「こうなったのは誰のせいか」ヨハネによる福音書9:1~12

深谷教会聖霊降臨節第5主日礼拝2026年6月21日
聖書:ヨハネによる福音書9章1~12節
説教:「こうなったのは誰のせいか」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-8
奏楽:野田周平兄

   説教題:「こうなったのは誰のせいか」 ヨハネ福音書9:1~12  佐藤嘉哉牧師

 本日の聖書には、生まれた時から目の見えない一人の人が登場します。イエスが道を歩いておられると、その人 が目に留まりました。すると弟子たちはイエスに尋ねます。「先生、この人が盲目に生れついたのは、だれが罪を 犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか。」当時のユダヤ社会には、苦しみや病には何らかの罪 が関係しているという考え方がありました。そのため弟子たちは、目の前の人を見ながら、その人自身ではなく 「なぜこうなったのか」という問題を見ています。誰が悪いのか、どこに責任があるのか、その原因を探ろうと しているのです。しかしイエスはその問いを受けながら、全く別の方向へと人々の目を向けられます。「本人が罪 を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現れるためである。」そし てイエスは地につばきをして泥を作り、その人の目に塗り、シロアムの池で洗うよう命じられました。その人が 言葉に従って行くと、見えるようになって帰って来ました。ところが周囲の人々は喜ぶどころか混乱します。「あ れは物乞いをしていた人ではないか」「いや違う」と言い争います。しかし本人は「そうです。わたしです」と答 えます。ここにはすでにヨハネ福音書の大切な主題が現れています。見えるようになった人は真実を知っていま す。しかし見えているはずの人々の方が事実を理解できていません。ヨハネはこの出来事を通して、「本当に見え ている者とは誰か」という問いを私たちに投げかけているのです。
 弟子たちの問いは二千年前の人々だけの問いではありません。私たちもまた同じ問いを抱いて生きています。 病気になると、なぜこんなことになったのかと考えます。事故や災害に遭うと、何が原因だったのかを探ります。 人間関係が壊れれば誰に責任があるのかを問います。苦しみを前にすると、人は理由を知りたくなるのです。そ して気づかないうちに、「こうなったのは誰のせいか」という問いへと向かっていきます。 聖書が語る罪とは何でしょうか。私たちは罪と聞くと、法律違反や道徳的な失敗を思い浮かべます。しかし聖 書が語る罪はもっと深いものです。旧約聖書で罪を表す言葉には、「的を外す」という意味があります。本来向か うべき方向から外れてしまうことです。神によって造られ、神との交わりの中に生きるよう招かれているにもか かわらず、自分を中心として生きようとする。その状態こそが罪です。
創世記3章でアダムとエバは神の言葉よりも自分たちの判断を優先しました。その結果、神との関係が壊れま す。そして興味深いことに、罪を犯した直後、二人は責任を他者へ向け始めます。神に問われたアダムは「あの 女が」と答え、エバは「あの蛇が」と答えます。罪とは単なる過ちではありません。神との関係を失った人間が、 自分を守るために他者を責め、責任を転嫁し、互いの関係を壊していく姿です。だから罪の問題は、人間の行為 だけでなく、人間存在そのものに関わる問題なのです。
 旧約聖書にはヨブという人物が登場します。ヨブは正しい人であったにもかかわらず、大きな苦難に襲われま した。財産を失い、家族を失い、自らの健康も失います。すると友人たちはやって来て言います。「あなたが苦し んでいるのは何か罪を犯したからだ。」彼らは苦しみと罪を直接結び付けました。しかしヨブ記全体を通して示 されるのは、その考え方の限界です。神は最後に友人たちの言葉を正しいとは認めませんでした。人間は苦しみ を見ると原因を求めます。しかし苦しみのすべてを罪の結果として説明することはできないのです。旧約聖書は そうしたメッセージに溢れています。そしてその中に神の愛、眼差し、希望が見えてくるのです。
 本日の聖書においても、弟子たちはまさにその過ちを犯しています。生まれつき目が見えないという現実を前 にして、彼の目が見えない原因は「本人か、親か」どちらの罪かと問いを立てました。しかしイエスはその問い 自体を退けられます。ここで私たちは大切なことを学びます。苦しみと罪を短絡的に結び付けてはならないとい うことです。もちろん罪が苦しみを生み出すことはあります。戦争も差別も搾取も、人間の罪によって生み出さ れる現実です。しかしすべての苦しみを個人の罪に帰することはできません。病気になったのは信仰が足りない からだ、困難に遭ったのは何か過去に悪いことをしたからだ、そのような考え方は福音ではありません。イエス は苦しむ人を裁くために来られたのではなく、その人を救うために来られたのです。だからこそイエスは言われ ます。「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである。」この言葉はしばしば誤解されます。まるで神が奇跡を起 こすためにこの人を盲人として生まれさせたかのように読まれることがあります。しかしそうではありません。 イエスは苦しみの原因について説明しているのではなく、苦しみの中で神が何をなさるかを示しておられるので す。弟子たちは過去を見ていました。しかしイエスは未来を見ておられました。弟子たちは責任を探していまし たが、イエスは救いを見ておられました。弟子たちは罪を論じていました。しかしイエスは神の働きを示そうと しておられました。そしてイエスは続けて、「わたしは世の光である」と言われます。ヨハネ福音書において光と は神の命、真理、救いを現わす最も大切な言葉です。暗闇とは神から離れた人間の現実であり、イエスはその暗 闇の中に来られました。だから盲人の目が開かれたという出来事は、単なる病気の治癒ではありません。世の光 であるキリストが一人の人を照らした出来事なのです。創世記の初めで神が「光あれ」と言われたように、キリ ストは暗闇の中に新しい創造をもたらされます。泥を用いて目を開かれたという行為もまた、人を土から造られ た創造の御業を思い起こさせます。キリストは失われた人間を新しく創り変えるために来られた方なのです。 ここでヨハネ福音書が私たちに問いかけているのは、「目が見えるかどうか」ではありません。「本当に見えて いる者とは誰か」ということです。後にこの盲人はイエスへの信仰へと導かれていきます。一方で宗教指導者た ちは、目が見えているにもかかわらずイエスを拒み続けます。肉体の目が見えていても、神の救いが見えていな いことがあります。反対に、弱さや苦しみを抱えていても、キリストを信じることによって真実を見ることがあ ります。信仰とは、目に見えない神の恵みを見出すことです。自分の力ではなく、神の光によって物事を見るこ となのです。
 私たちは人生の中で様々な苦しみに出会います。病を抱えることがあります。愛する人を失うことがあります。 努力が報われず、理不尽な現実に直面することもあります。その時、私たちは神に問います。「なぜですか。どう してですか。」その問いは決して間違いではありません。詩編にもそのような祈りは数多く記されています。しか しキリスト教の信仰は原因の解明によって成り立つものではありません。理由が分かったから救われるわけでは ないのです。神が共にいてくださることによって、人は苦しみの中でも歩み続けることができます。 私たちはしばしば宗教に答えを求めます。苦しみを取り除いてほしいと願います。問題を解決してほしいと祈 ります。しかしキリスト教はご利益宗教ではありません。
第二次世界大戦中のオランダに、コーリー・テン・ブームというクリスチャンの女性がいました。コーリーと その家族は、ナチスによる迫害からユダヤ人をかくまったために逮捕され、強制収容所へ送られます。そこで共 に捕らえられていた姉ベッツィーは、過酷な労働と飢え、病の中で衰弱していきました。収容所の環境は劣悪で、 先の見えない苦しみが続きます。なぜ自分たちがこのような目に遭わなければならないのか。なぜ神は助けてく ださらないのか。そのような問いが生まれても不思議ではありません。しかしベッツィーは絶望の中でなお神を 見上げ続けました。そして死を目前にした時、妹コーリーにこう語ったと伝えられています。「神の愛が届かない ほど深い穴はない。」収容所の現実は何一つ変わっていませんでした。苦しみの理由も説明されていませんでし た。しかしベッツィーは、苦しみの原因ではなく、その中に共におられる神を見ていたのです。 後に生き残ったコーリーは世界各地で証しをしました。そして多くの苦しみを経験した末に確信したのは、「な ぜこんなことが起きたのか」という問いへの答えではありませんでした。どれほど深い闇の中にも神は共におら れ、その愛は決して失われないということでした。ベッツィーが見ていたものは、苦しみの理由ではなく、苦し みの中で働かれる神の救いだったのです。 キリストは苦しみのない人生を約束されたのではなく、苦しみの中に共にいてくださることを約束されました。 そしてその約束を十字架によって示されました。神は人間の痛みを遠くから眺める方ではなく、自ら苦しみを担 われた方です。だから私たちは、「こうなったのは誰のせいか」という問いだけに留まる必要はなく、その問いの 先へ導かれているのです。この出来事の中で神は何をしてくださるのか。この悲しみの中で神はどのような希望 を与えてくださるのか。この暗闇の中で神はどのような光を照らしてくださるのか。そのことを求めて歩むとこ ろに信仰があります。苦しみの原因探しではなく、その中で神が何をしてくださるかを見ること。そこにこそキ リスト者の希望があります。
 イエスによって目を開かれた人のように、私たちもまた世の光であるキリストに照 らされながら歩んでいきたいと思います。

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