「赦すことは・・・」マタイによる福音書18:21~35

深谷教会聖霊降臨節第19主日礼拝2026年9月27日
聖書:マタイによる福音書18章21~35節
説教:「赦すことは・・・」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-1,445
奏楽:野田治三郎兄

            説教題:「赦すことは・・・」佐藤嘉哉牧師
                マタイ福音書18:21~35

  私たちは聖書を読みます。説教を聞きます。礼拝を守ります。そして、その中でさまざまなことを学び、覚えていきます。それは大切なことです。けれども、信仰の歩みが「学ぶこと」「覚えること」だけになってしまうと、いつの間にか御言葉を、自分がもう知っているものとして扱うようになります。「この箇所は前にも読んだ」「この話は知っている」「赦しについてなら、もう何度も聞いた」。そう思うと、聖書を開くことも、説教を聞くことも、 自分にはもうそれほど必要がないように感じてしまうかもしれません。けれども、本当にそうでしょうか。聖書は一度学んで覚えれば終わるものなのでしょうか。福音は理解すればもう聞かなくてもよいものなのでしょうか。今日の御言葉は、むしろ逆のことを私たちに教え ています。私たちは何度でも御言葉に出会い、何度でも福音を聞き直し、何度でも「私は主 によって赦された者なのだ」と立ち返る必要があります。なぜなら、そのことを忘れるとき、 私たちはすぐに自分の正しさを中心にしてしまうからです。
 ペテロはイエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」と尋ねました。後のユダヤ教の伝承には「3 度まで赦す」 という考えも見られますから、ペテロの「7回」はかなり寛大な提案だったのでしょう。し かしイエスは、「七たびを七十倍するまでにしなさい」と答えられました。これは490回まで数えなさいという意味ではありません。「何回赦したかを数える」という発想そのものか ら離れなさいということです。私たちは傷つけられると、その傷を数えます。「また言われた」「前にもされた」「これで何度目だろう」と心の中に記録を残します。そして数えれば数えるほど、自分は正しい側にいるように思えてきます。しかしイエスは、その記録簿を閉じるように促されます。赦しは、自分の寛容さを証明することから始まるのではありません。 まず、自分がどれほど大きな憐れみを受けているかを知るところから始まるのです。
そこでイエスは、王と家来のたとえを語られます。その家来には 1 万タラントという途方もない借金がありました。1タラントを約6000デナリ、1デナリを1日分の労賃と考え るなら、1万タラントは6000万日分(164,383 年)の労賃です。到底返せる額ではありませ ん。それでも家来は、「しばらくお待ちください。全部お返しいたします」と願います。しかし問題は、どうやって返すかではありません。そもそも返せないのです。すると王は、この家来をあわれみ、借金そのものを赦しました。家来が赦されたのは、返済能力があったからでも、誠実だったからでもありません。ただ王があわれんだからです。ここに私たち自身の姿があります。私たちは神の前で、自分の力によってすべてを清算できる者ではありません。正しく生きたいと思いながら間違え、人を大切にしたいと思いながら傷つけ、神を信じていると言いながら自分を中心にしてしまいます。その負い目を少しずつ返し、やがて合格 点に達した者が救われるというわけでもありません。私たちは返すことのできない者です。 それにもかかわらず、神はあわれみ、赦してくださる。だから私たちは、自分の正しさによってではなく、赦された者として神の前に立つのです。
 ところが、その家来は外へ出ると、自分に 100 デナリを借りている仲間に出会います。 100 デナリはおよそ100日分の労賃で、決して小さな額ではありません。しかし1万タラ ントとは60万倍もの差があります。しかも仲間は、「しばらく待ってくれ。返すから」と、 先ほどこの家来自身が王に語ったのとほとんど同じ言葉を口にします。目の前に、つい先ほどまでの自分の姿があるのです。それにもかかわらず、彼は仲間を赦さず、牢に入れてしま いました。ここに、このたとえの最も厳しいところがあります。この家来は赦しを知らなかったのではありません。誰よりも大きな赦しを経験した人でした。それでも、その赦しが自分の生き方にまで届かなかったのです。「赦された」という出来事は経験した。しかし、「私は憐れみによって赦された者なのだ」という事実の中に生き続けなかった。私たちにも同じ危うさがあります。「神は赦してくださる」「十字架によって罪は赦された」と知っていても、 それを知識として持っていることと、今日もその赦しを必要とし、その赦しの中で生きることとは同じではありません。福音を「もう知っている」と思ったとき、私たちはいつの間にか自分の正しさを中心に据えます。「私は正しい」「あの人は間違っている」と、自分の尺度で人を測るようになります。だから私たちは何度でも御言葉に戻る必要があります。新しい知識を増やすためだけではありません。忘れてしまう私たちが、何度でも福音へ連れ戻されるためです。「あなたは、自分の力で立っているのではない。憐れみによって赦された者な のだ」と聞かされ続ける必要があります。
 王は家来を呼び戻し、「わたしがおまえをあわれんでやったように、おまえもあの仲間を あわれんでやるべきではなかったか」と語ります。ここには、はっきりとした順序がありま す。まず王があわれみ、まず王が赦した。だから、その憐れみを受けた者もまた仲間をあわれむはずだった。人を赦すことによって神の赦しを買うのではありません。神の憐れみが先 です。しかし同時に、イエスの言葉は厳粛です。「心から兄弟をゆるさないならば」と最後に語られます。神の赦しは、私たちを何も変えないままにしておく恵みではありません。神の憐れみを受けた者は、その憐れみによって少しずつ生き方を変えられていきます。ただし、 赦すとは、傷つかなかったことにすることではありません。相手のしたことを正しかったことにすることでもありません。壊れた信頼がすぐ元どおりになるとも限りません。実際、この箇所の直前でイエスは、兄弟が罪を犯したなら、その罪に向き合うよう教えておられます。 ですから、時には距離を取る必要がありますし、不正に対して責任を問うことも必要です。 赦しと和解、赦しと信頼の回復は同じではないということです。それでも赦しには 1つの方向があります。それは、自分が受けた傷を根拠に、相手を永遠に自分の裁きの中へ閉じ込めておかないことです。自分の手に握っている報復の権利を神に委ねていくことです。そして、その決断は1度で終わりません。同じ痛みがよみがえるたびに、もう1度神の前に持っていかなければならないこともあります。
 その赦しの根拠を最も深く示すのが、キリストの十字架です。最後の晩餐でイエスは、「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」と語られました。私たちの罪は軽く扱われたのではありません。キリストが十字架を負い、その身をもって罪の重さを引き受けてくださいました。だから私たちは赦されています。赦すに値する者だったからではなく、ただキリストのゆえに、恵みによって赦されています。だから、人を赦せなくなったとき、まず必要なのは、「もっと広い心を持とう」と自分を奮い立たせることではありません。まず十字架の前に戻ることです。「私は主によって赦された者なのだ」と、もう1度聞くことです。昨日知っていたから今日は必要ないのではありません。昨日赦された者として生きたからこそ、今日もまた赦された者として生きる必要があります。だから聖書を開きます。知っていないからではなく、知っていても忘れてしまうから 開くのです。説教を聞きます。1度も聞いたことがないからだけではなく、何度聞いても自分を中心に戻ってしまうから聞くのです。教会もまた、正しい者が集まる場所ではなく、共に赦された者が集められている場所です。考え方も経験も違う私たちが、共に十字架の前に立つとき、違いの中でも相手を神の憐れみのうちに見る道が開かれていきます。 説教題を「赦すことは……」としました。その続きを今日の御言葉から言うなら、赦すことは、神に赦された者として、その憐れみを隣人に向けて生きることです。そして、そのために何度でも、自分が赦された者であることへ立ち返ることです。
 最後に、コーリー・テン・ ブームの話をしたいと思います。彼女は第 2 次世界大戦中、ユダヤ人をかくまったために 強制収容所へ送られ、姉をそこで失いました。戦後、ドイツで神の赦しについて語っていたある集会で、自分が収容されていたラーフェンスブリュック収容所の看守が彼女の前に現 れました。その男性は戦後キリスト者となり、神が自分の罪を赦してくださったと信じている、そしてあなたにも赦してほしい、と手を差し出しました。しかしコーリーは、その手を握ることができませんでした。姉を失った悲しみも、自分たちが受けた屈辱も、苦しみも、 すべてがよみがえってきたからです。彼女は赦しについて説教していました。赦すべきことも知っていました。それでも赦せなかったのです。そこで彼女は心の中でイエスに助けを求めました。自分には赦す力がない。しかし、自分にできることとして手を差し出そうとした。 そのとき、自分の力ではない神の愛によって、その人を赦すことができたと証ししています。 そして彼女は、その後は誰でも簡単に赦せるようになったとは言いませんでした。その後も 人に傷つけられ、怒り、赦せなくなることがあり、そのたびにもう1度神のもとへ戻らなければならなかったのです。
私は、そこに今日の御言葉と重なるものを見るように思います。神の恵みは、1度理解したら自分の中に蓄えておけるものではありません。今日もまた受け取るのです。今日もまた 「あなたは赦された者だ」と聞くのです。私たちの心にも、まだ手放すことのできない苦しみや赦すことが難しい出来事があるかもしれません。すぐに感情を変えることはできないかもしれません。それでも、その痛みを抱えたまま十字架の前に立つことはできます。「主よ、私はあなたによって赦された者です。私にはこの人を赦す力がありません。どうかあなたの憐れみによって導いてください」と祈ることはできるはずです。赦しは。主の憐れみから始まります。十字架から始まります。私たちは、赦すことのできる立派な者として生きるのではなく、何度でも赦された者として生きるのです。だからこれからも聖書を開きます。 知っているから開かないのではなく、知っていてもなお開きます。そして、そのたびに福音へ戻されます。「あなたは主の十字架によって赦された者だ。」その御言葉を受け続けるとき、 自分の正しさを握りしめていた私たちの手が少しずつ緩められていきます。そして、その開かれた手で隣人の手を取ることができるように、主ご自身が私たちを変えてくださるのです。昨日も、今日も、そして明日も。何度でもその恵みに立ち返りながら、赦された者として歩んでいくことなのです。

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