深谷教会復活節第7主日礼拝2026年5月17日
司会:落合正久兄
聖書:ヨハネによる第一の手紙2章1~11節
説教:「弁護者イエス」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-6,196
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「弁護者イエス」 ヨハネの第一の手紙 2:1~11 佐藤嘉哉牧師
本日の聖書箇所でヨハネは、「わたしの子たちよ」と語り始めています。この呼びかけには、教会に生きる人々への深い愛情が込められています。そしてヨハネはまず、「これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである」と語ります。ここには、信仰とは何かという大切な問いがあります。わたしたちは、単にキリスト教という宗教を信じているのではありません。教えや文化、思想としてキリスト教を受け入れているだけでもありません。わたしたちが信じているのは、生きておられる神であり、その神のもとから来られた主イエス・キリストです。だから信仰とは、知識を積み重ねることではなく、神との関係の中に生きることです。そしてその神との関係の中で、わたしたちは自分自身の姿を知らされていきます。
ヨハネは、「罪を犯さないようになるため」と語ります。つまり、神を知るとは、自分が罪を持つ者であることを知ることでもあります。人は、自分を正しいと思っている間は、本当には神を必要としません。しかし神の光に照らされるとき、わたしたちは自分の内側にあるものを見せられます。怒り、嫉妬、赦せなさ、傲慢さ。そのようなものが自分の中にも確かにあることに気づかされるのです。聖書は、人間を単純に善人と悪人に分けてはいません。神の御前では、すべての人が罪を持つ存在として立っています。立場も年齢も、社会的評価も関係ありません。誰もが神の前では、自分の力だけでは義とされ得ない者です。しかし、ここでヨハネは福音を語ります。「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」。この「助け主」という言葉は、ギリシア語では「パラクレートス」という言葉です。これは「そばに呼ばれた者」という意味を持つ言葉で、法廷で弁護する人、執り成す人を表す言葉として用いられました。ヨハネ福音書では、主イエスが聖霊について語られるときにも使われている言葉です。つまりヨハネはここで、主イエスが今もなお、わたしたちのために神の御前に立ち、執り成してくださる方であることを語っているのです。
さらにヨハネは、主イエスを「義なるイエス・キリスト」と呼びます。ここで重要なのは、執り成してくださる方が「義なる方」であるということです。本来なら、罪ある人間は神の前に立つことができません。しかし罪のない方が、そのわたしたちのために立ってくださる。だからこそ、わたしたちは神の前に出ることが許されているのです。続く2節でヨハネは、主イエスが「わたしたちの罪のためのあがない」であると語ります。この「あがない」と訳される言葉には、神の怒りを静め、関係を回復するという意味合いがあります。つまり十字架とは、単なる自己犠牲の象徴ではありません。神と人との断絶を、主イエスご自身が引き受け、回復してくださった出来事なのです。
また後半でヨハネは、「兄弟を愛する者は、光の中におり」と語りますが、この言葉の背景には、主イエスご自身の教えがあります。ヨハネ福音書13章で主イエスは、「わたしは新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい」と語られました。ヨハネはその言葉を受け継ぎながら、この手紙を書いているのです。ですからヨハネにとって、神を知ることと愛することは切り離せません。主イエスによって愛された者が、その愛の中で隣人を愛していく。それこそが、「光の中を歩む」ということなのです。
わたしたちは、人の前では自分を取り繕うことができても、神の前では自分の罪を隠しきることはできません。しかし主イエスは、そのようなわたしたちを見捨てず、父なる神の御前で執り成してくださるのです。ここで大切なのは、主イエスが罪を軽く見ておられるのではないということです。罪は確かに罪です。ヨハネも罪を曖昧にはしていません。しかし主イエスは、その罪を十字架において背負い、引き受けてくださいました。そして今もなお、わたしたちのために執り成してくださいます。だからキリスト者の信仰とは、「自分は正しい人間です」と胸を張ることではありません。「自分は罪ある者です。しかし、それでもなお主イエスが執り成してくださる」という恵みに立つことです。
この手紙が書かれた当時、教会は決して穏やかな状態ではありませんでした。教会の中には、「自分たちは特別に神を知っている」と語る人々が現れていました。信仰を愛ではなく知識や理解の高さによって測ろうとし、自分たちは他の人々より優れていると考えていたのでしょう。その結果、教会の交わりは傷つき、人と人との間に分裂や対立が生まれていました。そのような状況の中でヨハネは、「本当に神を知っているとはどういうことか」を語るのです。それは特別な知識を持つことではありません。神に愛され、主イエスによって赦された者として生きることです。そして、その神の愛を受けた者として、隣人を愛する歩みへ導かれていくことなのです。
ヨハネは続けて、「もし、『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者があれば、それは偽り者である」と語ります。かなり厳しい言葉です。しかしヨハネが語っている「戒め」とは、単なる規則ではありません。主イエスが示された愛の生き方です。主イエスは、「神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」を語られました。つまり神を知るとは、愛へと導かれていくことなのです。しかし、人を愛することは簡単ではありません。人は、自分を傷つけた相手を避けたくなります。嫌いな人を遠ざけたくなります。自分に都合の良い人だけを大切にしたくもなります。しかも厄介なのは、人はそのような自分自身に気づきながら、それでもなお同じことを繰り返してしまうということです。
遠藤周作の『沈黙』には、そのような人間の姿が非常に生々しく描かれています。キチジローは、何度も裏切りを繰り返す人物です。恐れに負け、逃げ、踏み絵を踏み、そしてまた赦しを求めて戻って来る。その姿は、立派な信仰者というより弱さを抱えた人間そのものです。そして神父であるロドリゴもまた、そのキチジローを嫌悪します。「なぜお前は何度も同じことを繰り返すのか」と感じるのです。しかし考えてみれば、神父と言えどロドリゴ自身もまた人間です。弱さを持ち、苦しみ、揺らぎ続ける存在です。遠藤周作は、その両方を描きました。人を裁く自分と、裁かれる自分。その二面性を描いたのです。
しかし『沈黙』が深いのは、そこで終わらないところにあります。遠藤周作が描いたキリストは、弱い人間を切り捨てる方ではありませんでした。何度も倒れ、何度も裏切る者を、それでもなお見捨てないキリストです。キチジローにも、そしてロドリゴにも、なお救いが開かれている。その結末に多くの人が深い納得を覚えるのは、そこに聖書が語る福音があるからではないでしょうか。
ヨハネは、「もし、罪を犯す者があれば、わたしたちのために助け主がおられる」と語りました。これは強い人間だけに与えられた言葉ではありません。倒れない人のための言葉でもありません。弱さを抱え、繰り返し失敗し、それでもなお神にすがるしかない者への言葉です。主イエスは、そのようなわたしたちのために、今もなお神の御前で執り成してくださるのです。
だからヨハネは、「彼のうちにいると言う者は、彼が歩かれたように、自らも歩くべきである」と語ります。キリスト者の歩みとは、完全な人間になることではありません。主イエスが歩まれた方向へ、自分も歩もうとすることです。失敗しないことではなく、神の愛へ向かって歩み続けることです。そしてヨハネは、「兄弟を愛する者は、光の中におり」と語ります。反対に、「光の中にいる」と言いながら、人を憎み続けるなら、その人はなお闇の中にいると言います。どれほど立派な言葉を語っても、どれほど正しい教理を知っていても、その人の内に愛がなければ、神の光は見えていない。これは非常に厳しい言葉です。しかし同時に、とても大切な問いでもあります。
わたしたちは、誰かを裁くことで自分を正しく見せようとしていないでしょうか。正しさを語りながら、愛を失ってはいないでしょうか。ヨハネは、愛こそが光の中を歩んでいるしるしだと言います。しかしその愛は、無理に自分の力で作り出すものではありません。愛の出発点は、まず神がわたしたちを愛してくださったことにあります。罪を抱えたままのわたしたちを、神は見捨てませんでした。主イエスは、その命をもって執り成してくださいました。わたしたちはまず、「赦された者」「愛された者」として生かされています。だからこそ、人を愛することができるのです。自分が赦されていることを知る人は、他者を赦す道へ導かれていきます。自分が神に受け入れられていることを知る人は、他者を拒絶するだけでは終わらなくなります。愛されているから、愛することができるのです。
教会は、その神の愛を知らされた者たちの群れです。完全だから集うのではありません。立派だから礼拝するのでもありません。罪を持ちながら、それでもなお主イエスによって招かれ、生かされているからこそ、共に礼拝するのです。主イエスは、今日もなお、わたしたちの弁護者としていてくださいます。その執り成しの中で生かされていることを覚えながら、神の愛に応える歩みへと導かれていきたいと思います。