深谷教会降誕前第9主日礼拝2026年10月18日
司会:斎藤綾子姉
聖書:マタイによる福音書19章16~30節
説教:「らくだが針の穴を」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-83,149
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「らくだが針の穴を」佐藤嘉哉牧師
マタイによる福音書19章16~30節
ある青年が主イエスのもとに来て、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいこと をしたらいいでしょうか」と尋ねました。彼は軽い気持ちで質問したのではなかったと思い ます。永遠の生命を求め、自分の生き方を真剣に考え、より正しい道を知りたいと願っていたのでしょう。主イエスが戒めを示すと、青年は、それらはみな守ってきましたと答えます。 少なくとも自分では、神の前に誠実に生きてきたつもりでした。それでもなお、「ほかに何 が足りないのでしょう」と問わずにはいられなかった。彼の心には、自分の生き方に欠けて いるものがあるという感覚が残っていたのです。そこで主イエスは、「もしあなたが完全に なりたいと思うなら」と言って、持ち物を売り、貧しい人々に施し、それから「わたしに従ってきなさい」と語ります。すると青年は、この言葉を聞いて悲しみながら立ち去りました。 多くの資産を持っていたからです。
この青年の登場の直前には、人々が子どもたちを主イエスのもとに連れて来る場面があります。弟子たちはそれを制しましたが、主イエスは「幼な子らをそのままにしておきなさ い」と言い、彼らを受け入れました。子供たちは、自分の功績を並べて祝福を受けたのでは ありません。ただ連れて来られ、主の前に身を置き、与えられるものを受け取りました。そのすぐ後で青年は、「どんなよいことをしたらいいでしょうか」と尋ねます。この並びには、 どこか象徴的なものがあります。自分の行いによって神の国にふさわしくなろうとする心 と、自分では獲得できないものを受け取る心との違いです。主イエスが青年に迫ったのは、 まさにこの違いだったのではないでしょうか。 この箇所を読むと、主イエスはどうしてここまで厳しいことを言ったのだろうと思わされます。せっかく永遠の生命を求めて近づいてきた青年です。戒めを守ろうと努力し、神の 御心を知りたいと願っている人でもあります。そのような人に対して、持っているものを全 部売り払いなさいと求めれば、立ち去ってしまうことは十分に考えられます。もう少し穏やかな言葉をかけてもよかったのではないか、と感じるかもしれません。しかし主イエスは、 この青年を追い払おうとして厳しい条件を示したのではありません。むしろ、彼自身もまだ 気づいていない心の中心を明らかにしようとしたのでしょう。青年は「何をすればよいか」 と尋ねました。これまで戒めを守り、さらに何か良い行いを積み重ねれば、永遠の生命に到 達できると考えていたのです。けれども主イエスが見ていたのは、行いの数ではなく、何に 自分の人生を委ねているのかということでした。 青年は「何が足りないのでしょう」と尋ねました。おそらく彼は、今までの歩みにもう一つ何かを加えればよいと考えていたのでしょう。ところが主イエスが示したのは、さらに何かを獲得する道ではなく、むしろ手を放す道でした。足りないものを埋めるために何かをではなく、自分を支えていると思い込んでいるものを神の前で相対化する。そこに、 この青年がまだ知らなかった信仰の姿がありました。
青年にとって財産は、単なる所有物ではなかったのでしょう。それは努力の結果であり、 将来を保証するものでもあり、社会の中で自分を支える力でもありました。人は自分を支えてくれるものを簡単には手放せません。お金だけではありません。地位、経験、能力、評判、 家族との関係、自分なりの常識、⾧い間大切にしてきた考え方も、わたしたちに安心を与え ます。それらはそれ自体として悪いものではありません。しかし、いつの間にか「これがあるから自分は大丈夫だ」と思い始めると、それは神に代わって自分を支えるものになります。 主イエスは青年に、財産が悪いから捨てなさいと言ったのではなく、あなたはそれを失って もなお神に自分を委ねることができるのか、と問うたのではないでしょうか。「わたしに従 ってきなさい」という最後の言葉こそ、この命令の中心です。何かを失うことが目的なので はなく、握りしめているものから手を放して、主に従うことが求められているのです。
青年が去った後、主イエスは弟子たちに、「富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである」と語り、さらに「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を 通る方が、もっとやさしい」と言われました。らくだは当時の人々が日常の中で知っていた 大きな動物であり、針の穴は極めて小さなものです。普通に考えれば、そこを通ることなど 考えられません。だから弟子たちは驚いて、「それでは、だれが救われることができるのだ ろう」と言いました。ここで大切なのは、その次の主イエスの言葉です。「人にはそれはで きないが、神にはなんでもできない事はない」。主イエスは、人間の力だけで救いに到達で きるとは言っていません。むしろ、人の側から見ればできないとはっきり語っています。しかし、そこで話を終えてはいません。人にはできない。けれども神にはできる。これが、この厳しい言葉の先に置かれている福音です。 わたしたちは、らくだが針の穴を通ると聞けば、「そんなことは無理だ」と判断します。 それは常識的には当然です。わたしたちは経験を重ねるほど、「これはできる」「これはでき ない」と早く判断できるようになります。それは生活のために必要な知恵でもあります。し かし、その判断があまりに強くなると、神の働きに対してまで「そんなことは起こらない」 「この人は変わらない」「この問題はもうどうにもならない」「自分には新しい道はない」と決めつけてしまいます。人間の常識から見れば難しいこと、あるいは不可能に見えることが ある。しかし世界を造り、人を造り、歴史を導かれる神にとって、わたしたちの常識が最後 の限界ではありません。主イエスは「らくだが針の穴を通る」と言って、わたしたちの常識 の狭さを笑ったのではなく、その狭い判断の外に神の力があることを示したのだと思いま す。
そう考えると、わたしたちが信仰者として持つべきものは、特別な能力や強い意志という より、神の前で心を固くしないことではないでしょうか。自分の経験だけを絶対にしないこと、自分の所有するものだけを頼りにしないこと、自分が正しいと思ってきた価値観を神の 言葉によって問い直されることを恐れないことです。言い換えるなら、神に向かって手を開 いている心です。握りしめた手には、新しいものを受け取る余地がありません。青年は多く のものを持っていましたが、そのために手を開くことができなかった。彼が欠いていたのは、 もう一つの善い行いではなく、神に委ねるために手を放す自由だったのかもしれません。主 イエスの言葉が厳しく聞こえるのは、わたしたちが最も手放したくないところに触れるか らです。しかし、その厳しさは人を傷つけるためではなく、本当に自由になるところへ招く 厳しさです。 ここで、わたしたちは自分に何を問いかければよいのでしょうか。「すべてを売り払える か」と自分を試すことだけが、この箇所の読み方ではないと思います。むしろ、「自分は何 がなければ生きられないと思っているだろうか」「神よりも確かなものとして握りしめてい るものはないだろうか」と問うことが大切です。財産を持っていること自体が罪なのではあ りません。仕事を大切にすることも、家族を守ることも、自分の経験を生かすことも必要で す。しかし、それらが揺らいだときに、神まで見失ってしまうなら、いつの間にかそれらが 心の中心に置かれていたことになります。反対に、何かを失ってもなお「神はここからでも 道を開くことができる」と信じられるなら、そこには神に向かって開かれた心があります。 信仰とは、何も持たないことではなく、持っているものに自分の全存在を縛られないことです。
この後、ペテロは「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。 ついては、何がいただけるでしょうか」と尋ねます。青年とは違って、自分たちは捨てたの だから、その分だけ報いがあるはずだという思いが見えます。主イエスは、従ってきた者に 与えられる恵みを語りながら、最後に「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先 になるであろう」と付け加えます。ここにも、人間の計算を超える神の御心があります。財 産を多く持つ者が有利なのでもなく、多く捨てた者がその量によって上位に立つのでもあ りません。神の国は、わたしたちが持っているものや、成し遂げたことの量で順番が決まる 世界ではないのです。だからこそ、青年だけでなく何もかも捨てて従ったと考える弟子たち もまた、自分の功績を握りしめないようにと問われています。 わたしたちは、自分の常識や経験を持って生きています。それを完全に捨てることはでき ませんし、捨てる必要もありません。ただ、その常識を神より大きなものにしないことです。 自分には無理だと思えることがあっても、神まで無理だと決めつけない。人は変わらないと 思えるときにも、神はその人の内に働くことができる。教会の将来が見えないと感じるとき にも、神はわたしたちの見えていない道を備えることができる。自分の弱さに行き詰まると きにも、神はその弱さを通して新しい歩みを始めることができます。大切なのは、自分が強 くなることではなく、神の働く余地を自分の心の中に残しておくことです。
「らくだが針の穴を通る」という言葉は、人を絶望させるために語られたのではありませ ん。人間の力では届かないところに救いがあり、それを神が与えてくださることを示す言葉 です。青年は、自分の持っているものを手放すことができず、悲しみながら去りました。し かし物語は、彼の悲しみで終わらず、「神にはなんでもできない事はない」という主イエス の言葉へと進みます。わたしたちも、自分の中にある固い思い、手放せない価値観、これだけは変えられないと思うものに気づくことがあります。そのとき、それを無理に自分の力だけで壊そうとするのではなく、神の前に差し出せばよいのです。
人にはできないことを、神はできる。わたしたちに求められているのは、その神の働きを最初から閉ざさず、御言葉に よって自分が変えられることを受け入れる心です。主に従うとは、すべてを自分で成し遂げ ることではなく、自分の限界の向こうにも神の可能性があると信じ、その御手に自分を委ね て歩んでいくことなのです。