深谷教会聖霊降臨節第2主日礼拝2026年5月31日
司会:高橋和子姉
聖書:へブル人への手紙7章11~28節
説教:「王・祭司・預言者」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-18,303
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「王・祭司・預言者」 へブル人への手紙7:11~28 佐藤嘉哉牧師
本日の聖書箇所には、イエス・キリストがどのようなお方であるかが力強く語られています。特に著者は、キリストを「永遠の大祭司」として示しています。しかし、それは単に祭司についての専門的な議論ではありません。私たちが誰によって救われ、誰によって神へと導かれているのかという、信仰の中心に関わることです。
教会は古くからキリストの働きを三つの務めによって理解してきました。それが「王・祭司・預言者」です。キリストは王として支配し、預言者として神の御心を示し、祭司として神と人との間を取り持たれます。本日の箇所は、その中でも特に祭司としてのキリストに焦点を当てています。しかし祭司の務めを見つめるとき、そこには王としての姿も、預言者としての姿も重なって見えてきます。
この手紙が書かれた背景にも目を向けたいと思います。ヘブル人への手紙は、ユダヤ人の伝統をよく知るキリスト者たちに宛てて書かれたと考えられています。彼らはキリストを信じていました。しかし信仰生活の中で様々な困難に直面していました。迫害があり、周囲からの反対もありました。キリストを信じ続けることに疲れを覚え、かつて慣れ親しんだユダヤ教へ戻ろうとする誘惑もあったようです。そのような人々に向かって、この手紙は語られています。「キリストから離れてはならない」「キリストこそ神が与えてくださった完全な救いである」と繰り返し訴えているのです。
この手紙の著者が誰であるかは分かっていません。古代教会ではパウロの名が挙げられることもありましたが、現在では断定できないと考えられています。しかし著者が誰であるか以上に重要なのは、その人の願いです。著者は神学的な知識を語りたいのではありませんでした。信仰に疲れ、希望を失いかけている人々に、もう一度キリストを見上げてほしかったのです。そのために、キリストがどれほど優れたお方であるかを情熱をもって語り続けています。ヘブル人への手紙が書かれた時代、多くの人々にとって祭司制度は信仰生活の中心でした。神殿があり、祭壇があり、祭司たちが犠牲を献げていました。神との関係はその制度によって保たれていると考えられていたのです。ところが著者は大胆なことを語ります。
もしレビ系の祭司制度によって完全な救いが与えられるのであれば、新しい祭司が現れる必要はなかったと言うのです。これは祭司たちを否定する言葉ではありません。祭司制度そのものが神から与えられたものであることに変わりはありません。しかしそれは最終的な完成ではなく、来るべきキリストを指し示すものでした。神殿で繰り返される犠牲は、人間の罪の深さを示していました。毎日犠牲が必要だったという事実は、まだ問題が根本的に解決されていないことを表しています。
祭司たちは真面目に務めを果たしました。しかし祭司自身も罪人でした。人々のために犠牲を献げる前に、自分自身のためにも犠牲を献げなければなりませんでした。しかも祭司たちはやがて死にます。どれほど優れた祭司であっても、その務めを永遠に続けることはできませんでした。だからこそ神は新しい祭司を備えられました。それがイエス・キリストです。
著者は繰り返し「メルキゼデクの位に等しい祭司」という言葉を用いています。創世記に登場するメルキゼデクは、不思議な人物です。彼は王でありながら祭司でもありました。イスラエルでは普通、王と祭司は別々の務めです。しかしメルキゼデクにはその二つが一つになっています。そこにキリストの姿が映し出されています。キリストは王であり、祭司でもあるお方です。
王とは支配する者です。しかしこの世の王たちのように力によって人を従わせるのではありません。十字架につけられた王です。人々を愛するために自ら苦しみを負われた王です。そして祭司として、人々を神のもとへ導かれます。祭司の本来の役割は仲介者です。神と人との間に立ち、人々を神へと結びつけます。しかし旧約の祭司たちはあくまで不完全な存在でした。それに対してキリストは完全な祭司です。なぜならキリストには罪がなかったからです。本日の箇所の終わりには、「聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは別にされたかた」と記されています。キリストは人としてこの世を歩まれました。しかし罪に支配されることはありませんでした。だからこそ自分のための犠牲は必要ありませんでした。
祭司たちは動物を献げました。しかしキリストはご自身を献げられました。それも繰り返しではありません。ただ一度です。十字架において、ご自身を完全な犠牲として献げられました。ヘブル人への手紙はこのことを繰り返し語ります。キリストの十字架は何度も繰り返される必要がありません。なぜなら完全だからです。神の前において十分だからです。
私たちは時々、自分の努力によって神に受け入れていただこうと考えてしまいます。もっと良い人間にならなければならない。もっと信仰深くならなければならない。もっと祈らなければならない。もっと奉仕しなければならない。もちろん信仰生活において努力は大切です。しかし私たちが神に受け入れられる根拠は、私たち自身の頑張りではありません。キリストの犠牲です。キリストがすでに成し遂げてくださった救いです。だから私たちは安心して神の前に立つことができます。自分の正しさではなく、キリストの恵みによって生きることができるのです。
本日の箇所の中で特に心に留めたいのは25節です。「そこでまた、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。彼は常に生きていて、彼らのためにとりなしておられるからである」。ここには現在形の福音があります。キリストはかつて救ってくださっただけではありません。今も生きておられます。今も私たちのために執り成しておられます。私たちは弱い存在です。信仰が揺らぐことがあります。祈れなくなることがあります。神から遠く離れてしまったように感じる日もあります。しかしキリストは私たちを見放されません。復活された主は今も生きておられます。そして父なる神の御前で私たちのために執り成しておられます。私たちが神を握り続ける前に、キリストが私たちを握り続けてくださっているのです。ここに大きな慰めがあります。
十七世紀フランスの思想家パスカルは、人間の姿について鋭い観察を残しています。パスカルによれば、人はどれほど成功しても、どれほど大きな力を持っても、心の奥底には埋めることのできない空しさを抱えています。彼は王を例に挙げました。多くの人は王になれば幸福になれると考えます。しかし王であっても孤独です。王には権力があり、人々から称賛されます。しかしその心の深いところにある不安や恐れまでは取り除くことができません。だから人は様々な気晴らしを求めるのだとパスカルは語りました。
この洞察は現代にも通じるように思います。私たちもまた、仕事や趣味、人間関係や忙しさによって心を満たそうとします。しかしどれだけ多くのものを手にしても、なお満たされない思いを抱えることがあります。
そのような私たちに福音は語ります。キリストはこの世の王とは違う王です。人々の上に立つためではなく、人々を救うために来られました。私たちの弱さを知り、罪を担い、十字架にまで進まれました。そして復活して今も生きておられます。だから私たちは孤独の中に閉じ込められたままではありません。王であり、祭司であり、預言者であるキリストが共にいてくださるからです。
さらにキリストは祭司であるだけではありません。預言者でもあります。預言者とは未来を予言する人ではありません。神の言葉を語る人です。イエスはその生涯を通して神の御心を示されました。神がどれほど人を愛しておられるのかを語られました。見失われた者を探し求める神の憐れみを示されました。そして十字架によって神の愛を明らかにされました。私たちはキリストによって神を知ります。キリストの言葉によって神の御心を聞きます。キリストの歩みによって神の愛を見ます。祭司として神へ導き、預言者として神を示し、王として私たちを守り導かれるのです。
王・祭司・預言者。教会が古くから語り続けてきたキリストの三つの務めは、決して難しい教理ではありません。それは私たちの救いそのものです。迷うときには預言者として御言葉を語ってくださる。罪に苦しむときには祭司として執り成してくださる。不安や恐れの中では王として支えてくださる。そのようなお方としてキリストは今も生きておられます。ヘブル人への手紙は、古い制度の説明をするために書かれたのではありません。キリストの素晴らしさを証しするために書かれました。人間の力では届かない神との交わりを、キリストが開いてくださったことを伝えるために書かれました。
私たちは完全ではありません。しかし完全な大祭司がおられます。私たちは弱い存在です。しかし永遠に生きて執り成してくださる主がおられます。私たちは迷うことがあります。しかし王であり、祭司であり、預言者であるキリストが共にいてくださいます。だから恐れる必要はありません。この主に信頼して歩み続けたいと思います。