「神は憐れんでくださる」ルカによる福音書18:1~14

深谷教会聖霊降臨節第6主日礼拝2026年6月28日
司会:山口奈津江姉
聖書:ルカによる福音書18章1~14節
説教:「神は憐れんでくださる」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-210,530
奏楽:野田治三郎兄

   説教題:「神は憐れんでくださる」 ルカによる福音書18:1~14  佐藤嘉哉牧師

 本日の聖書箇所は、ルカによる福音書18章1節から14節です。この箇所には、「やもめと不正な裁判 官」と「パリサイ人と徴税人」という二つの譬えが続けて語られています。一見すると、一つ目は祈りに ついて、二つ目はへりくだりについての教えのように思えます。しかし、イエスはこの二つを続けて語ら れました。それは、どちらも「終わりの日を待ち望む神の民は、どのように生きるのか」という一つのテ ーマを語っているからです。 この譬えが語られた背景には、17章でイエスが語られた「人の子の日」があります。神の国はすでに 始まっています。しかし、その完成はまだ先です。この世界にはなお苦しみや不正が残り、神を信じて歩 んでいても、祈りがすぐに聞かれないように思えることがあります。そのような中で、神を信じる者は何 を支えとして歩めばよいのでしょうか。その問いに答えるために、イエスは二つの譬えを語られました。 まず一つ目の譬えです。ある町に、一人のやもめがいました。当時のやもめは、社会の中でも最も弱い 立場に置かれた人々でした。生活を支える者もなく、自分の権利を守ることも難しい存在でした。そのや もめが、一人の裁判官のもとへ何度も通い、「どうぞ相手から守って、わたしを正しく裁いてください」 と願い続けます。しかし、その裁判官は「神を恐れず、人をも人とも思わない」人物でした。正義よりも 自分の都合を優先する人です。当然、やもめの訴えにも耳を貸そうとはしません。それでも、やもめは諦 めませんでした。何度も何度も訴え続けます。ついに裁判官は、その願いを聞き入れます。しかし、それ は正義を愛したからではありません。あまりに何度も訴えに来るので、面倒になったからです。原文では 「わたしの顔を殴る」という印象的な表現が用いられています。「これ以上付きまとわれてはたまらない」 という意味の比喩です。裁判官は、自分が煩わされないために裁きを行いました。 ここで大切なのは、この裁判官が神を表しているのではないということです。むしろ神とは正反対の存 在として描かれています。イエスが伝えようとされたのは、「まして神は」ということです。このような 不正な裁判官でさえ願いを聞くのであれば、まして正義と愛に満ちた神が、ご自分の民の祈りに耳を傾 けないはずがありません。だからイエスは、「神は昼も夜も叫び求めている選民のために、いつまでもほ うっておかれることがあろうか」と語られます。 神が祈りを聞かれるのは、私たちの熱心さや祈りの上手さによるのではありません。神が私たちをご自 分の民として愛しておられるからです。祈りとは、その神への信頼を表す歩みなのです。しかし、ここで 私たちは疑問を抱きます。イエスは「神は速やかに裁いてくださる」と言われました。しかし現実には、 そのようには見えないことがあります。病の癒やしを祈っても変化が見えないことがあります。家族の 救いを願い続けても、何年も答えを待つことがあります。世界を見渡しても、不正が力を持っているよう に思える出来事は少なくありません。そのような現実をイエスはよくご存じでした。だから譬えの最後 に、「しかし、人の子が来る時、地上に信仰が見られるであろうか」と問いかけられます。この譬えの中 心は、「祈れば願いがすぐかなえられる」という約束ではありません。神が必ず正義を実現してくださる と信じ、その日まで祈り続けることができるかという問いです。神の時は、私たちの時とは異なります。 しかし神は決して沈黙しておられません。終わりの日には、必ず完全な正義を実現してくださいます。そ の約束を信じて歩むことこそ、神の民の姿なのです。 続いてイエスは、もう一つの譬えを語られます。神殿で祈る二人の人物です。一人はパリサイ人、もう 一人は徴税人でした。当時の人々は、パリサイ人こそ神に受け入れられる人だと考えていました。律法を 熱心に守り、断食をし、献金をささげる信仰深い人として知られていたからです。一方、徴税人はローマ 帝国のために税を集める仕事をしており、人々から罪人として軽蔑されていました。そのパリサイ人は 神殿でこう祈ります。「神よ、わたしはほかの人たちのような者ではなく、奪い取る者、不正な者、姦淫 する者ではないことを感謝します。また、この徴税人のような者でもありません。わたしは週に二度断食 し、全収入の十分の一をささげています。」この祈りをよく読むと、パリサイ人は嘘をついているわけで はありません。実際に律法を守り、断食をし、献金も忠実にささげていたのでしょう。しかし、祈りの中 心は神ではなく、自分の正しさになっていました。神への感謝を口にしながら、自分がどれほど立派であ るかを確かめる祈りになっていたのです。 それに対して徴税人は、神殿の片隅に立ち、天を見上げようともせず、胸を打ちながら祈ります。「神 様、罪人のわたしをおゆるしください。」彼は自分を弁護しませんでした。「これからやり直します」と も、「少しは良いこともしてきました」とも言いません。ただ、自分は神の憐れみにすがるしかない者で あることを認めています。 この「おゆるしください」という言葉には、「罪を覆ってください」「贖ってください」という意味があ ります。旧約聖書では、大祭司が年に一度、贖罪日に犠牲をささげて民の罪の贖いを行いました。徴税人 は、自分では罪を取り除くことができないことを知っていました。だから、自分ではなく神だけを見つめ て祈ったのです。するとイエスは、「あなたがたに言うが、この人は義とされて家に帰ったが、あのパリ サイ人ではなかった。」と人々の予想を覆す結論を語られます。「義とされた」とは、神がその人を受け入 れてくださるという宣言です。それは、人が自分の努力で勝ち取るものではありません。神の恵みによっ て与えられるものです。 ここまで見てきますと、この二つの譬えは別々の教えではなく、一つの真理を語っていることが分かり ます。やもめは、自分の力では正義を勝ち取ることができませんでした。ただ裁きを求め続けました。徴 税人も、自分では罪を取り除くことができませんでした。ただ神の憐れみにすがりました。二人に共通し ているのは、自分ではなく神に望みを置いていることです。それに対して、不正な裁判官は自分の都合を 基準に生きていました。パリサイ人も、自分の行いを頼りに神の前へ立とうとしました。イエスが示され た対比は明らかです。終わりの日を待ち望む神の民とは、自分の力や功績を支えにする人ではありませ ん。神の正義と憐れみに信頼して歩む人です。 私たちは、「祈り続けなさい」という教えを聞くと、もっと熱心に祈らなければならないと思います。 また、「徴税人のようになりなさい」と聞けば、もっと謙遜にならなければならないと考えます。しかし、 この二つの譬えは、「もっと頑張りなさい」という教えではありません。やもめにも徴税人にも、自分を 救う力はありませんでした。それでも二人は神に向かいました。信仰とは、自分がどれほど立派に生きる かではなく、神がどのようなお方であるかを信頼することです。 この福音は、やがてイエス・キリストの十字架によって完全に明らかになります。徴税人は、「神様、 罪人のわたしをおゆるしください」と祈りました。しかし、その祈りに対する神の答えは、後にゴルゴタ の十字架で示されることになります。神は罪を見過ごされたのではありません。罪は必ず裁かれなけれ ばなりませんでした。しかし神は、私たちを滅ぼすことも望まれませんでした。そこで御子イエス・キリ ストが、私たちに代わって十字架にかかられたのです。私たちが受けるはずであった裁きを、キリストが その身に引き受けてくださった。その犠牲によって罪は赦され、私たちは神の前へ出る道を与えられま した。 こうして二つの譬えは、一つの福音へと結びつきます。やもめは正義を求め、徴税人は憐れみを求めま した。そして神は、十字架において正義と憐れみを一つにしてくださいました。罪は正しく裁かれまし た。しかし、その裁きを御子が担われたことによって、罪人である私たちは赦され、神の子として迎え入 れられる道が開かれたのです。
 二十世紀を代表する神学者カール・バルトは、生涯にわたって聖書を研究し、教会と世界に大きな影響 を与えました。ナチス・ドイツに迎合しようとする教会に対しても、「教会の主はキリストだけである」 と語り続けた人です。その膨大な著作は今なお読み継がれ、近代最大の神学者の一人と数えられていま す。若い頃に著した『ローマ書』注解は神学界に大きな衝撃を与えました。その内容は非常に緻密で、神 学を専門に研究する人々でさえ読み解くのに苦労すると言われています。そのバルトが晩年、ある人か ら「先生は、生涯にわたって神学を学んでこられましたが、最後に拠り頼むものは何ですか」と尋ねられ たとき、「イエスは私を愛してくださる。聖書はそう語る。それだけです」と答えたと伝えられています。 この言葉が今なお語り継がれているのは、そのあまりの単純さゆえです。誰もが難しい神学の結論を期 待しました。しかし、世界的な神学者が最後に語ったのは、子どもでも知っている福音の言葉でした。生 涯をかけて神学を究めた人が最後に拠り頼んだのは、自分の知識や名声・働きではなかった。ただイエ ス・キリストだけでした。その姿は、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈った徴税人の姿と 重なります。
 二つの譬えは、教会に集う私たちにも問いかけています。私たちは、神の前に何を携えて立とうとして いるでしょうか。礼拝を守ってきたことでしょうか。⾧年の奉仕でしょうか。献金や祈り、聖書を読み続 けてきた歩みでしょうか。それらは神への感謝から生まれる尊い歩みです。しかし、それがいつしか神の 前に立つ根拠になってしまうなら、私たちも知らないうちにパリサイ人の祈りへ近づいてしまいます。 一方で、自分の弱さや失敗ばかりが目につき、「こんな私が神に受け入れられるはずがない」と感じる日 もあるでしょう。そのような私たちにも、この譬えは希望を語ります。神は、憐れみを求める者を退けら れません。キリストが十字架において私たちの罪を担ってくださったからです。だから私たちは安心し て神の前へ出ることができます。 また、最初の譬えも私たちに大きな慰めを与えています。教会のために祈っても、家族のために祈って も、この世界のために祈っても、すぐに変化が見えないことがあります。それでもイエスは、「人の子が 来る時」と語られました。神の国、神の正義は必ず実現します。神は決してご自分の民を忘れてはおられ ません。だから教会は「マラナ・タ、御国を来たらせたまえ」と祈り続けます。それは神が真実なお方で あり、その約束は決して変わらないからです。 神の憐れみは、今日も私たちに注がれ、終わりの日まで私たちを支え続けます。 その神を信頼し、祈りつつ歩み続ける者でありたいと思います。お祈りいたします。

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