助けてほしいと願います。そしてイエスは、 この百人隊⾧について「イスラエルの中にも、これほどの信仰を見たことがない」と言われ ました。さらに、「多くの人が東から西から来て、天国でアブラハム、イサク、ヤコブと共 に宴会の席につく」と語られます。ここで語られているのは、単に一人の病人が癒されたと いう出来事ではありません。神の救いは誰に与えられるのか、誰が神の国に属するのかとい う問題が、この短い物語の中で語られているのです。 この出来事が置かれている場所にも意味があります。マタイによる福音書5章から7章 には、山上の説教が記されています。そこでイエスは、神の国に生きる者とはどのような者なのかを語りました。そして8章に入ると、そのイエスが実際に人々の苦しみのただ中へ入っていき、病を癒し、悪霊を追い出していきます。つまり、山上の説教で語られた神の国が、具体的な人間の生活の中に現れ始めるのです。その重要な出来事の一つとして登場するのが、異邦人である百人隊⾧です。これは、イエスによってもたらされる神の救いが、人間の考えていた境界線を越えて広がっていくことを示しています。 百人隊⾧はイエスに、「主よ、わたしの僕が家で中風になり、ひどく苦しんでいます」と訴えました。ここで注目したいのは、百人隊⾧が自分のために来たのではないということです。自分の僕が苦しんでいる。その苦しみを放っておくことができず、イエスのもとへ来ました。当時、奴隷や使用人の社会的な立場は決して高いものではありませんでした。それにもかかわらず、この百人隊⾧は僕の苦しみを自分の問題として受け止めています。自分には力があるから何とかできる、と考えたのではありません。自分の力ではどうにもならないから、イエスのところへ来たのです。 イエスは、「わたしが行ってなおしてあげよう」と答えます。ここでイエスは、百人隊⾧が異邦人であることを理由に拒みません。ローマ人だから近づいてはならないとも言いません。むしろ、すぐに「行ってなおしてあげよう」と言われます。ところが百人隊⾧は、それに対して、「主よ、わたしの屋根の下にあなたを入れる資格は、わたしにはありません。 ただ、お言葉をください。そうすれば、わたしの僕はなおります」と答えます。 私は、この「ただ、お言葉をください」という言葉を、この物語の中心として受け取りたいと思います。百人隊⾧は、自分の立場をよく知っていました。ローマ軍の軍人ですから、 人に命令する権威を持っています。しかし、その権威をイエスの前で振りかざすことはありません。「私はローマの軍人なのだから、私の願いを聞いてください」とは言わないのです。 「わたしの屋根の下にあなたを入れる資格は、わたしにはありません」と言います。その一 方で、イエスの権威を信じています。百人隊⾧は軍人ですから、権威というものがどういうものかを知っています。自分が兵士に「行け」と言えば、兵士は行きます。「来い」と言えば来ます。命令する者がそこへ行かなくても、命令は届きます。だから百人隊⾧は、イエス についても、「あなたが僕のところまで来てくださらなければならないわけではありません。 あなたが言葉をくだされば、それで十分です」と信じたのです。 ここには、信仰とは何かということがよく表れています。百人隊⾧は、自分に資格があると思ったからイエスに近づいたのではありません。自分の力ではどうにもならないことを知っていたからこそ、イエスの言葉に望みを置きました。自分自身を頼りにするのではなく、キリストを信頼したのです。そして、この言葉を聞いたイエスは、「イスラエルの中にも、これほどの信仰を見たことがない」と言われます。ここで私たちは、一つの大きな逆転を見ることになります。百人隊⾧は異邦人です。ユダヤ人から見れば、神の民であるイスラエル の外側にいる人です。ところが、その外側にいるはずの人が、イエスの前で「ただ、お言葉 をください」と言っている。一方で、神の民であることを自覚している人々の中に、イエスを信頼しない者もいるのです。 ここでイエスが問題にしているのは、ユダヤ人であることそのものではありません。イスラエルの歴史も、アブラハムとの契約も、律法も、神から与えられた大切なものでした。しかし、それらを持っていることによって、「自分は当然、神の国の内側にいる」と考えてしまうなら、それは信仰とは違います。神との関係を、自分の所属や立場によって保証できると思ってしまうことが問題なのです。だからこそ、イエスは続けて、「多くの人が東から西から来て、天国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」と語ります。東から 西からというのは、イスラエルだけではなく、世界のさまざまな場所から人々が神の国へ招かれることを表しています。アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくというのは、 神の救いが完成する終わりの日の祝宴を思わせる言葉です。神がイスラエルに与えられた救いの約束が、イスラエルだけに閉じられるのではなく、異邦人をも含む形で広がっていく。 そのことを、イエスは百人隊⾧という一人の異邦人を通して示しておられるのです。 しかし、ここで私たちはこの言葉を「異邦人も救われる。良かったですね」というだけの 話にしてはいけません。イエスはその直後に、「しかし、御国の子らは外のやみに追い出されるであろう」と、非常に厳しい言葉を語っています。なぜでしょうか。それは、「誰が神 の国に入るのか」という問題が、私たち自身にも向けられているからです。異邦人が神の国 に入ることを喜ぶだけなら、私たちはこの話を自分とは関係のないものとして聞くことが できます。しかし、イエスはそうさせません。「あなたはどうなのか」と問いかけているのです。 私たちも教会にいると、知らず知らずのうちに境界線を引くことがあります。教会に⾧くいる人と、最近来た人。信仰についてよく知っている人と、まだ何も分からない人。洗礼を受けている人と、まだ受けていない人。もちろん、教会には信仰告白があり、洗礼があり、 教会としての秩序があります。しかし、その違いをもって、「こちら側の人は神に近く、あ ちら側の人は神から遠い」と決めてしまうなら、百人隊⾧の物語が語っていることを見失い ます。神の救いは、私たちが作った境界線によって決まるものではないからです。百人隊⾧ は異邦人でした。それでもイエスは彼を拒まず、その信仰を認められました。そして「東から西から」人々が来て、神の国の食卓につくと言われました。 私たち自身も、神の国の内側にいることを当然のように主張できる者ではありません。私 たちを救う根拠は私たち自身の中にはないのです。だから、百人隊⾧の言葉が私たちにも必 要です。「主よ、わたしの屋根の下にあなたを入れる資格は、わたしにはありません。ただ、 お言葉をください。」これは、自分を卑下する言葉ではなく、救いを自分の力や功績に頼らないということです。キリストが私たちを受け入れてくださるという恵みによって立つの です。ここに「異邦人の救い」という今日の説教題の意味があります。異邦人とは、ユダヤ人から見れば、神の民であるイスラエルの契約共同体の外側にいる人々でした。だからこそ、 異邦人である百人隊⾧がイエスの前に立ち、その信仰を認められたことには大きな意味が あります。ここを読む私たちは、「異邦人が救われる」という出来事を外側から眺めるので はなく、私たち自身もまた、神の恵みによって招かれた者であることに気づかされます。私たちが今、キリストを信じ、教会で礼拝しているとしても、それは私たちが最初から神の国の内側にいたからではありません。神が私たちを招いてくださったからです。キリストが私 たちのところまで来てくださったからです。私たちが神を見つけたというよりも、神が私たちを見つけてくださったのです。 そうであるなら、私たちは他の人に対しても、「この人は神の救いから遠い」と簡単に決めつけることはできません。私たちがまだ神の恵みに触れていないと思っている人のところへも神の言葉は届きます。教会とは縁のないように見える人にも、キリストは働かれます。 私たちが「この人は無理だろう」と思うような人にも、神は道を開くことがおできになります。だから教会は、自分たちだけで救いを囲い込む場所となってはならないのです。神が招 いておられる人を、私たちが勝手に「外側の人」と決める場所ではなく、私たち自身が恵みによって招かれた者として、さらに人を主のもとへ招いていく場所です。 この百人隊⾧が自分のためだけにイエスのもとへ来たのではなかったことも覚えておきたいと思います。彼は苦しんでいる僕のために来ました。自分ではどうすることもできない人を、イエスの前に置いたのです。教会の祈りも、そこにつながっています。私たちは自分のためだけに祈るのではありません。家族のために祈り、苦しみの中にある人のために祈り、 教会から離れている人のためにも祈ります。その人自身が今、主のもとへ来ることができなくても、私たちはその人を主の前に置くことができます。 百人隊⾧がイエスの前で語った「ただ、お言葉をください」という言葉は、祈りの言葉でもあります。私たちには、自分ではどうすることもできないことがあります。自分の力では変えられない人間関係があります。家族の問題があります。教会のことについても、私たちの努力だけではどうにもならないことがあります。そのとき、私たちはすべてを自分の力で 解決しようとするのではなく、「主よ、ただ、お言葉をください」と祈ることができます。 最後にイエスは百人隊⾧に、「行け。あなたの信じたとおりになるように」と言われます。 そして、その時、僕は癒されました。イエスは百人隊⾧の家まで行く必要はありませんでした。イエスの言葉が届いたとき、そこに癒しが起こりました。ここで示されているのは、イエスの言葉の権威です。私たちの力が届かないところにも、主の言葉は届きます。私たちに は見えないところでも、主は働いておられます。
「異邦人の救い」という今日の説教題を通して、私たちは神の救いの広さを知らされます。 神の救いには、私たちが勝手に引いた境界線はありません。私たちが「この人は内側、この人は外側」と決めるより先に、神は一人ひとりを見ておられます。同時に、この物語は私たち自身にも問いを投げかけます。私たちは本当に神の国の内側にいることを、自分の資格によって考えていないでしょうか。教会にいること、⾧く信仰生活をしていることを、自分の 救いの保証にしていないでしょうか。百人隊⾧と共に、私たちも主の前に立ちたいと思いま す。「主よ、わたしの屋根の下にあなたを入れる資格は、わたしにはありません。ただ、お言葉をください」と。だからこそ私たちは、自分が神の国の内側にいることを誇るのではなく、恵みによって招かれた者として歩みたいと思います。そして、自分たちの周りにいる人を「外側の人」と決めつけるのではなく、その人のためにも祈り、その人にも神の恵みが届 くことを信じたいと思います。 百人隊⾧の「ただ、お言葉をください」という言葉を、私たち自身の祈りとして受け取りましょう。私たちには、自分の力ではどうにもできないことがあります。しかし、私たちの力が届かないところにも、主の言葉は届きます。だから私たちは、自分の資格ではなく、主 の恵みに信頼して歩みます。そして、自分で引いた境界線を越えて働かれる神を信じ、私たちもまた、人を主のもとへ招く者として歩んでいきたいと思います。