「種と天」マタイによる福音書13:24~43

深谷教会聖霊降臨節第16主日礼拝2026年9月6日
司会:高橋和子姉
聖書:マタイによる福音書13章24~43節
説教:「種と天」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-444,386
奏楽:杉田裕恵姉

            説教題:「種と天」佐藤嘉哉牧師
             マタイ福音書13:24~43

 本日の聖書箇所は、マタイによる福音書13章24節から43節です。この箇所には、イエ スが語られた「毒麦のたとえ」が記されています。ある人が畑に良い種を蒔きました。とこ ろが、夜の間に敵がやって来て、麦の中に毒麦を蒔いていきます。やがて芽が出て実を結ぶ ようになると、僕たちは主人のところへ行き、「毒麦が混じっています。行って抜き集めま しょうか」と尋ねます。すると主人は、「いや、毒麦を抜こうとして、麦まで一緒に抜くか もしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えます。そして刈り 入れの時になったら、毒麦を集め、麦を倉に入れるように命じます。このたとえを聞いた弟 子たちが、後になってイエスにその意味を尋ねると、イエスは「畑は世界である」と説明さ れます。良い種とは御国の子ら、毒麦とは悪い者の子らであり、刈り入れとは世の終わりで ある。つまり、このたとえは、私たちが生きているこの世界に、なぜ善と悪が混在している のか、そして最後に神はそれをどうされるのかということを語っているのです。 私たちは、この世界を生きていて、「どうして神は悪をそのままにしておられるのだろう」 と思うことがあります。神がおられるなら、なぜ悪いことが起こるのか。なぜ人を傷つける 人がいて、不正をする人がいて、真面目に生きている人が苦しむことがあるのか。神がすべてを御存じであるなら、どうしてすぐに悪を取り除いてくださらないのか。これは、昔から 多くの人が抱いてきた問いです。イエスはこの問いに対して「毒麦のたとえ」を語られまし た。主人は良い種を蒔きました。しかし、その後で敵が来て毒麦を蒔きました。つまり、悪 が存在するのは、神が悪を造られたからではありません。神の御業が失敗したからでもありません。神が良い種を蒔かれた畑の中に、神に敵対する力によって毒麦が蒔かれたのです。 そして、その結果として良い麦と毒麦が同じ畑の中で成⾧することになりました。 ここで私たちが注目したいのは、主人が毒麦を見つけたときの態度です。僕たちは「毒麦 があるなら、すぐに抜いてしまいましょう」と考えました。これはある意味では当然のこと です。悪いものがあるなら取り除けばよい。間違っているものがあるなら正せばよい。私たちはそう考えます。しかし主人は「いや、毒麦を抜くな」と言いました。なぜでしょうか。 それは毒麦を抜こうとして、麦まで一緒に抜いてしまうかもしれないからです。ここには、 人間には最終的な善悪を完全に見分けることができないということが示されています。 私たちは人を見て「あの人は良い人だ」「あの人は悪い人だ」と判断します。教会の中で も「あの人は信仰深い」「あの人は信仰が足りない」「あの人は教会にふさわしい」「あの人 は問題がある」と、人を評価してしまうことがあります。そして一度、「あの人はこういう 人だ」と決めてしまうと、その人の悪いところばかりが目につくようになります。けれども、 私たちが見ているのは、その人の人生のほんの一部分です。その人が何を背負っているのか、 何に苦しんでいるのか、どのような思いで今日を生きているのか、私たちにはすべて分かる わけではありません。それにもかかわらず、私たちは簡単に人を裁き、その人について最終 的な判決を下そうとしてしまいます。 だからこそ、このたとえで大切なのは、「毒麦とは誰なのか」と考えることではありませ ん。むしろ、「なぜ主人は、僕たちに毒麦を抜かせなかったのか」ということです。イエス は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われました。そして、刈り入れをするのは僕たちではありません。主人が刈り入れの時を定め、その時に刈り入れる者を 遣わします。イエスの説明によれば、その刈り入れとは世の終わりです。最後の裁きは神の ものなのです。これは私たちにとって非常に大切なことです。なぜなら私たちは、人を裁く ことに熱心になりやすいからです。誰が正しいのか、誰が間違っているのか、誰が悪いのか。 私たちはそれを決めたくなります。しかしイエスは、「最後に裁くのはあなたではない」と 言われます。あなたが毒麦を抜くのではない。最後にすべてを見分け、裁くのは神である。 だからこそ、私たちは自分が神の立場に立つことを慎まなければなりません。 もちろん、この言葉は悪いことを放っておけばよいという意味ではありません。誰かが他 の人を傷つけているなら、それを止める必要があります。不正があるなら、それに向き合う 必要があります。教会の中で誰かが苦しんでいるなら、その人を守る必要があります。しか し、それと「その人は神の前でもう駄目な人間だ」と最終的に決めることとは違います。私 たちは、その人の行為について判断しなければならないことがあります。しかし、その人自 身の最終的な価値や救いについて、神に代わって判決を下すことはできません。 ここで私たちはもう一歩深く、このたとえを自分自身に向けて聞きたいと思います。私た ちは「毒麦は誰なのか」と考えるとき、無意識のうちに「自分は麦の側にいる」と考えてい ます。しかし、最後の裁きの日に神の前に立つのは、毒麦だけではありません。私たち自身 もまた、神の前に立つのです。「あの人はどうなのか」と考えていた私たちが、「あなたはど うなのか」と問われるのです。 これは私たちにとって厳しいことです。私たちにも人を裁いた経験があります。心の中で 誰かを見下したことがあります。自分の方が正しいと思ったことがあります。言葉に出さな くても、心の中で「あの人は間違っている」と決めつけたことがあります。私たちは、自分 では正しい側にいるつもりでも、神の前に立つならば、自分自身もまた赦しを必要としてい る者であることに気づかされます。だからキリスト教の信仰は、「私は良い人だから神に受 け入れられる」というものではないのです。むしろ、「私は神の前に立つならば、赦しを必 要としている。しかし、その私を神はキリストによって受け入れてくださる」という信仰で す。 ここで私たちは十字架を見ることになります。イエス・キリストは、罪のないお方であり ながら、十字架において私たちの罪を負ってくださいました。私たちが自分の正しさを証明 して神の前に立つのではなく、キリストの十字架によって与えられる赦しを受けて神の前 に立つのです。だからこそ、私たちは人を裁くことから少しずつ自由にされていきます。「私 は正しい。あの人は間違っている」と言い続ける必要がなくなります。なぜなら自分自身も また、神の恵みによって生かされている者だからです。 そして、このたとえにはもう一つ大切なことがあります。それは、「刈り入れまで」という言葉です。イエスは今すぐすべてが完成するとは言っておられません。今はまだ麦と毒麦 が一緒に育っています。神の国が来たからといって、世界から悪がなくなったわけではあり ません。むしろ神の国が始まったこの世界には、今なお罪と悪が存在しています。しかし、 それは永遠に続くのではありません。刈り入れの時が来るのです。 このことは、私たちに大きな希望を与えます。私たちは今の世界だけを見ていると、「結 局、悪いものが勝つのではないか」と思ってしまうことがあります。正しく生きても報われ ないことがあります。愛しても裏切られることがあります。誠実に生きようとしても、そう ではない人の方が得をしているように見えることがあります。しかしイエスは、この世界の 現在だけを見てはいけないと言われます。最後には神の裁きがある。そして神の国が完成する。そのことを見据えて、今を生きなさいと言われるのです。 だから今日の説教題を「種と天」としました。私たちの目の前には、種が蒔かれた畑があります。それは私たちが生きている世界であり、私たち自身の人生でもあります。そこには 良いものがあります。しかし同時に悪もあります。私たちはその現実から逃げることはでき ませんが、聖書が私たちに示しているのは、畑だけではないのです。その先に「天」があり ます。イエスは43節で、「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」と言われました。今はまだ、すべてが完成しているわけではありません。しかし最後には、神の国 が完成する。神に属する者たちは父の国に迎えられる。その希望をイエスは語ってくださっています。ですから私たちは、今の世界を見て絶望する必要はありません。また世界の悪を 見て、私たち自身が神のように裁く必要もないのです。神はすべてをご存じです。神は最後 の裁きをなさいます。そして私たちは、その裁きを神に委ねることができます。その一方で、 私たちは自分自身を神の前に置きます。私もまた裁かれる者である。しかし、その私のため にキリストが十字架にかかってくださった。私は自分の正しさではなく、キリストの恵みに よって神の前に立つ。そのことを覚えるのです。 だからこそ私たちは今日を生きることができます。誰かを毒麦として見つけ出すためで はなく、自分の中に蒔かれた神の言葉を大切にするために。誰かを裁くためではなく、その 人のために祈るために。自分が正しいことを証明するためではなく、キリストによって赦された者として歩むために。神の国の種は、私たちが気づかないところでも成⾧しています。 今はまだ畑の途中です。だから、すべてが分かるわけではありません。なぜこんなことが起 こるのか、なぜあの人があのようなことをするのか、なぜ神はすぐに答えてくださらないの か、分からないことがあります。でも、分からないことを神に委ねることもまた、信仰なの だと思います。私たちは刈り入れの時を決める者ではありません。最後に裁く者でもありま せん。私たちは、神から蒔かれた種を受け取り、その種を育てられる神を信じて歩む者です。 「種と天」。種は、今ここにあります。からし種やパン種のように目には見えないくらい 小さな種であっても、確かにここにあり、刈り入れの時には広がっているのです。そして天 は、私たちがまだ見ていない完成です。その間を私たちは生きています。ですから、焦って 人を裁くのではなく、神に委ねていこうではありませんか。自分自身を神の前に置こうでは ありませんか。その私たちのためにキリストは十字架にかかってくださいました。そして最 後には父の国があります。 「耳のある者は聞きなさい」とイエスは言われます。この言葉を今日、私たち自身への言 葉として聞きたいと思います。毒麦を探すためではなく、神の恵みを受け取るために。人を 裁くためではなく、自分自身を神の前に置くために。そして、まだ完成していないこの世界 の中で、それでも神の国を信じて歩むために。刈り入れの時を神に委ね、キリストの十字架を見上げながら、父の国を待ち望んで歩んでまいりましょう。

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