「死は勝利に飲まれた」コリント人への第一の手紙15:50~58

深谷教会 召天者記念礼拝ー聖霊降臨節第21主日2026年10月11日
司会:落合正久兄
聖書:コリント人への第一の手紙15章50~58節
奉唱:「神の御子にますイエス」
説教:「死は勝利に飲まれた」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-575,385
奏楽:落合真理子姉

       
             説教題:「死は勝利に飲まれた」佐藤嘉哉牧師
              コリント人への第一の手紙15章50~58節

 私たちは今日、召天者記念礼拝を守っています。すでに地上の生涯を終えた方々を覚え、その歩みを思い起こしながら、神の御前に集っています。このような礼拝において、どうしても避けて通ることのでき ないものがあります。それは「死」です。死について語ることは、決して簡単なことではないでしょう。 私たちは普段、できるだけ死を遠ざけて生活しています。健康であることを願い、⾧く生きることを願 い、日々の予定を立てながら、明日も今日と同じように続いていくことを当然のように考えています。し かし、聖書は死を曖昧に扱いません。キリスト教は、死を美しいものとして受け入れなさいと教えている のでも、死はただ自然なことだから仕方がないと諦めるよう勧めているのでもありません。パウロはこの少し前で、死を「最後の敵」と呼んでいます。死は、人と人との交わりを断ち、愛する者を引き離し、 私たちの力では越えることのできない境界をつくります。ですから、死を前にして悲しみ、涙を流すこと も、信仰の内にある自然な営みです。涙を流すことも、寂しさを覚えることも、もう一度会いたいと思う ことも、人を愛してきたからこそ生まれる自然な思いです。それでも聖書は、その死が最後の言葉ではないと告げます。聖書にとって、死は単に生物としての生命活動が止まるというだけの出来事でもありま せん。今日の箇所でパウロは「死のとげは罪である」と言います。死は、命の有限性とともに、自分の人 生を完全にはできなかったという事実、愛すべき人を十分に愛せなかったこと、正しいと分かっていて も正しく生きられなかったことまで突きつけます。死は、やり直すことのできない終わりとして私たち の前に立ちます。だからこそ、人間は死を自分の力で救いに変えることができません。そこで聖書は、死 を上手に受け入れる知恵を越えて、罪と死の力そのものから私たちを救う神の働きを語ります。今日の 箇所でパウロは、「死は勝利にのまれてしまった」と語ります。パウロはその恐ろしさを正面から見つめた上で、なお死を越える神の勝利を語っているのです。 パウロは、私たちの今の体を「朽ちるもの」「死ぬもの」と呼びます。どれほど健康に気を配っても、 どれほど医学が進歩しても、私たちの体はいつか衰え、地上の生涯には終わりが来ます。これは誰にも例 外のない現実です。そしてパウロは、その現実を前にして、人間の魂だけが体を離れて永遠に生き続ける という話を中心に置いてはいません。彼が語る希望は「変えられる」という希望です。「この朽ちるもの が朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着る」と言います。つまり、神が私たちを新しくし てくださる。死によって人間が消えてしまうのでも、私たち自身の力で死を乗り越えるのでもなく、キリ ストを死者の中からよみがえらせた神が、私たちにも復活の命を与えてくださるということです。キリ スト教の希望は、私たちが死を免れることにあるのではなく、死んでもなお神の御手の中にあり、終わり の日に神が私たちを起こしてくださるという約束にあります。その約束によって、死は決定的な力を失 います。だからパウロは、死に向かって、「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか」と問いかけること ができました。パウロがここで見ているのは、個人の心の慰めだけではありません。「終りのラッパ」が 鳴り、死者が朽ちない者によみがえらされ、私たちが変えられるという、神の救いの完成です。私たちが 愛する者を失うとき、どうしても「その人はいまどこにいるのか」という問いが前に出ます。しかしパウ ロの視線は、さらに先にある神の完成へ向かっています。神は死によって散らされたものをそのままに せず、キリストにおいて新しい命へと起こしてくださる。この終末の約束があるからこそ、私たちは召された方々を神に委ね、自分たちの未来についても希望を失わずに歩むことができます。 この地上で死をどう受け止めるかということを考えるとき、「メメント・モリ」という言葉があります。 ラテン語で「死を覚えよ」「死を忘れるな」という意味の言葉です。死を覚えることは、今与えられている時間が決して当たり前ではないと知り、その重みを受け取り直すことにつながります。今年7月、評論 家で編集者の山田五郎が67歳で亡くなりました。2024年に原発不明がんを公表し、治療を続けな がら仕事をしていました。亡くなる5、6日前、体調が厳しい中で、山田五郎は自身の動画番組の最後の 講義を収録しました。その題が「メメント・モリ」でした。死が誰にでも訪れるということを、美術作品 を紹介しながら語り、収録をする理由を尋ねられたとき、山田五郎は「カルペ・ディエム」という言葉を 持ち出しました。「今日の花を摘め」という意味で、今できることを今する、明日にはできないかもしれ ないから今日する、ということです。死を覚えることと、今日を生きることが、そこで一つにつながって いました。山田五郎が最後の講義で示した「カルペ・ディエム」は、自分に残された時間の中で、今なお 自分にできる務めを果たそうとする姿として表れていました。鼻に医療用のチューブをつけ、息を整えながら講義を続けたその姿は、死を意識することによって、今日なすべきことがかえってはっきりする 場合があることを示していました。私たちは死期を知らされていなくても、本当は同じ条件の中にいま す。今日が当然に明日へ続くという保証を、誰も持ってはいません。 これは私たちにもよく分かることだと思います。死を忘れているとき、私たちは今日という日をいくら でも取り替えのきく一日のように扱ってしまいます。伝えたい感謝を先延ばしにし、会いたい人に会う ことを後回しにし、いつか時間ができたら大切なことをしようと思います。しかし、その「いつか」が必ず来るとは限りません。メメント・モリは、限りある今日を丁寧に生きるよう私たちを促す言葉です。た だし、聖書が語ることはそこからさらに先へ進みます。さらに聖書は、今日を大切にする理由を、地上の 明日がなくても神の明日は失われないという約束の中に置きます。私たちの命は創造者である神によって与えられ、誕生から死までの地上の時間を越えて、神の御手に保たれています。だから私たちは、死を 忘れず、それでも死に支配されずに今日を生きることができるのです。 今日の御言葉の中心には、イエス・キリストがおられます。パウロは、「わたしたちの主イエス・キリ ストによって勝利を賜わった神に、感謝しよう」と語ります。私たちが死を前にして希望を持つことがで きる根拠は、イエス・キリストが十字架で死に、墓に葬られ、そして神によってよみがえらされた出来事 にあります。キリストも実際に死なれました。死の苦しみを通り、墓の暗さの中に置かれました。だから、 キリスト教の復活の希望には、死のただ中を通られたキリストにおいて神が死の力を破られたという確かな出来事があります。「死は勝利にのまれた」という言葉は、神の命が死を包み込み、死が人間に対して持っていた最終的な支配を終わらせたという宣言です。 ここで大切なのは、復活の希望を、亡くなった人について安心するためだけの教えにしないことです。 パウロは15章全体で、キリストの復活と私たちの復活を切り離していません。キリストがよみがえら れたなら、キリストに属する者もまたよみがえらされる。そしてその希望は、まだ地上を生きている者の 姿勢を変えます。終わりが神の勝利であるなら、私たちは不安に追い立てられて今日を使い切ろうとし なくてもよいし、反対に、どうせ死ぬのだからと投げやりになる必要もありません。限りある時間を、神 から与えられた時間として受け取ることができます。 では、召天者記念礼拝で、なぜ私たちはここに集うのでしょうか。私たちは、召された方々の生涯を覚 えながら、その一人ひとりを生かし、支え、そして今も御手の中に置いておられる神を礼拝するために集 っています。召天者記念礼拝の中心におられるのは神であり、召された方々についても、その行く先を神 の恵みに委ねます。思い出の中には、楽しかったこともあれば、もっと話しておけばよかったという心残りもあるでしょう。感謝とともに、痛みや後悔が残っていることもあります。しかし、私たちがその人の 生涯のすべてを理解し、評価し、結論づける必要はありません。その人を造り、その歩みを知り、その弱 さも喜びもすべて御存じである神に、その人を委ねることができます。召天者を覚える時、私たちの視線 は、その方々の生涯を通して与えられた恵みから、今ここに生かされている自分自身へと戻ってきます。 神から与えられた今日をどう生きるのかを問い直す時でもあります。 そしてパウロは、復活について語った⾧い章の最後を、非常に地上的な言葉で結びます。「堅く立って 動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」と勧めます。死の後の希望を語ったからこそ、 今の生活へ戻ってくるのです。復活を信じることは、地上の生活を軽く見ることにつながりません。むし ろ、今日することに意味があると知ることです。誰かにかける一言、祈ること、働くこと、食事を共にすること、誰かを支えること、謝ること、感謝を伝えること、全てが神の前で無駄にならない。パウロは「主 にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」と語ります。私たちはいつか死にます。しかし、 死が私たちのすべてを無意味にすることはありません。キリストがよみがえられたからです。私たちの 小さな歩みも、神の大きな救いの中に置かれています。 今日、私たちは召された方々を覚えています。その方々の地上の生涯はすでに閉じられました。そして 私たちの地上の時間にも、いつか終わりがあります。だからこそ、死を忘れずにいたいと思います。しか し、死だけを見つめる必要はありません。私たちは、死を越えて立っておられるキリストを仰ぎます。「死 よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。この言葉には、悲しみと別れの痛みを抱えながら、それでも神の約束に立つ信仰が表れています。死は確かに私たちの大切 な人を奪います。それでも、死が神の御手にある者を神の愛から引き離すことはできません。死が私たちの希望を最後まで奪うこともできません。イエス・キリストによって、死は勝利にのまれたからです。そ の約束に信頼し、召された方々を神の御手に委ねながら、私たちもまた、今日与えられている命を大切に生きてまいりましょう。

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