深谷教会 世界聖餐日礼拝ー聖霊降臨節第20主日
司会:山口奈津江姉
聖書:マタイによる福音書19章13~15節
説教:「来させなさい。妨げてはならない。」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-202,404
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「来させなさい。妨げてはならない。」佐藤嘉哉牧師
マタイ福音書19章13~15節
2018 年11月28日、バチカンで行われたフランシスコ教皇の一般謁見の最中、一人の男 の子が突然、壇上へ上がってきました。その子は教皇のそばを歩き回り、スイス衛兵の手を 引いたり、教皇の椅子の後ろで遊んだりしました。母親が慌てて連れ戻そうとしましたが、 教皇は、そのまま遊ばせておくようにと言いました。そして、言葉を発することのできない その子が、言葉を使わなくても自分を表している姿を見ながら、「この子は自由です」と語 り、自分も神の前でこのように自由であるだろうか、と問いかけました。教皇がそこで今日 の聖書の言葉をそのまま口にしたわけではありません。しかし、その光景を見ていますと、 「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない」と いう主イエスの言葉が、目の前で形になったように思えます。大切な集会の途中に突然入り 込んできた子どもを、その場にいることのできる一人として受け入れ、その姿から神の前に 生きる人間のあり方を見つめたからです。
今日の聖書にも、子どもたちが主イエスのところへ連れて来られます。人々は、主イエス に手を置いて祈っていただきたいと願いました。ところが弟子たちは、その人々をたしなめます。私たちはこの弟子たちを冷たい人たちだと思うかもしれません。しかし、当時の社会の感覚からすれば、その行動はそれほど不自然なものではありませんでした。子どもは家族の中で大切にされていましたが、社会の中では、自分で地位を持ち、自分の力で生活を支え、意見を述べる者としては扱われていませんでした。大人の保護のもとに置かれ、力の小さな者と見られていたのです。まして主イエスはいま、多くの人々に教え、病をいやし、エルサレムへ向かって歩んでおられます。弟子たちは、先生の時間を守り、重要な働きを優先させようとしたのでしょう。子どものことは後でよい。今はもっと大切なことがある。そのように考えることは、当時としてはむしろ自然な判断だったのです。
そのとき主イエスは、弟子たちの判断を止められました。「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。 ここに、人の考える価値と、神の国の価値との大きな違いが現れています。弟子たちは、誰を先に主イエスのもとへ通すべきかを判断しました。話を理解できる人、重要な用件を持つ人、今ここにいる意味があると思える人を優先したのでしょう。ところが主イエスは、その判断の外側に置かれていた子どもをご自分の前に招き、手を置いて祝福されました。ここで示されたことは、子どもへの優しさをはるかに超えています。人間が当然だと思っている順序を、主イエスが覆しておられるのです。人の目には後回しにされる者が、神の目には決して後回しにされない。そのことを主イエスは、ご自分の行動によって示されました。 現代では、子どもの人権を守ることが強く語られています。子どもも一人の人格を持つ存在であり、大人の都合によって傷つけられたり、声を奪われたりしてはならない。そのことは極めて大切です。家庭でも学校でも教会でも、子どもの尊厳と安全を守る責任があります。 ただ、今日の福音は、そこからさらに深いところへ私たちを導きます。主イエスは、「わたしのところに来るのをとめてはならない」と言われます。ここで中心にあるのは、主イエスご自身です。子どもを招き、その子に触れ、祝福を与える主イエスの姿です。子どもの尊厳 を守るということと、主イエスのもとへ子どもを招くということは重なり合いながらも、福音はそこに、神との関係というもう一つの深さを加えています。
そして、今日の箇所には、子どもたちを主イエスのもとへ「連れて来た」人々がいました。 このことも大切です。子どもを招くとは、教会が望む姿に整えてから迎えることではありま せん。静かにできるようになったら、聖書の話が分かるようになったら、信仰についてきちんと答えられるようになったら、という条件を付けることでもありません。今ある姿のままで、その人を主イエスの前へ連れて来ることです。教会に与えられている役割は、誰がふさわしいかを判定することよりも、主イエスがその人に触れ、祝福してくださるための道を開 いておくことにあります。子どもを招くとは、その子と主イエスとの間に、余計な壁を作らないということなのです。 人が尊ばれるのは、価値を証明できたからではありません。主イエスがその人を招き、ご自分の手を置いてくださるからです。子どもたちは、自分の力で主イエスの前に立つ資格を 手に入れて来たのではありませんでした。誰かに連れて来られ、ただそこに立ち、祝福を受けました。その姿に、神の国のあり方が表れています。神の国では、自分の力で何かを勝ち取ることより、神から与えられるものを受け取ることが大切にされます。自分の手柄によって神に近づくのではなく、招かれた者として、その恵みを受け取るのです。 ここで私たちは、「子ども」という言葉を、教会にいる子どもたちだけに向けて聞いてしまいやすいのではないでしょうか。もちろん、教会は子どもを妨げてはなりません。礼拝の中で声を出したら迷惑ではないか、十分に理解できないのに来ても意味がないのではないか、そのような空気が子どもやその家族を教会から遠ざけてしまうことがあります。主イエスの言葉は、そのような私たちの姿勢を問い直します。そして同時に、この御言葉は、ここに集う私たち一人一人へ向けられています。主イエスの前に立つとき、私たち自身がこの子どもなのです。 私たちは大人になるにつれて、自分でできることが増えていきます。働き、考え、決断し、責任を負い、時には人を支える側にもなります。そのことは大切です。しかし、その経験が積み重なるほど、神の前でも自分の力で立てるような気持ちになることがあります。これだけ祈ってきた、これだけ教会に仕えてきた、これだけ聖書を知っている、これだけ正しく生 きようとしてきた。その積み重ねが、いつの間にか神の前に立つための自信へと変わっていきます。反対に、失敗したとき、信仰が弱くなったとき、祈れなくなったときには、神の前から身を引こうとします。ここにも、弟子たちが子どもたちの前に作ったのと同じような壁が生まれてきます。 弟子たちは、主イエスのところへ来る者を選ぼうとしました。そこで主イエスは、「とめてはならない」と言われました。この言葉は、他の人を妨げてはならないという戒めであると同時に、自分自身を主イエスから遠ざけてしまう私たちへの呼びかけでもあります。私たちは、信仰が足りない、もっと立派にならなければならない、もう少しきちんとしてからでなければならない、と考えて、自分で自分の前に壁を作ってしまうことがあります。しかし 主イエスは、今の私たちをそのまま招いてくださいます。何かを証明してから近づく必要は ありません。何も持たない子どもが連れて来られたように、私たちもまた、今ある姿のままで主の前に立つことが許されています。 マタイによる福音書では、この少し前の十八章で、弟子たちが「天国でいちばん偉いのは だれでしょうか」と主イエスに尋ねています。そのとき主イエスは一人の幼な子を呼び寄せ、 彼らの真ん中に立たせました。弟子たちの関心は、誰が上に立つのかということに向いていました。そこで主イエスは、低く、小さく、人の助けを受けながら生きる者を真ん中に置か れました。そして十九章でも、弟子たちはその意味を十分に理解できず、子どもを主イエス から遠ざけようとします。私たちも同じです。信仰生活が⾧くなれば、それだけで神の御心 が分かるようになるとは限りません。自分が神の前でどのような者であるかを忘れたとき、 主イエスのそばにいながら、主イエスが招いておられる人の道をふさいでしまうことさえ あります。 それでは、子どものようになるとは、どのようなことでしょうか。主イエスがここで示しておられるのは、子どもの無邪気さそのものを理想とすることではありません。神の前で、 自分が受け取る者であることを知る姿です。子どもは、自分の命を自分で生み出したわけで はありません。多くのものを与えられ、養われ、支えられて生きています。私たちも神の前では同じです。命も、赦しも、救いも、神からいただくものです。信仰とは、その恵みを受け取ることです。自分の手に何かを握りしめて神の前へ出るよりも、その手を開いて、神が与えてくださるものを受け取る。そこに子どものように神の国を受け入れる姿があります。 フランシスコ教皇の前に走り出てきたあの男の子は、集会の進行を理解していたわけではなかったでしょう。そこにいるための作法を知っていたわけでもなかったでしょう。それでも教皇は、その子がそこにいることを受け入れました。そして、その自由な姿を見ながら、自分も神の前でこのように自由だろうか、と問いかけました。私たちもまた、神の前で、うまく説明できず、整った言葉で祈れず、自分が何を必要としているのかさえ分からないことがあります。それでも主イエスは、「来るのをとめてはならない」と言ってくださいます。 私たちが迷いながら近づいても、その歩みを受け止め、ご自分のもとへ迎えてくださいます。
「来させなさい。妨げてはならない。」この言葉を、今日はまず自分自身に向けられた言 葉として聞きたいと思います。主イエスの前で、私たちは皆、連れて来られ、祝福を受ける子どもです。私たちがここにいる理由は、主が招いてくださったことにあります。信仰の⾧さも、働きの多さも、私たちの立場を決めるものではありません。主の招きが先にあり、その招きの中に私たちは置かれています。だからこそ、自分で自分を主から遠ざける必要はありません。そして、自分がそのように受け入れられた者だと知るとき、他の誰かの前にも、主イエスへ向かう道をふさぐ壁を作らずにすむようになります。小さな者も、弱った者も、信仰に自信を失った者も、何も持たない者も、主はご自分のもとへ招いておられます。主イエスは今日も私たちに言われます。「わたしのところに来るのをとめてはならない」。その招きに身をゆだね、子どものように手を開いて、主の祝福を受け取りたいと思います。