深谷教会聖霊降臨節第4主日礼拝2026年6月14日
司会:野田治三郎兄
聖書:ルカによる福音書11章5~13節
説教:「与えられるもの」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-289,407
奏楽:落合真理子姉
説教題:「与えられるもの」ルカによる福音書11:5~13 佐藤嘉哉牧師
先週、私たちはエペソ人への手紙4章から「追い求めるものは」という題で御言葉に聞きました。そこでは、私たちが追い求めるべきものとして、「平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を保ちなさい」というパウロの勧めに耳を傾けました。教会にはさまざまな人がいます。年齢も違います。歩んできた人生も違います。考え方も違います。しかし、その違いを抱えながらもキリストにあって結ばれ、一つの体として生きることこそ、私たちが追い求めるものであることを学びました。しかし、その説教の準備をしながら、そして礼拝で語りながら、改めて一つの問いを覚えました。果たして、そのような一致はどのようにして実現するのでしょうか。私たちは皆、不完全な人間です。相手を理解できないこともあります。意見がぶつかることもあります。傷つけられることもあれば、自分が誰かを傷つけてしまうこともあります。そのような私たちが、どうして一つの群れとして歩み続けることができるのでしょうか。
本日の聖書箇所は、その問いに対する答えを与えてくれます。ルカによる福音書11章は祈りについて語る箇所です。弟子たちはイエスに、「わたしたちにも祈ることを教えてください」と願いました。そこでイエスは主の祈りを教えられます。そしてその後に続くのが、本日のたとえ話です。ある人のもとに、真夜中に旅人が訪ねて来ました。当時の社会では旅人をもてなすことは重要な責任でした。しかし、その人の家には客に出せる食べ物がありません。そこで友人の家へ行き、「パンを三つ貸してください」と頼みます。ところが相手はすでに寝ています。戸締まりも済み、家族も休んでいます。当時の家は今のように部屋が細かく分かれておらず、家族が同じ場所で眠ることも珍しくありませんでした。一人が起きれば皆が目を覚ましてしまいます。そのため友人は、「面倒をかけないでくれ」と応じようとしません。これは決して冷たい反応ではありません。むしろ人間的には当然の反応です。しかしイエスは、この友人は友情ゆえに起きるのではなく、しつように願い続けるその姿を見て起き上がり、必要なだけ与えるだろうと言われました。このたとえはしばしば、「熱心に祈れば願いがかなう」という意味で読まれます。諦めずに祈れば神が聞いてくださる。粘り強く願えば神が応えてくださる。そのような理解です。もちろん、祈り続けることの大切さはここに含まれています。しかし、このたとえの中心はそこにありません。なぜならイエスは最後に、この話の結論を自ら語っておられるからです。
「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすればあけてもらえるであろう。」この御言葉はとても有名です。しかし私たちは時として、この部分だけを取り出してしまいます。そして、自分の願いが実現することを期待します。ところがイエスはその後、父親と子どもの関係を語られます。魚を求める子どもに蛇を与える父親がいるだろうか。卵を求める子どもにさそりを与える父親がいるだろうか。そのような親はいません。未熟な人間であっても、自分の子どもには良いものを与えようとします。それならば天の父はなおさらではないか、とイエスは言われます。
そして最後にこう結ばれます。「天の父は求める者に聖霊を下さらないことがあろうか。」ここに本日の箇所の中心があります。イエスは、求める者には欲しい物が何でも与えられると言われたのではありません。求める者に聖霊が与えられると言われたのです。
この御言葉をさらに深く理解するために、ルカによる福音書が書かれた背景にも目を向けてみたいと思います。
ルカによる福音書は、伝統的には、使徒パウロの伝道旅行に同行したルカによって記されたと考えられています。ルカ自身はユダヤ人ではなく異邦人であった可能性が高いと言われています。そのため、この福音書はユダヤ人だけではなく、広く異邦人に向けても書かれています。また、ルカがこの福音書を書いた時代、教会はすでに大きな転換期を迎えていました。イエスの十字架と復活から数十年が経ち、最初の弟子たちも高齢となり、すでに殉教した者もいました。さらに紀元70年にはエルサレム神殿がローマ軍によって破壊されます。人々は大きな不安の中にありました。主は本当に共におられるのだろうか。教会はこれからどうなるのだろうか。そのような問いを抱えていたのです。そのような時代にルカは、イエスがどのようなお方であったのかを改めて書き記しました。そして特に強調したのが、祈りと聖霊です。ルカ福音書には、祈るイエスの姿が他の福音書以上に描かれています。また、その続編である使徒行伝では、聖霊が教会を導き、福音を世界へ広げていく姿が語られています。
つまりルカは、不安な時代を生きる教会に向かって、「あなたがたは一人ではない」と伝えたかったのです。主は今も生きておられる。そして求める者には聖霊が与えられる。その約束によって教会は支えられていく。その確信が、この福音書全体を貫いているのです。
私たちは多くのことを祈ります。病気の回復を願います。生活の支えを願います。仕事や学びの祝福を願います。人間関係の改善を願います。家族の平安を願います。それらはすべて大切な祈りです。私たちはどのようなことでも神に申し上げてよいのです。しかしイエスは、そのような願いのさらに奥にある神の御心を示してくださいました。神が私たちに与えたいと願っておられる最も大きな賜物は聖霊なのです。
考えてみれば、聖書全体がこのことを語っています。神は何かを与えるだけのお方ではありません。神ご自身を与えてくださるお方です。イスラエルの民をエジプトから導き出したときも、神は遠くから指示を与えただけではありませんでした。荒れ野を共に歩まれました。預言者たちを遣わし、ご自身の言葉を語られました。そしてついには御子イエス・キリストをこの世界へ送られました。神は人間の歴史の中へ入って来られたのです。キリストは十字架にかかり、復活され、天に昇られました。しかしそれで終わりではなく、聖霊を送ってくださり、今もなお神は聖霊によって私たちと共にいてくださいます。ですから神が与えようとしておられる最高の贈り物とは、成功や繁栄ではなく神ご自身の霊なのです。
そしてここで、先週のエペソ書の御言葉が思い起こされます。パウロは「御霊の一致を保ちなさい」と語りました。教会を本当に一つにするものは何でしょうか。同じ考え方でしょうか。同じ趣味でしょうか。同じ世代でしょうか。教会を一つにするのは聖霊です。私たちは皆違います。育った環境も、大切にしていることも、信仰の歩みも違います。その違いがあるからこそ、時には緊張も生まれます。しかしそれでも礼拝を共に守り、同じ主を見上げ、同じ福音に生かされているのは、聖霊が働いておられるからです。
私たちは自分の力だけで誰かを愛し続けることができるでしょうか。時にはできません。赦そうとしても赦せないことがあります。受け入れようとしても受け入れられないことだってあります。理解しようとしても理解できないことがあります。しかし聖霊は、そのような私たちの内に働かれます。そして私たちをキリストへと向かわせます。相手を見る視線を変え、共に生きる力を与えます。だから一致とは、人間が頑張って作り出す成果ではないのです。神から与えられる恵み。パウロが「一致を作りなさい」ではなく、「一致を保ちなさい」と語った理由もそこにあります。すでに神が与えてくださった一致がある。その恵みを大切にしながら歩み続けなさいということです。
本日の説教題は「与えられるもの」です。先週は「追い求めるものは」という題でした。この二つは別々のテーマではありません。むしろ一つの福音の両側面です。私たちはキリストを追い求め、御霊の一致を追い求め、平和のきずなに結ばれた教会を願います。しかし、それらは私たちが努力によって獲得するものではなく、神が先に与えてくださったものなのです。
考えてみれば信仰そのものがそうです。私たちが数ある宗教の内の一つの神を選んだと思いがちです。しかし聖書は、神が先に私たちを愛してくださったと語ります。私たちが神とキリストを求めるその前に、キリストが私たちを求めてくださいました。同じように私たちが一致を願うその前に、神が私たちをキリストの体として一つにしてくださいました。
そのことを考えるとき、一人のキリスト者の歩みが思い起こされます。南アフリカの聖公会大主教デズモンド・ツツです。南アフリカでは長い間、アパルトヘイトと呼ばれる人種隔離政策が続いていました。黒人と白人は分断され、多くの人々が差別と抑圧の中で生きていました。その制度が終わったとき、多くの人が恐れたのは報復でした。長年苦しめられてきた人々の怒りが爆発し、社会がさらに混乱するのではないかと考えられたのです。
そのような中でツツは、「真実和解委員会」の議長として働きました。被害者は受けた苦しみを語り、加害者は自らの罪を告白しました。そこには涙も怒りもありました。決して美しい話ばかりではありません。しかしツツは、人々に忘れることを求めず、復讐を正当化することをしませんでした。真実と向き合いながら、それでも和解への道を探ろうとしたのです。なぜそのようなことができたのでしょうか。それは人間の善意に期待していたからではありません。キリストによって和解させられた者として、神には人と人との間に新しい関係を生み出す力があると信じていたからです。ツツは「赦しなしに未来はない」と語りました。それは理想論ではなく、神が今も働いておられるという信仰の告白でした。
人間の目には不可能に見える一致があります。人間の努力だけでは乗り越えられない分断があります。今まさにその分断が私たちの生活の中に暗い影を落としています。しかし神がお与えになる聖霊は、人をキリストへと向かわせ、互いを結び合わせ、新しい歩みを始めさせます。私たちが求める一致もまた、そのような神の働きによって与えられるものなのです。だから祈りとは、神を説得する行為ではありません。神が与えようとしておられる恵みに向かって手を開くことです。主が「求めよ」と言われるのは、神が出し惜しみしているからではありません。与えようとしておられるからこそ求めなさいと言われるのです。
本日の御言葉は、祈る者への大きな励ましです。私たちの祈りは決して空しくありません。祈りの言葉がうまくまとまらない日もあります。何を祈ればよいか分からない日もあります。しかし天の父は私たちの声を聞いておられます。そして求める者に聖霊を与えてくださいます。
私たちが追い求めるものは、神がすでに与えてくださったものです。そしてこれからも与え続けてくださるものです。だから私たちは祈ります。聖霊を求めて祈ります。一致を求めて祈ります。キリストに結ばれることを求めて祈ります。その祈りの中で、神は今も教会を支え、導き、育ててくださいます。
主は約束しておられます。「天の父は求める者に聖霊を下さらないことがあろうか。」この約束を信じながら、与えられた恵みに感謝し、これからも与えられる恵みに希望を抱きつつ、キリストと共に歩んでまいりたいと思います。
祈ります。