「古い姿を脱ぐ」コロサイ人への手紙3:1~11

深谷教会復活節第3主日礼拝2026年4月19日
司会:西岡まち子姉
聖書:コロサイ人への手紙3章1~11節
説教:「古い姿を脱ぐ」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-215,542
奏楽:野田周平兄

   説教題:「古い姿を脱ぐ」 コロサイ人への手紙 3:1~11 佐藤嘉哉牧師

 本日の聖書箇所であるコロサイ人への手紙3章1節から11節は、信仰者の生き方の根本を示す重要な御言葉です。ここで語られているのは単なる道徳的な勧めではなく、すでに神によって与えられている新しい命に基づいた歩みです。パウロはまず、「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのであるから、上にあるものを求めなさい」と語ります。この言葉は命令でありながら、その土台にはすでに成し遂げられた出来事が置かれています。つまり、信仰者はこれから新しくなるのではなく、すでにキリストと共に新しい命に生かされている存在だということです。この出発点を見失うと、信仰は単なる努力や自己改善に変わってしまいます。しかし聖書はそう語りません。神が先に働かれ、その結果として新しい生き方が求められているのです。
 この考え方は、パウロ自身の信仰の中心にあるものでした。彼はかつて律法を厳格に守ることによって神に近づこうとしていましたが、復活のキリストと出会うことによって、その理解が根底から変えられました。人は自分の行いによってではなく、神がキリストにおいて成し遂げてくださったことによって新しくされる。この確信が、彼のすべての手紙の土台となっています。そしてこの信仰は、主イエスの語られた新しさの宣言とも響き合っています。古いものは過ぎ去り、新しいものがすでに始まっている。この現実に生きることこそが、パウロの語る「新しい人」の姿です。
 私は心理学を学んだことがありますが、人が古い生き方に固執してしまう理由にはいくつかの傾向があると説明されます。その一つは「現状維持バイアス」と呼ばれるものです。人は変化によって得られる利益よりも、失うかもしれないものを大きく見積もる傾向があります。そのため、新しい生き方が良いと頭では理解していても、今の状態を保とうとする力が働きます。また「習慣化」という側面も見逃せません。繰り返し行われた行動は脳の中で自動化され、意識しなくても同じ反応をするようになります。怒り方や言葉の使い方、人との距離の取り方などは、その典型です。さらに「認知的不協和」と呼ばれる現象も関係しています。自分の行動と理想が一致しないとき、人は行動を変えるよりも考え方を変えてしまうことがあります。つまり、古い生き方を正当化してしまうのです。このように考えると、古い姿を脱ぐということがいかに難しいかが分かります。しかし同時に聖書は、その困難さを見越した上で語られています。だからこそパウロは、「すでに新しくされた」という事実から語り始めるのです。自分の力だけで変わろうとするのではなく、神によって与えられている新しさに信頼して歩むとき、はじめて本当の変化が可能になります。
 さらに言えば、ルーティンというものも同じ性質を持っています。過去にそれを行うことでうまくいったという経験が積み重なると、それを繰り返すことで心が安定します。何をすればよいかが分かっているという安心があるからです。しかし私自身も、そうしたルーティンを守ろうとするあまり、それが少しでも乱されると焦りを感じたり、心が落ち着かなくなったりすることを経験してきました。過去の成功に支えられているはずの習慣が、いつの間にか自分を縛るものになってしまうのです。このような性質は誰の中にもあり、だからこそ古い生き方にとどまり続けてしまうのだと言えます。
 ただここで誤解してはならないのは、聖書が古い生き方そのものを全面的に否定しているわけではないということです。また、長く受け継がれてきた伝統や習慣そのものを退けているわけでもありません。問題とされているのは、それらが神から離れた自己中心の在り方に結びついてしまうときです。実際、信仰の歩みの中には大切に守るべきものも多くあります。祈りの習慣や礼拝の形、信仰の先達から受け継いできた歩みは、私たちを支える重要な土台です。しかし、それらが形だけのものとなり、新しく生きることを妨げるとき、本来の意味を失ってしまいます。パウロが語る「脱ぎ捨てるべき古いもの」とは、神に背を向ける在り方であって、良きものとして受け継がれてきた営みそのものではありません。だからこそ私たちは、自分の中にあるものが神に向かっているのか、それとも自分を守るためだけのものになっているのかを見極める必要があります。
 そしてここで、新しい生き方とは具体的にどのようなものかという問いが生まれます。この点については、続く12節から17節が非常に示唆的です。そこでは、あわれみの心、慈愛、へりくだり、柔和、寛容といった姿が挙げられ、互いに忍び合い、赦し合うことが求められています。そしてそれらすべてを結び合わせるものとして「愛」が示されます。またキリストの平和が心を支配し、キリストの言葉が豊かに宿るとき、感謝に満ちた歩みが生まれると語られています。つまり新しい人とは、特別な能力を持つ人ではなく、神との関係の中で形づくられ、人との関係において愛と赦しを具体的に表していく存在です。ここに、古い生き方とは全く異なる方向性が示されています。
 私たちは日々の生活の中で、古い生き方に引き戻されることがあります。長年続けてきた考え方や習慣は、私たちに安心感を与えます。慣れているというだけで、それが正しいかどうかを深く考えずに受け入れてしまうことも少なくありません。新しい歩みへと踏み出すよりも、これまで通りでいる方が失敗が少ないと感じるからです。しかし、そのような安心にとどまり続けるとき、私たちは知らず知らずのうちに神が与えようとしている新しい命の豊かさを拒んでしまうことになります。古いままでよいとするならば、キリストの十字架と復活は私たちの生活と切り離されたものになってしまいます。
 コロサイの教会は、この問題に直面していました。この町は小アジアにある地方都市で、多様な文化や思想が入り混じる場所でした。そこではユダヤ的な律法を重んじる考えや、厳しい禁欲を求める教え、さらには天使を特別に崇めるような思想が混在していました。その結果、人々はキリストを信じるだけでは不十分であり、何か別の規則や行いを付け加えなければならないのではないかと考えるようになっていました。そのような状況に対してパウロは、キリストにあってすでに完全な救いが与えられていることを改めて示し、その確かな土台の上に立って生きるように勧めます。だからこそ彼は、「地の肢体を殺してしまいなさい」と語り、古い生き方をはっきりと断ち切るように促します。
ここで挙げられている不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼりといったものは、単なる外面的な行為ではありません。それらは人の内側に深く根を張り、行動を支配する力です。さらに怒りや憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、偽りといったものは、他者との関係を壊していく具体的な表れです。これらはどれも特別な状況で現れるのではなく、日常の中に潜み、気づかないうちに繰り返されてしまいます。だからこそパウロは、それらを少しずつ改善するのではなく、「脱ぎ捨てなさい」と命じます。この言葉は非常に決定的です。古いものを身にまとったままでは、新しいものを着ることはできません。中途半端に残したままでは、変化は起こらないのです。
 そしてパウロは、「あなたがたは古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着たのである」と語ります。この表現はすでに完了した出来事として語られています。しかし同時にその新しい人は、「造り主のかたちに従って新しくされ続ける」とも言われています。ここには信仰の歩みの特徴がよく表れています。すでに与えられている新しさと、これからも続いていく変化が一つに結びついているのです。私たちは完成された存在としてではなく、神によって日々新しくされていく者として生きています。この視点に立つとき、自分の弱さや不完全さに気づいても、それに絶望するのではなく、なお神の働きに期待して歩むことができます。
 ここで改めて問われるのは、私たちがどこに立っているかということです。古い習慣にとどまり続けるのか、それとも与えられている新しい命に信頼して歩み出すのか。この選択は一度限りのものではなく、日々の中で繰り返し問われます。古い生き方はしばしば魅力的に見えます。そこには慣れ親しんだ安心があります。しかしそれは、神が備えている豊かさを狭めてしまう道でもあります。キリストの十字架は、私たちをそのままにしておくためではなく、新しくするためにあります。そして復活は、その新しさがすでに現実となっていることを示しています。
 11節では、その新しい命がもたらす共同体の姿が語られます。そこでは民族や宗教的背景、社会的立場による区別が意味を持たなくなります。「キリストがすべてであり、すべての中におられる」と言われるとき、人と人との間にあった壁は取り払われていきます。新しい人を着るとは、単に個人の内面的な変化にとどまらず、他者との関係の在り方をも変えていく出来事です。この御言葉は、教会がどのような共同体であるべきかを明確に示しています。
 この福音の力は、歴史の中でも具体的に示されてきました。マルティン・ルター・キングは、激しい人種差別の中にあって、キリストにある新しい人として生きる道を選びました。差別や暴力に対して、同じ方法で応じることは容易だったはずです。しかし彼はその道を取らず、愛と非暴力によって立ち向かいました。それは理想論ではなく、キリストにあってすべての人が一つとされるという信仰に基づく実践でした。「私には夢がある」という言葉はよく知られていますが、それは単なる希望ではなく、神がすでに始めておられる新しい現実への確信の表れでした。彼の歩みは、古い姿を脱ぎ、新しい人を着て生きるとはどういうことかを、私たちに具体的に示しています。
 最後に、一つのキリスト教の詩を思い起こします。「主よ、あなたは私に新しい衣を与えられた。古きものを脱ぎ捨て、あなたの光の中を歩ませてください」。私たちはすでに、新しい命を与えられています。だからこそ古い姿にとどまるのではなく、新しい人として歩むことが求められています。その歩みは決して容易ではありません。しかし神は、私たちを日々新しくし続けてくださいます。これが「愛」です。この確かな神の愛に支えられて、それぞれの場で新しい歩みを始めていきたいと思います。

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