「天ってどんな場所?」マタイによる福音書13:44~52

深谷教会聖霊降臨節第17主日礼拝2026年9月13日
司会:西岡まち子姉
聖書:マタイによる福音書13章44~52節
説教:「天ってどんな場所?」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-449,452
奏楽:落合真理子姉

           説教題:「天ってどんな場所?」佐藤嘉哉牧師
                マタイ福音書13:44~52

 本日の聖書箇所は、マタイによる福音書13章44節から52節です。この箇所には、天の 国について語るいくつかのたとえが出てきます。「畑に隠されている宝」、「高価な真珠」、そ して「海におろした網」です。どれも短いたとえですが、ここには聖書が語る「天」とは何 なのか、そして私たちが死んだ後に何を待ち望んでいるのかを考えるための大切な手がかりがあります。「天って、どんな場所でしょうか」。そう聞かれたら、皆さんはどのように答 えるでしょうか。「死んだ人が行くところ」「苦しみのないところ」「天国に行けば、もう何 も心配することがない」。私たちは「天」や「天国」という言葉を、そういう意味で使うことが多いと思います。特に、愛する人を亡くしたとき、「あの人は今、天国で安らかに過ごしている」と語ることがあります。それは残された私たちにとって、大切な慰めの言葉です。 しかし、聖書が語る「天」や「天の国」を丁寧に読んでいくと、私たちが普段思い描いている「死んだ後のパラダイス」とは、少し違った姿が見えてきます。 今日の聖書箇所でイエスが繰り返しているのは、「天国」という言葉です。44節には「天 国は、畑に隠してある宝のようなものである」。45節にも「天国は、良い真珠を捜している 商人のようなものである」。47節にも「天国は、海におろして、いろいろな種類の魚をつかまえる網のようなものである」とあります。ここで注意したいのは、「天国」という言葉で す。原文のギリシア語では「天の国」となっています。マタイによる福音書では、イエスは 「神の国」という言葉の代わりに、「天の国」という表現をよく用います。これは「天という場所にある国」という意味ではありません。「天の国」とは、神が王として支配しておられるということです。ですから、天国という言葉を聞いたとき、すぐに「死んだ後に行く場 所」と考えないことが大切です。聖書が語る天の国とは、まず第一に「神の支配」です。神 が神として私たちを治めてくださる。その神の支配が、この世界の中に始まり、やがて完成 する。そのことを「天の国」と呼んでいるのです。 イエスが宣教を始められたとき、「悔い改めよ、天国は近づいた」と語られました。これ は「死んだら天国という場所に行けますよ」という話ではありません。神の支配が、今まさにあなたがたのところに近づいている、という宣言です。イエス・キリストが来られたこと によって、神の国がすでにこの地上に入り始めているのです。ですから、天の国は、この地 上と切り離された別世界ではありません。イエスはこの地上で人々と出会い、病める人を癒 し、罪人と食事をし、貧しい人に福音を語られました。神の支配は、私たちが暮らしている この現実とは無関係なところにあるのではありません。この地上に神の御心が実現していくところに、天の国の現実が始まっているのです。 そう考えると、44節のたとえが少し違って見えてきます。「天国は、畑に隠してある宝のようなものである」。ある人が畑に宝を見つけます。そしてその宝の価値を知ると、「喜びの あまり、行って持っているものをみな売りはらい、その畑を買う」とあります。ここで大切 なのは、「全部売った」ということだけではなく、「喜びのあまり」と書かれていることです。 この人は、苦しみながら天の国を買おうとしているのではありません。宝の価値を知った。 だから、それまで大切だと思っていたものを手放してでも、その宝を得たいと思ったのです。 45 節から46節の真珠のたとえも同じです。商人は良い真珠を探しています。そして、非常 に高価な真珠を見つけると、持っているものをみな売りはらって、それを買います。 ここを読むと、「では私たちも、神の国を得るために、すべてを捨てなければならないの か」と思うかもしれません。しかしここでイエスが教えておられるのは、人間が努力して天 国を買い取る方法ではありません。天の国は人間が自分の力で獲得するものではないから です。天の国が近づいたのは、人間が努力して神のところまでたどり着いたからではなく、 神とイエス・キリストが来られたからです。私たちが良い人になったから神が恵みをくださるのではなく、神が先に恵みを与えてくださる。その恵みを知ったとき私たちの生き方が変 えられていくのです。宝を見つけた人が喜びのあまり持っているものを売ったように、神の 恵みを知った人は、それまで自分が一番大切だと思っていたものをもう一度考え直すよう になります。お金、地位、人からの評価、自分の正しさ。そうしたものが神よりも大切になってしまったとき、私たちは神ではなく、それらに自分の人生を支配させるようになります。 天の国とは、うした私たちの価値の基準を変えていく神の支配なのです。 今日の箇所はそこで終わりません。47節からは、「網」のたとえが語られます。海に網を おろすと、いろいろな種類の魚が入ってきます。そして網がいっぱいになると岸に引き上げ、 良いものと悪いものを分けます。そして49節には、「世の終りにも、そのとおりになるであ ろう」とあります。ここで「天の国」と「終わりの日」が結びつきます。私たちは「天国」 という言葉を、安らかで、何の問題もなく、何でも願いがかなう場所のように考えてしまう ことがあります。しかし聖書が語る終末は、単なる「死後の楽園」ではありません。神が最 後にこの世界を完成される時です。そしてその時には神による裁きがあります。 先週の説教で聞きました毒麦のたとえ。畑には麦と毒麦が一緒に生えています。僕たちは 「毒麦を抜きましょう」と言います。しかし主人は、収穫の時まで待つように命じます。そ して収穫の時に分けるのです。網のたとえも同じです。今の世界では何が正しく何が間違っているのかを、私たちは完全には知ることができません。人間は人の外側を見て「この人は 良い人だ」「この人は悪い人だ」と決めたくなります。しかし最終的な裁きをするのは私たちではありません。神です。そしてここには私たち自身も含まれています。終わりの日には、 私たち自身も神の前に立つからです。私たちの言葉も、行いも、心の中も、神の前に置かれることになります。だから聖書が語る終末の裁きは、他人を裁くための材料ではありません。 私自身が神の前に立つという厳粛な現実を教えるものです。 しかし、福音はそうした厳粛な現実だけを突きつけるものではありません。聖書が語る終 末の希望は、「良い人だけが天国に行ける」というものではないということです。私たちは 自分の正しさによってではなく、キリストによって義とされるのです。罪人である私たちの ために、キリストが十字架にかかってくださった。十字架とは罪に対する神の裁きがどれほ ど深刻なものであるかを示しています。しかし同時に、その裁きをキリストが私たちのため に担ってくださったことを示しています。ですから終末の裁きについて聖書が語るとき、私 たちは恐怖だけを聞くのではなく、キリストの恵みを聞かなければなりません。 ではここで、聖書において死んだ後の人はどうなると語っているでしょうか。聖書には、 死んだ人が神のもとにあることを語る箇所があります。パウロは「この世を去って、キリス トと共にいること」を望むと語っています。またイエスが十字架上で悔い改めた犯罪人に、 「きょう、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいる」と言われた場面もあります。つまり、 キリスト者が死んだ後に神から完全に切り離されてしまうことはないということです。死 は神との関係を断ち切る力を持っていません。神のもとにあるという慰めがあります。しか し、ここをそのまま「そこが最終的な天国です」と考えると、聖書が語る最終的な希望を小 さくしてしまいます。 聖書が最終的に待ち望んでいるのは、魂だけがどこかの場所で永遠に過ごすことではあ りません。復活です。新しい創造です。神がこの世界を完成してくださることです。黙示録 21 章には、「新しい天と新しい地」が現れ、「神の幕屋が人と共にある」と語られています。 そこでは神が人と共に住まわれます。ここで大切なのは「人間が地上を離れて神のところへ 行く」という方向だけではなく、「神が人と共に住まわれる」という方向が語られているこ とです。だからキリスト教の希望は「この地上から逃げて、別の世界へ行くこと」ではあり ません。神がこの世界を終わりの日に完成してくださることです。神は御自分の造られた世 界を完成へと導かれます。そこに復活があり、神の支配が完全に現れます。 そう考えると「天」という言葉も少し違って見えてきます。天は雲の上にあるどこか遠い 場所というだけではありません。聖書において「天」は、神がおられて神の支配が現れる領 域を指す言葉です。そして「天の国」とはその神の支配です。だから天と地は完全に切り離 された二つの世界ではありません。私たちが生きている今この時、この地上に神の支配が始 まっています。主の祈りで私たちは、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈ります。この祈りは、地上を捨てて天に逃げるための祈りではありません。天で行われている神の御心が、この地にも行われますように、と祈るの です。 ここに、天の国についてのキリスト教信仰の大切なところがあります。神の国はイエス・ キリストによって、すでに始まっています。死んだ後に与えられたり、招かれたりするので はないのです。しかしまだ完成してはいません。私たちはその「すでに」と「いまだ」の間 に生きています。だから私たちは、地上の現実の中で神を信じて生きることが求められているのです。この地上には悲しみもあります。病もあります。人間関係の苦しみもあります。 自分自身の罪に気づかされることもあります。愛する人との別れもあります。この地上に天 の国が既に始まっていると言われても、本当かな?と思うかもしれません。それらが「すで に」と「いまだ」の狭間に生きるわたしたちそのものなのです。終わりの日に神が裁かれ、 神によって救われた者たちが神の御前に置かれます。マタイ24章31節では終わりの日に 「選ばれた者たち」が集められると語られています。私たちはこの「選ばれた者」という言 葉を聞くと、「私は選ばれているだろうか」と不安になるかもしれません。しかし選びとは、 私たちが自分の力で勝ち取った資格ではありません。神の恵みです。神が先に呼んでくださる。神が先に恵みを与えてくださる。その呼びかけに私たちが信仰をもって応答する。そこ に救いがあります。だから、天の国を自分の努力で買うことはできません。今日のたとえの 人が持っているものを全部売ったから、宝を買う資格を得たのではありません。宝の価値を 知ったからこそ、喜んで応答したのです。私たちの信仰も同じです。「これだけ良いことを しました。だから神様、私を天国に入れてください」と言うのではありません。神がすでに 与えてくださった恵みを信じます。キリストが私のために十字架にかかってくださったことを信じます。復活の主が私を招いてくださっていることを信じます。その恵みに感謝して、 今日を生きます。その歩みの先に、神の国の完成があります。 ですから「天ってどんな場所?」という今日の問いに、私たちは「死んだ人が行く場所で す」とだけ答えることはできません。天とは神がおられるところです。そして天の国とは、 神が王として支配されることです。それはこの地上と切り離された場所ではありません。キ リストによってすでにこの地上に始まっており、終わりの日に完成します。その完成のとき、 神の裁きがあります。神が善と悪のすべてを明らかにされます。そして神に召された者、神 によって選ばれた者たちは、神のもとに集められ、神の祝福の中に置かれます。だからこそ、 私たちは今日を生きることができます。神が最後にこの世界を完成してくださると信じる からこそ、私たちは今日の地上で聖霊を得て神を信じ、人を愛し、与えられた務めを果たしていくことができます。私たちは、いつか天国という場所へ逃げていくために生きているの ではありません。神が完成してくださる世界を待ち望みながら、神の支配のもとで、今日と いう一日を生きているのです。そして私たちが最後に望みを置くのは、自分自身ではありま せん。自分がどれほど立派に生きられたかでもありません。私たちが望みを置くのは、私たちを先に愛し、私たちを招き、十字架において私たちの罪を担い、復活によって死を越える 道を開いてくださったイエス・キリストです。 天の国はキリストによってすでに私たちのところに来ています。そしてまだ完成してい ないからこそ、私たちはその完成を待ち望みます。終わりの日に神がすべてを明らかにし、 召された者たちを集め、神の御前に置いてくださるその日を待ち望みます。これは神が恵み によって与えてくださるものです。その希望を与えられているからこそ、私たちは今日この 地上で生きています。天を見上げながら地上を捨てるのではなく、神の支配のもとでこの世 界を生きていくのです。

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