「追い求めるものは」エペソ人への手紙4:1~16

深谷教会聖霊降臨節第3主日礼拝2026年6月7日
司会:西岡まち子姉
聖書:エペソ人への手紙4章1~16節
説教:「追い求めるものは」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-51,409
奏楽:杉田裕恵姉

   説教題:「追い求めるもの」 エペソ人への手紙4:1~16 佐藤嘉哉牧師

 本日の聖書箇所は、エペソ人への手紙のちょうど折り返し地点にあたります。エペソ書は前半と後半で大きく内容が異なります。前半の1章から3章までは、「神がキリストによって何をしてくださったのか」が語られています。罪の中にあった者を救いへと招き、キリストの十字架によって神との和解を与え、さらにユダヤ人と異邦人という隔てられていた人々を一つにされたことが語られています。そして4章からは、「それならば、キリストによって救われた者はどのように生きるのか」という実践の話へと移ります。そのため4章1節は、「さて、」という言葉から始まります。神がしてくださったことがまずある。その恵みに応えて歩むことが求められる。その順序が大切です。
 当時のエペソの教会にはさまざまな背景を持つ人々が集まっていました。ユダヤ人もいれば異邦人もいるという状況であれば当然、育った文化や考え方、価値観が異なっています。こんな状況なら当然、摩擦も生まれます。自分と違う人を理解できなかったり、相手の考えに納得できないことがあったりします。しかしパウロはそのような人々に向かって「召しにふさわしく歩きなさい」と語ります。そして続けて、「できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」と勧めます。ここで注目したいのは、「一致を作りなさい」とは言わず、「一致を守り続けるよう努めなさい」と語られています。つまり一致は、私たちが努力して作り出すものではなく、すでにキリストが与えてくださったものです。キリストは十字架によって神と人との間にあった敵意を取り除かれた。そして人と人との間にある壁も打ち壊された。ですから、教会の一致とは人間同士の気の合う関係ではなく、キリストが与えてくださった恵みに基づく一致なのです。
 ところが現実の教会生活はそう簡単にことは運びません。パウロがわざわざ謙遜や柔和を語っていること自体、当時の教会が緊張関係にあったことを示しています。人は自分と違う人を避けたくなります。考え方が近い人だけと付き合う方が楽です。自分を理解してくれる人だけと関わる方が安心できます。しかしパウロはそのような共同体を目指してはいません。7節以降では、一人ひとりに異なる賜物が与えられていることを語ります。使徒がいるし預言者もいます。伝道者もいます。当然牧師もいますし教師もいます。皆が同じ役割を担うわけではありません。神はそれぞれに異なる賜物を与えてくださる、教会は多様な人々によって構成されているのです。そしてその違いは問題ではなく、むしろ神が与えた豊かさの象徴であると。
 ところが私たちは時として、自分と同じ考え方をする人ばかりを求めてしまいます。自分と違う人がいることを負担に感じます。先日行われた関東教区総会では様々な意見が飛び交いました。その中にはやはり批判や相互意見の相違があり対立を生むことがありました。何で同じ神とキリストを信じている者同士が対立しているのだろうと思いましたし、自分と違う考えを聞かされるだけでも負担になってしまうものです。教会は同じ考えを持つ人によって成り立つ集団ではい事は重々承知していますが、それでも難しさを覚えるのがわたしたちの持つ罪深い部分なのかもしれません。だからこそキリストによって招かれた人々が共に生きることの大切さ、平和のきずなで結ばれる尊さを今一度思い起こしたいと思います。平和のきずなで結ばれる私たちが、聖霊によってひとつにされたのだから、それを守り続ける大切さを思い起こしたいと思います。
 さて、ここで改めて考えたいことがあります。「平和のきずな」と言う言葉の意味です。私たちは平和という言葉を聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。戦争がない状態でしょうか。争いが起きない状態でしょうか。もちろんそれは大切です。しかし本当にそれだけで平和と言えるのでしょうか。2022年、自由学園の平和学習講演に招かれたある有名プロデューサーのO氏は、生徒たちにある思考実験を提示しました。それが「最悪の平和とまだマシな戦争」という問いです。彼が語った「最悪の平和」とは、戦争は起きていないけれども、長年にわたる不況によって多くの人が希望を失い、毎年二万人もの自殺者が出ている社会です。表面上は平和です。しかし人々は生きる意味を見失い、未来への展望も持てず、社会全体がゆっくりと衰えていきます。一方の「まだマシな戦争」とは、隣国との資源をめぐる戦争です。戦争が始まれば最初の一年で一万人が命を落とします。しかし勝利すれば国は豊かになり、失業はなくなり、その後何十年にもわたる繁栄が期待できる。しかも勝てる可能性は八割ほどある。そんな設定です。もちろん、これは戦争を勧める話ではありませんし、どちらが正しいかという正解を求める話でもありません。O氏が生徒たちに考えてほしかったのは、「戦争がなければ平和なのか」という問いでした。銃声が聞こえなければ平和なのか。人々が希望を失い、孤独の中で生きる社会であっても、それを平和と呼べるのか。逆に、戦争という言葉だけで思考を止めてしまってよいのか。その問いを投げかけたのです。
 この問いは、私たちにも向けられています。なぜなら聖書が語る平和は、単に争いがない状態ではないからです。パウロが語る「平和のきずな」は、沈黙によって保たれる平和でも、力によって押さえつけられた平和でもありません。キリストによって敵意が取り除かれ、違いを持つ者同士が共に生きることのできる関係です。そこに聖書の語る平和があります。
 聖書が語る平和はもっと深いものです。ヘブライ語にシャロームという言葉があります。「こんにちは」という挨拶として使われますが、その意味は「あなたに平和があるように」というものです。神との正しい関係が回復され、人と人との関係が回復され、命が豊かに生かされることを願う言葉です。復活されたキリストが初めて弟子たちの前に姿を現した時、彼ははっきりと「シャローム」と言いました。キリストが与える平和とは、敵意が取り除かれ、隔てが乗り越えられることです。だからパウロは、「平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を保ちなさい」と語るのです。互いに異なる者たちが、それでもなおキリストにあって結び合わされ、神の恵みを受け取る。そのように考えると、私たちの教会が今年、「平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を保ちなさい」という御言葉を年間聖句として掲げた意味も見えてきます。教会にはさまざまな人がいますし年齢も違います。歩んできた人生も違う。信仰歴も異なる。礼拝に期待することも、教会に求めることも、人によって異なります。だから時に理解できないことがあったり、意見が食い違うことがあったります。しかし私たちが追い求めるべきものは、自分と同じ人ばかりが集まる居心地の良さではありません。パウロが語るように、キリストにあって与えられた一致です。
 本日の箇所でパウロは、「一つのからだ、一つの御霊、一つの望み、一人の主、一つの信仰、一つのバプテスマ、一つの神」と繰り返しました。私たちを一つにする根拠はキリストです。そして13節以降では、教会がキリストに向かって成長していく姿が描かれます。教会の目標は、キリストに近づいていくことです。この愛のうちに真理を語り、主を追い求める「者」の集いとして歩み続けるとき、教会は少しずつ成熟していきます。
 この説教題には、実は二つの意味を込めています。「追い求める者」と「追い求める物」です。私たちはキリストを追い求める者として、この礼拝に集められています。そして同時に、私たちが追い求めるべき物があります。それがパウロの語る「御霊の一致」です。一致とは、皆が同じ考えになることではありません。違いを抱えたまま、一つの主に結ばれて歩むことです。互いの賜物を認め合い、それぞれに与えられた役割を生かしながら、共にキリストへ向かって成長していくことです。
 そのために必要なのは、相手を打ち負かす強さではありません。パウロが語るように、謙遜、柔和、寛容、そして愛です。どれも目立つ能力ではありません。しかし教会を教会として成り立たせるために欠かすことのできない賜物です。相手の話に耳を傾けること、自分とは異なる考え方を受け止めること、すぐに判断せず忍耐すること。そのような小さな積み重ねの中で、キリストが与えてくださった一致は守られていきます。私たちが追い求める物とは、一人ひとりの違いを超えて結ばれる御霊の一致であり、キリストの体として共に生きる教会の姿なのです。しかしその一致は、この礼拝堂の中だけで終わるものではありません。私たちは礼拝を終えると、それぞれの家庭へ、職場へ、学校へ、地域へと遣わされていきます。そこにもまた、自分とは違う価値観を持つ人々がいます。理解できない相手や、時には受け入れ難い相手に出会うこともあるでしょう。それでもキリストは、私たちをまず受け入れてくださいました。私たちが神に敵対していた時から愛し、十字架によって和解へと招いてくださいました。その恵みに生かされる者として、私たちもまた平和をつくり出す器として遣わされていくのです。
「平和のきずなで結ばれて、御霊による一致を守り続けるように努めなさい。」
 私たちはキリストを追い求める者として集められました。そして御霊の一致という追い求める物を与えられています。主が与えてくださった平和のきずなに結ばれながら、共に支え合い、共に成長し、共にキリストを見上げて歩んでまいりたいと思います。
 祈ります。

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