「ルツの信仰」 ルツ記1章

2021年9月19日深谷教会聖霊降臨節第18主日礼拝
保母光彦牧師説教
説教題:ルツの信仰 
聖書:ルツ記1章

★暗誦聖句
・9月20日(月):詩篇16篇2節●
わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸いはない」と。
・9月21日(火):申命記23章4節●
これはあなたがたがエジプトから出てきた時に、彼らがパンと水を携えてあなたがたを道に迎えず、アラム・ナハライムのベトルからベオルの子バラムを雇って、あなたをのろわせようとしたからである。
・9月22日(水):創世記19章36~38節●
こうしてロトのふたりの娘たちは父によってはらんだ。姉娘は子を産み、その名をモアブと名づけた。これは今のモアブびとの先祖である。妹もまた子を産んで、その名をベニアンミと名づけた。これは今のアンモンびとの先祖である。
・9月23日(木):ルツ記1章1節●
さばきつかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。
・9月24日(金):ルツ記1章14節
彼らはまた声をあげて泣いた。そしてオルバはそのしゅうとめに口づけしたが、ルツはしゅうとめを離れなかった。
・9月25日(土):ルツ記1章22節●
こうしてナオミは、モアブの地から帰った嫁、モアブの女ルツと一緒に帰ってきて、大麦刈りの初めにベツレヘムに着いた。

★説教要約
*目標:人間にははかり知れない神のご計画に信頼し、どこまでも主についていく覚悟  と信仰を学ぶ。
*主題:まことの神に従うことを選んだ異邦人。
*暗誦聖句:「あなたこそ、私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません」 (詩篇16:2●)

〔導入〕
暗唱聖句を読みましょう。 日本語の「主」とは主人のことで、自分が仕えるべき相手、という意味です。聖書の神様が「主」と呼ばれるのは、私たちが神様のしもべだからです。
今日は、聖書の神様こそ自分の「主」だと知って、神様に従うことが、何よりも幸せなことだと気づいた人の話です。

主題の背景
 士師記からルツ記の学びに移る。時代は冒頭の「さばきつかさが治めていたころ」にあるように(1:1●)、同じ時代におけるもう一つの神のみわざの貴重な記録である。
 前回まで、当時のイスラエルが周辺諸国としれつな戦いを繰り広げたり、その支配に屈していたり、絶えず悩まされていたことを見た。ルツ記にはそうした言及は一切見られない。戦争は都市部などを中心として局所的なもので、舞台となったベツレヘムの農村部ではその影響は少なかったと考えられる。それでも民族問題は根強いものがあった(2:22ほか)。一方聖書の神は民族関係なく、ご自身への信仰を最優先し、そのために困難な道を選ぶ者を慈しみ、祝福される。「異邦人」の寡婦ルツを通して示される神のくすしきみわざをあがめて、同じ異邦人である私たちもルツの歩みに倣いたい。

テキストの解説
 最初の舞台であるモアブは、西に死海、北はアルノン川、南はゼレデ川に囲まれた高原地帯である。モアブ人は、ロトと姉妹から生まれたモアブが先祖である(創世19:30~37)。イスラエルと血縁関係にありながら、総じて対立の歴史を重ねており(士師3章等)、モアブの宗教および道徳性はイスラエルにとって脅威であった(民数25:1~5,士師10:6)。本書は、双方が友好的な時代であったと思われる。
 
1.ナオミを襲う数々の試練 (1~5節)
 士師記には「飢饉」の記述はない。ルツ記は、一家をして他国に移住を余儀なくするほど深刻な事態であったと記す。ナオミはわずか十年の間に、他国への移住、夫の死、息子たちの死と、次々に試練に見舞われてしまう。

2.帰郷の決断 (6~14節)
 イスラエルが飢饉を脱したとの情報をきっかけに、ナオミは帰郷を決断する。当初は二人の嫁たちを伴っての帰郷であった。しかし、途上でナオミは彼女たちの行く末を案じ、実家に戻るように促し始める。それなりの決意で同行してきた嫁たちにしてみれば、義母の心変わりは相当ショックだったようだ。「彼女たちは声をあげて泣いた」。それでも「一緒に戻ります」と、変わらぬ決意を表明する。
 そんな嫁たちに、ナオミは自分の肉親であり続ける限り展望は開けてこない、互いに傷つくだけだと、ことばを尽くして言い聞かせる。それはひとえに彼女たちの将来を憂い、自分ではなく彼女たちにとって何が最善なのかを、ナオミなりにけんめいに考え尽くしての結論であった。弟嫁オルパはこれに従い、ナオミとは別の道を選ぶ。しかし「ルツは彼女にすがりついた」。

3.ルツの決意 (15~18節)
 「あなたの弟嫁は・・・その神々のところに帰って行き」に、非難の意味はないと思われる。むしろ、これに続くルツの応答との関連・対比に着目すべきであろう。
 ナオミにとっては本拠地への帰郷とはいえ、ここでひとりにしてしまうのはルツにとって母を「捨て」るに等しい行為であった(十字架上での主の訴え「どうして・・・お見捨てになったのですか〔サバクタニ〕」と同じ語)。生来の情の厚さもあったであろうが(「ルツ」には「友なる女」の意味が考えられる)、明確な神信仰が彼女の中心を占めていたことを聖書は伝える。
 ナオミの促しに、ルツは「あなたの神は私の神」と応じる。彼女はモアブの神々を捨て、イスラエルの神を信じる信仰に至っていた。締めくくりの「主が幾重にも私を罰してくださるように」がこれを裏づけている。
 モアブ人がイスラエルで生きていくこと自体、容易ではない(申命23:1~6)。モアブならまだやり直す可能性があった。それに背を向け、寡婦のまま、しかも異国で義母を支えるのはよほどの覚悟がなくてはできない。何の保証もない中、この決意を支えたのはただ神により頼むルツの信仰であった。ナオミ自身「もうそれ以上はいわなかった」ことは、ルツの「固い決心」が一時の感情でなく、本物であったことを証している。

4.ベツレヘムでの新生活 (19~22節)
 ナオミたちはベツレヘムに到着する。人々の「騒ぎ」とナオミの冷淡さが対照的である。人々に対する受け答えから、モアブでの試練でいかに意気消沈していたかがうかがえる。人々はナオミを単に名前で呼んだにすぎないのに、「ナオミ」本来の意味と(「快い」の派生語。新改訳聖書欄外注参照)、今の境遇との落差が身にこたえている。自嘲気味に「マラ」(「苦しむ」の派生語)と呼ぶように求める。
 深刻なのは神との関係である。「全能者/主が私を・・・」と、四度苛酷な取り扱いを語る。文句よりも、人生を否応なしに支配する「全能者」を身をもって知った、信仰者の悲痛をにじませている。嫁ルツこそがモアブでの最大の「収穫」であることにナオミはまだ気づいていない。
 悲嘆のさなか、聖書はみわざの始動をほのめかす。彼女たちの到着は図らずも「大麦の刈り入れが始まったころ」。この句は二人の到着を祝福しています。次回、ここから物語は劇的な展開を見せ始めます。

 

  

関連記事

PAGE TOP