「裁きの時」マタイによる福音書12:38~50

深谷教会聖霊降臨節第15主日礼拝2026年8月30日
司会:斎藤綾子姉
聖書:マタイによる福音書12章38~50節
説教:「裁きの時」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-523,579
奏楽:小野千恵子姉

            説教題:「裁きの時」佐藤嘉哉牧師 
              マタイ福音書12:38~50

 本日の聖書箇所は、マタイによる福音書12章38節から50節です。この箇所を読みますと、「裁き」という言葉が強く心に残ります。41 節には「ニネベの人々が、裁きの時には、この時代の人々と共に立ち、彼らを罪に定めるであろう」とあり、42節にも「南の女王が、 裁きの時には、この時代の人々と共に立ち、彼らを罪に定めるであろう」とあります。聖書 は、私たちが最後には神の前に立ち、自分の生き方について問われる時が来ることを語って います。これは、私たちが普段あまり考えたくないことかもしれません。日々の生活の中で は、自分が誰かを裁くことはあっても、自分自身が神の前で裁かれるということは、なかなか現実のこととして考えません。あの人は間違っている、この人の考え方はおかしい、あの 人は信仰者としてふさわしくない。私たちは人を見るときに、いつの間にか自分の中にある 物差しを使って、その人を測っています。そして、その物差しで人を測ることに慣れてしま うと、自分自身が神の前に立つ存在であることを忘れてしまいます。しかしイエスは今日の 御言葉を通して、私たちに「あなた自身も裁きの時を迎える」ということを思い起こさせて います。 以前説教で語りましたが、マタイによる福音書7章2節には、「あなたがたは、自分の裁 く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる」とあります。人を測るために使っていたその秤 が、いつか自分自身を測ることになる。これは非常に厳しい言葉です。人の欠点を見つける ことは、意外と簡単です。人の言葉遣い、態度、仕事の仕方、教会での振る舞い、信仰のあ り方。そして自分への接し方。私たちはそれぞれに「こうあるべきだ」という基準を持って います。そしてその基準から外れている人を見ると、「どうしてあの人はそうなのだろう」 と考えます。しかしそのとき私たちは、自分の基準を神の基準のように扱ってしまう危険が あります。自分の物差しを絶対的なものにして人を測り始めてしまうのです。 もちろん、聖書は善悪を見分けることを否定していません。イエスご自身も、今日の箇所 で人々の不信仰を厳しく語っておられます。何をしてもよい、何を信じてもよい、というこ とではありません。けれども、人を裁くということには、もっと深い問題があります。それ は、自分が裁く側に立ち、相手を裁かれる側に置いてしまうことです。そこには、自分自身 の罪を見つめる視線がなくなっています。 今日の箇所で、イエスのところに律法学者とパリサイ人がやって来ます。そして、「先生、 しるしを見せていただきたい」と言います。すでにイエスは多くの病人を癒し、悪霊を追い 出し、神の力を現していました。それでも彼らは、さらに「しるし」を求めます。自分たち が納得できる証拠を見せてほしいというのです。これは単なる好奇心ではありません。イエ スを自分たちの基準で評価しようとしているのです。「あなたが本当に神から来た者なら、 それを私たちに証明してみなさい」。そこには、イエスの上に自分たちが立っているような 姿勢があります。 しかし、イエスは「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われま す。そしてヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にい ることになると語られます。ここで示されているのは、イエスの十字架と復活です。人間が 求めるような、目を見張る奇跡によってイエスが神の子であることを証明するのではなく、 イエスは十字架へ向かわれ、死を通り、文字通り三日三晩墓に入れられ、その後復活される。 その出来事こそが、神が与える決定的なしるしなのです。 そしてイエスは、ヨナの時代のニネベの人々を取り上げます。ニネベの人々は、ヨナの宣 教を聞いて悔い改めました。さらに南の女王は、ソロモンの知恵を聞くために遠くからやって来ました。それに対して、イエスの目の前にいる人々は、ヨナやソロモンよりもまさる方 を目の前にしているにもかかわらず、イエスの言葉を受け入れようとしない。だからイエス は「裁きの時」という言葉を語られるのです。 ここで私たちは、少し立ち止まらなければなりません。私たちはこの言葉を聞くと、「あ の人たちはイエスを受け入れなかったから裁かれるのだ」と、すぐに他人の話にしてしまう ことがあります。しかし、この箇所は私たちにも向けられています。私たちも御言葉を聞いています。礼拝に来て、聖書を読み、祈り、讃美歌を歌っています。キリストについて聞く 機会も他の人よりはるかに与えられています。それでは、私たちは御言葉を聞いた者として、 どのように生きているのでしょうか。人を裁くとき、私たちは何を基準にしているのでしょ うか。そして、自分自身が神の前に立つということを、本当に覚えているでしょうか。 裁きの時は、誰か特別な人だけに訪れるものではありません。クリスチャンであれば裁き を免れる、ということでもないのです。教会に長く通っているから安心だということでもありません。牧師であろうと、⾧年教会を支えてきた人であろうと、初めて礼拝に来た人であろうと、すべての人が神の前に立ちます。私たちは皆、神によって造られ、神から与えられた人生を生きているからです。その人生について、最後には神の前で問われる時が来ます。 だからこそ、私は「裁きの時」という言葉を、誰かを脅すために使いたくありません。この 言葉は、まず私自身に向けられているからです。「あの人はどうなのか」と考える前に、「私はどうなのか」と問われる。人の信仰を評価する前に、「私は神の前でどう生きているのか」 と問われる。人の間違いを数える前に、「私はどれほど神の憐れみによって生かされている のか」と問われる。その視線を持つことが、聖書の語る悔い改めなのだと思います。 そして、ここから43節以下の「汚れた霊」の話がつながってきます。汚れた霊が人から 出て行き、その人の中が掃除され、整えられます。ところが、その家は空いたままでした。 すると汚れた霊は、さらに悪い七つの霊を連れて戻って来ます。そして、「その人の後の状 態は前よりも悪くなる」と言われます。 ここで問われているのは、私たちの内側を何で満たすのかということです。人間は、悪い ものを取り除けば、それだけで神の前に生きられるようになるわけではありません。怒りを 捨てればよい。人を妬まなければよい。悪口を言わなければよい。人を裁かなければよい。 もちろん、それらは大切なことです。しかし、それだけでは私たちの心は空っぽになります。 空いたところに何を置くのかが問われます。そこで必要になるのが、神です。キリストです。 御言葉です。私たちの内側を神によって満たしていただくことです。人を裁く心を捨てるだ けではなく、神の憐れみを受けて、その憐れみの中に生きる。自分の正しさを手放すだけで はなく、キリストの義に生かしていただく。自分の物差しで人を測ることをやめるだけでは なく、神の前に自分自身を置き直す。そうして初めて、私たちの生き方は変わっていきます。 そして最後に、イエスの母と兄弟たちが登場します。人々が「あなたのお母さんと兄弟た ちが外に立っていて、あなたに話そうとしています」と伝えると、イエスは「わたしの母と はだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言われます。そして弟子たちを指して、「見なさい。 ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と語られます。「天の父の御心を行う人こそ、わ たしの兄弟、姉妹、また母なのである」と。 ここで、今日の箇所全体が一つにつながります。人間はイエスにしるしを求めます。自分 の基準でイエスを測ろうとします。しかしイエスは、十字架と復活というしるしを示されま す。そしてそのイエスの言葉を聞いた者は、ただ知識として受け取るのではなく、「天の父 の御心を行う人」として生きるよう招かれます。人を裁くことに心を向けていた私たちが、 神の御心を行うことへと向きを変えられるのです。 裁きの時は来ます。私たちも神の前に立ちます。そのことを、私たちは忘れない方がよい と思います。誰かを裁くときにも、誰かの間違いを指摘するときにも、「自分も神の前に立 つ」ということを覚えていたいのです。自分が人を測るとき、その同じ秤で自分も測られる。 自分が人に厳しい目を向けるとき、自分もまた神の前に立つ。その現実を知るならば、私たちは少しずつ、人を見る目が変えられていくのではないでしょうか。 しかし、ここで終われば、今日の御言葉はただ恐ろしい話になってしまいます。聖書が私 たちに示しているのは、裁きの事実だけではありません。裁きの時を迎える私たちのために、 主イエスがすでに歩み始めてくださっているということです。人々が「しるしを見せてほし い」と求めたとき、イエスが示されたのは十字架と復活でした。イエスは、裁きの時を迎え る私たちを見捨てて、ご自分だけ安全な場所に立っておられたのではありません。私たちの 罪を背負うために、十字架へ向かわれました。私たちは、人を裁くことがあります。人を自 分の物差しで測ることがあります。自分の正しさに固執することがあります。神の御心より も自分の判断を優先することがあります。そのような私たちを、神はご存じです。それでも 主イエスは、私たちのために十字架へ向かわれました。だから私たちは、裁きの時を考える 際、ただ恐怖に立ち尽くす必要はないのです。自分の罪を認め、その罪を主の前に差し出し、 十字架で示された神の赦しを信じることができます。 裁きの時を覚えることは、他人を厳しく見るためではありません。自分自身を神の前に置くためにあるのです。そして、自分も赦されなければならない者であると知るとき、私たち は他者を見る目を変えられていきます。あの人にも罪がある。そのことを考える前に、私に も罪がある。あの人にも赦しが必要である。そのことを考えるとき、私にも赦しが必要である。そして、その私たちのために主イエスは十字架へ向かわれた。このことを覚えたいと思 います。 裁きの時は来ます。その時、私たちは一人ひとり神の前に立ちます。今の日本では、人に向 けられる視線がとても厳しくなっています。毎日のように「炎上」という言葉を聞き、誰か の失敗や言葉を大勢の人が責め立てます。世界を見ても、人と人とが憎み合い、争い、互い を裁き続けています。神は、このような世界をどのように見ておられるのでしょうか。そして私たちは、その「裁きの時」を意識して日々を歩んでいるでしょうか。人を裁く側にいる と思っていた私たちも、いつか神の前に立ちます。その私たちのために、主イエスは十字架 へ向かわれました。だからこそ、自分の物差しで人を測る生き方から離れ、神の憐れみによって生かされる者として歩みたいと思います。裁きの時を覚え、赦しを信じ、隣人を見る。
その歩みを、主イエス・キリストと共に続けていきたいと思います。

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