「母の願い」マタイによる福音書20:20~28

深谷教会降誕前第8主日礼拝2026年10月25日
司会:高橋和子姉
聖書:マタイによる福音書20章20~28節
説教:「母の願い」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-203,300
奏楽:野田周平兄

                説教題:「母の願い」佐藤嘉哉牧師
                マタイによる福音書20:20~28

 今日の聖書には、ひとりの母親の願いが記されています。ゼベダイの子たちの母は、ヤコ ブとヨハネを連れてイエスのもとに来て、ひざまずきました。そして、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お 言葉をください」と願いました。自分の子どもが守られ、よい歩みをし、できるならば大切 な働きを担ってほしいと願うことは、親として自然な思いです。それでは、なぜこの母は、 ただ息子たちを祝福してくださいと願うのではなく、イエスの右と左という具体的な場所 まで求めたのでしょうか。
 この願いを理解する手がかりは、その少し前にあります。19章28節でイエスは弟子たちに、人の子が栄光の座につく時、従ってきた者たちも十二の位に座すると語っておられます。弟子たちは、やがてイエスが王として栄光を現され、自分たちもその王国に加えられる という約束を聞いていました。ゼベダイの子たちの母も、その期待を共有していたのでしょ う。王の右と左とは、王のすぐそばにある特別な場所です。彼女は、イエスが王座に着かれる時、二人の息子を最も近いところに置いてほしいと願ったのです。ですから、この母を単 純に欲深い母親と決めつけるだけでは、この願いの背景を見失います。彼女はイエスの御国 を信じていました。ただ、その国を、この世の王国と同じようなものとして思い描いていま した。
 その前には、ペテロが「わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、 何がいただけるでしょうか」と尋ねています。弟子たちの関心は、主に従った自分たちには 何が与えられるのかというところへ向かっていました。その問いに対してイエスは十二の 位について語られますが、すぐ続けて「先のたとえを語られます。朝から者があとになり、あとの者が先になるであろう」 と言われ、20章ではぶどう園の労働者働いた者にも夕方か ら働いた者にも同じ一デナリが与えられる、あのたとえです。そこでは、神の恵みは人間が 作る順位や功績の計算によって分配されるものではないことが示されています。ところが 弟子たちは、十二の位という言葉を聞くと、やはりその中で誰がよりよい場所に座るのかを 考えてしまいました。母の願いは、弟子たち全体が抱えていた思いを、目に見える形にした ものでもあったのです。 人は、神から与えられた約束さえ、自分の知っている尺度で理解してしまうことがありま す。神に用いられたいという願いが、いつの間にか人より認められたいという思いに変わる こともあります。
 しかも、この場面の直前で、イエスはエルサレムで御自身が死刑に定めら れ、あざけられ、むち打たれ、十字架につけられることを三度目に告げておられます。イエスは十字架を語っているのに、弟子たちの心には栄光の座が大きく映っていました。母もまた、その先にある勝利を思い、自分の息子たちの将来を願ったのでしょう。そこには愛情があり、信仰もありました。しかし、イエスがどのような王として即位されるのかについてはまだ大きな隔たりがありました。イエスは、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない」と言われます。 そしてヤコブとヨハネに、「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われ ました。
 この杯の意味は、後にゲツセマネの祈りではっきりします。イエスが父に取り去ってほしいと祈られた杯、それは御自身が引き受ける苦しみと死です。2人は主の右と左を望 みましたが、主のそばにいることが何を伴うのかは分かっていませんでした。イエスの栄光 への道は、人々から称賛されながら高い場所へ上る道ではなく、人の罪と苦しみを負って十 字架へ向かう道だったからです。
 そして、マタイによる福音書を読み進めると、「右」と「左」という言葉が、思いがけない形でもう一度現れます。十字架につけられたイエスの右と左には、二人の強盗が十字架に つけられていました。頭の上には「これはユダヤ人の王イエス」と書かれています。母が思い描いた王座は、栄光に輝く高い座であったでしょう。ところが福音書が示す王は、十字架 の上で御自身を差し出しておられます。人を従わせる力によってではなく、人のために命を 与えることによって、イエスは御自身がどのような王であるかを現されたのです。
 さらに心に留めたいのは、その十字架を遠くから見ていた女たちの中に、ゼベダイの子たちの母もいたことです。マタイは、彼女たちがガリラヤからイエスに従い、イエスに仕えて きた人々であったと記しています。かつて息子たちを主の右と左に座らせてほしいと願った母が、今は十字架の主を見つめています。その時に彼女が何を思ったのか、聖書は語りません。けれども、最初に求めた「主の近く」という場所の意味が、ここで全く違った姿を見せていることは確かです。イエスの近くにいるとは、主の栄光を利用して自分を高くすることではなく、仕える主に従うことだったのです。
 このことを考える時、賀川豊彦の歩みを思い起こします。賀川は神戸神学校の学生であった1909年、21歳の時、神戸の貧しい人々が暮らしていた地域へ移り住みました。12 月24日のことでした。自身も病を抱えていた若い神学生が、外から貧しい人々を助けるだけではなく、その生活のただ中に身を置き、そこから伝道と救済の働きを始めたのです。 賀川が移り住んだのは、当時「葺合ふきあい新川しんかわ」と呼ばれた地域でした。神学校で学んでいた彼は、 病気のため何度も療養を必要としていましたが、残された生涯を貧しい人々のために用いたいと考え、その場所で生活を始めました。食べ物や住まいを必要とする人を助け、病む人 に関わり、子どもたちのための働きにも取り組んでいきます。遠くから助けの手を差し伸べるだけではなく、同じ地域で暮らしながら人々に向き合おうとしたところに、その歩みの特 徴がありました。後に社会福祉や労働運動、協同組合運動などへ広がっていく働きも、その 出発点には、誰もが進んで選ぶような場所ではないところへ自分から入っていくという決 断がありました。 もちろん、賀川の歩みをイエスの十字架と同じものとして語ることはできません。私たち をあがなうために命を与えられた方はキリストだけです。しかし、キリストの後に従おうと する時、人の目から見て高い場所へ進むことだけが道ではないということを、賀川の選択は 具体的に思い起こさせます。イエスに従って歩み出すなら、その道が人々の苦しみのある場 所へ向かうことがあります。主が身を低くして仕えられたからです。信仰は、自分を立派に 見せる場所を得るためのものではなく、主が愛しておられる人のそばに立つことへと私たちを導きます。
 ヤコブとヨハネの願いを知ったほかの十人は、二人のことで憤慨しました。けれども、そ の怒りの中にも、同じように高い位置を意識する心があったのでしょう。そこでイエスは弟 子たちを呼び寄せ、異邦人の支配者たちは人々の上に権力をふるうが、「あなたがたの間で は、そうであってはならない」と教えられます。そして、偉くなりたい者は仕える人となり、 かしらになりたい者は僕となりなさいと言われました。神の国における大きさは、どれだけ 多くの人を自分の下に置いたかでは測られません。主から与えられたものを、どれほど人を 生かすために用いたかというところに表れます。
その教えの根拠として、イエスは御自身について、「人の子がきたのも、仕えられるため ではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」と語られます。ここに、主の王座の意味があります。イエスは、ただ謙遜な生き方のお手本を見せたのではありません。罪と死の力の中にある私たちを救うために、御自身の命を 差し出してくださいました。この王は、民から何かを取り上げることによって力を示すので はなく、民のために御自身を与えることによって王であることを示されます。その王と共に ある者もまた、受けた恵みを自分だけのものとせず、人に仕えるために用いる者へと変えられていきます。 そう考えるなら、ゼベダイの子たちの母の願いには、私たち自身の祈りに通じるものがあります。私たちも家族や大切な人について、幸せであってほしい、よい道が開かれてほしい、 豊かな人生を送ってほしいと願います。その祈りを主は聞いてくださいます。同時に主は、 私たちが考える「幸せ」や「よい場所」の意味を、御言葉によって深めてくださいます。 親が子どものために願う時にも、このことは大切です。できれば苦労をしないでほしい、よい人に出会ってほしい、能力を十分に発揮してほしいと祈ります。それらは決して悪い願い ではありません。けれども聖書は、その願いにもう一つの方向を与えます。その人がどれほど高いところへ行くかだけではなく、どのような場所に置かれても、キリストから受けた愛 をもって人に仕える者となるように願うことです。豊かさを手に入れるだけでなく、与えられたものを分かち合えるように、評価されるだけでなく、誰にも気づかれないところでも誠 実に歩めるようにと祈ることです。主の右と左を願った母の祈りも、イエスの言葉を通して そのような祈りへと深められていきます。
 「この二人をあなたの右と左に」と願った母は、息子たちをイエスの近くに置きたいと願い ました。その願いの最も深いところにあるものを、主は退けられなかったのではないでしょ うか。ただし、その「近く」がどこにあるのかを、十字架によって教えられました。主のそばとは、華やかな王座を取り囲む特等席ではなく、仕える主と共に歩むところです。私たち も、自分自身のために、また愛する人のために、主の近くを願いたいと思います。そしてそ の祈りが、地位や評価を求める願いから、仕える主に従い、人を愛する歩みを求める願いへ と整えられていくことを願います。十字架の王であるイエスのもとでこそ、私たちは本当の 意味で主と共に生きる者とされるのです

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