「わつしたちは神の内に」ローマ人への手紙11:33~36

深谷教会聖霊降臨節第19主日礼拝2024年9月22日
司会:西岡義治兄
聖書:ローマ人への手紙11章33~36
説教:「わたしたちは神の内」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-442
奏楽:杉田裕恵姉

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 説教題:「私たちは神の内に」 ローマ人への手紙11章:33~36節  佐藤嘉哉牧師
       
 1年の間にアメリカや世界中で最も話題となった映画に送られる賞は、ご存じの通りアカデミー賞です。そしてドラマはエミー賞と言います。アカデミー賞とエミー賞はどちらも価値のある賞であり、受賞候補として作品が推薦されること自体にもとても意味のあるものです。先週そのドラマへ贈られるエミー賞に「将軍」というドラマが推薦され、見事受賞したとのニュースが日本でも話題になりました。ディズニーを親会社とするドラマ制作会社が、日本人俳優である真田広之さんを主演兼プロデューサーとして作成した、戦国時代の日本が舞台のドラマです。戦国時代前後の日本を舞台にしたドラマや映画は何度も見てきましたが、なぜこのドラマがとりわけ話題になり人気の集めたのか。気になって観てみるとその理由がすぐにわかりました。時代描写、生活様式、所作等のその全てが、戦国時代の日本で撮ったのかと思えるほど徹底的に現実的に再現されていました。戦国時代の日本が舞台なので英語なんてわかる人はほんの一握り。だから7割が日本語で会話が進みます。日本人キャストがほとんどなので、なんちゃって日本ではない大河ドラマ以上の質を見ることができ、エミー賞を受賞することに納得しました。物語も相まって最高に面白いドラマでした。
 そのドラマの根幹となるのが「宿命」という概念です。日本特有の考え方だとドラマでは言われていました。辞書で調べてみると「宿命は前世から定まっている運命」であるそうです。わたしたちが時折使っている「運命」は「人間の意志にかかわりなく、身の上めぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。めぐり合わせ」と説明されています。運命は後天的であるのに対し、宿命は先天的であるということがわかります。宿命は生まれる前から、前世の頃から決められた変えられない定めである。その定めに従い生きていく。輪廻転生を繰り返す仏教の教えによる考え方です。キリスト教でも神の導きという信仰の一面があります。人知を超えた存在である神がわたしたちを導いてくださる。幸福も試練も神が私に必要であるという意思によるものであると信じます。これがキリスト教における信仰です。わたしたちは神の内にいる。これがわたしたちの救いへとつながっていきます。
 キリスト教にも「予定説」という思想があり、それによればその人が救われるかどうかは生まれる前から決まっているそうです。この世であらゆる善い行いをしても救われるかどうかは生まれる前から決まっており、神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということです。これは無条件救いと呼ばれています。神は条件ではなく、無条件に人を選ばれる、神の一方的な恩寵です。救済されるのは特定の選ばれた人に限定され、一度救済にあずかれた者は、罪を犯しても必ず神に立ち返るとも考えられます。この「予定説」と「宿命」の考え方に非常に似ているとわたしは感じています。そしてキリスト教における導きと「宿命」が混同していないだろうかと思うのです。
宿命はどのような結果になろうとそれを受け入れるというものです。その結果が例えば死を意味していても、それを受け入れる。最初からここで死ぬ定めだったのだ。そうすると死は怖くはなくなるのでしょう。クリスチャンであっても「こうなることは神が定めたことだから受け入れるしかない」という考えにも行きつくでしょう。または、定めであるとわかっていながら、それを受け入れることができなかったと自分を責める人もいるでしょう。それを恥じてしまっている。神に対して自分はなんという罪深いことをしてしまったのか。そういう罪悪感を感じてしまっている人がいるでしょう。案外この「予定説」は日本人の昔から持つ感覚に似ているため、神の救いすらも拒否してしまうのです。しかし予定説と宿命の内容が似ているからといって、完全に異なるものがあります。それは神がわたしたちをどのように思っているかの違いです。宿命は絶対的な服従が求められています。それはキリスト教においても同じであるかもしれません。しかしその服従は何よりも父なる神が私たちを愛しているからです。わたしたちは神の愛と恵みの内に生きている。このことに感謝して示される道を歩んでいこう。そういう前向きな服従が私たちにはできるのであります。そして時に耐えがたい試練が目の前にあったとしても、その試練から逃れる道すら与えられているのです。死への運命ではなく、永遠の命を得るための道が私たちの前に広がっています。もしも死への運命しかないというならば、祈る意味がどこにあるでしょうか。自分の罪深さゆえに神から離れようとしたり、神の恵みや愛に与る立場にないと思ってしまったりしていては、永遠の命から遠ざかってしまうでしょう。
 今日の聖書箇所の宛先であるローマ人は、その住んでいる場所から数々の神の信仰に囲まれたものでありました。パウロや大勢の使徒たちによってキリスト教の共同体が創られても、その中に異なった信仰を持った人々が入ってきて、キリストへの信仰を歪めてしまう状況であったのです。11章25節から32節までは、その信仰の危機の中にあるキリスト共同体に対して、「神の賜物と召しとは、変えられることがない。あなたがたは不従順であったが、今は憐れみを受け、またまだ不従順である者にすら憐れみがある。神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである」と言っています。ここに究極的で、一方的な神の愛があります。つまりどれだけ自分が不従順であっても神はわたしたちを愛してくださるということです。
 ああ深いかな、神の知恵と知識と富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。わたしたちは神の意思や思いははかり知ることができません。「宿命」は自分の価値観によってその示された道を納得するだけのことばであって、神の意思・知識・富には遠く及びません。このローマ人への手紙を書いたパウロですら、完璧な生活からの転落という自分の定めに嘆き悲しんでいましたが、神のはかり知ることのできない計画により復活の主と出会い、立ち上がることができたのです。神の示される道は絶望や失望、死や諦めではなく、希望へとつながって行くのです。「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」その答えは主イエス・キリストに他なりません。主イエス・キリストこそがその「だれか」であり、わたしたちを神と結び合わせ、希望の道を示して下さる方です。自分の物差しでその道を図るのではなく、その主イエスがわたしにつながり、わたしは神の内にいるという信仰を持つことが何よりも大切なのです。「万物は、神からいで、神のよって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン」パウロの祈りは全幅の信仰をあらわしています。たとえ自分自身を赦すことができないようなことがあったとしても、それも神が示された救いへの道です。神の内にいて歩むことができる。この幸いに心から感謝して歩んでいきましょう。

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