「もったいない!」ヨハネによる福音書12:1~19

深谷教会棕梠の主日礼拝ー受難節第6主日2026年3月29日
司会:落合正久兄
聖書:ヨハネによる福音書12章1~19節
説教:「もったいない!」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-307,304
奏楽:野田治三郎兄

    説教題:「もったいない!」 ヨハネによる福音書12:1-19  佐藤嘉哉牧師

 今日、私たちはヨハネによる福音書12章1節から19節を御言葉として開きます。ここは、イエス・キリストの受難週の幕開けを描く箇所です。過越の祭りが近づく中、イエスはベタニヤの村を訪れられます。そこは、死人の中からよみがえらせたラザロの家でした。ラザロの復活は多くの人々の心を動かし、イエスへの期待を高めていました。しかし、この出来事は単なる奇跡の続きではなく、イエスの十字架への道を静かに照らし出します。
 ベタニヤでの夕食の席で、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ取り、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。家全体が香油の豊かな香りで満たされました。この行為は、当時の習慣からすれば思い切ったものでした。香油の価値は300デナリ、つまり労働者の1年分の賃金に匹敵します。マリアはイエスの教えを深く心に留め、迫り来る死を予感して、この香油を惜しみなく捧げたのです。彼女の行動は、王に油を注ぐような礼拝のしるしでもありました。
 そこに、弟子の一人であるイスカリオテのユダが反応します。ユダは言いました。「なぜ、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。一見すると、ユダの言葉は正論のように聞こえます。貧しい人々を思いやる心があるかのようです。しかし、ヨハネはユダの本心をはっきりと記しています。彼は貧しい人々のことを本気で考えていたわけではなく、盗人であって、金入れを預かっていた立場を利用して、そこから金を盗んでいたのです。ユダの「もったいない」という思いは、表面的な正義に隠された自己中心的な計算でした。彼にとって、イエスに捧げられるものは無駄でしかなく、利益を生まないものに見えたのです。
 イエスはユダの言葉にこうお答えになりました。「この女をそのままにしておきなさい。彼女はわたしの葬りの日のために、それをたくわえておいたのである。貧しい人々は、いつもあなたがたのところにいるが、わたしはいつもいるわけではない」。イエスはマリアの献身をそのまま受け入れ、守られました。彼女の行為は、イエスの死と葬りを準備する愛の表現だったのです。貧しい人々への配慮は大切ですが、それ以上に、イエスご自身が十字架で命を差し出す時が迫っていることを、イエスは静かに示されました。ユダの人間的な尺度では「もったいない」と思える献げ物が、イエスにとっては神の計画に沿った、かけがえのない愛のしるしだったのです。
 この出来事の後、大勢のユダヤ人の群衆がベタニヤに集まってきました。イエスに会うためだけでなく、ラザロを見るためでもありました。ラザロの復活は強力な証しとなり、人々の信仰を呼び起こしました。しかし、祭司長たちはラザロまでも殺そうと相談します。イエスを排除しようとする陰謀が広がっていたからです。一方、翌日には群衆がなつめやしの枝を取り、エルサレムに入られるイエスを出迎えました。彼らは大声で叫びました。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」。イエスはろばの子に乗って進まれました。これは預言者ゼカリヤの言葉が成就した姿です。群衆は政治的な解放者を期待していましたが、イエスは馬ではなくろばを選び、平和の王として来られたのです。
 弟子たちは当時、この意味を十分に理解していませんでした。しかし、イエスが栄光を受けられた後、旧約聖書の成就として思い起こします。パリサイ人たちは群衆の熱狂を見て、互いに言いました。「見てみなさい。何ひとつうまくいっていない。見なさい、世はこぞってあの人の後について行ってしまった」。ラザロの奇跡が人々を引きつけ、イエスの人気は頂点に達していました。しかし、この歓迎はすぐに十字架の影へとつながっていきます。
 ここまでが、今日の御言葉の出来事です。ユダの「もったいない」という視点と、イエスの御心の違いが鮮やかに浮かび上がります。ユダは人間の常識で価値を測り、効率や利益を優先しました。しかし、イエスは神の愛の視点から、すべてを御自身の死へと向けられました。この対比は、私たちに問いかけます。主イエスに捧げるもの、主がなさろうとしていることを、私たちは往々にして人間の尺度で判断してしまいがちです。計算や損得で測れば、確かに「もったいない」と思えるかもしれません。しかし、神の御心はそこにありません。
 それでは、この御言葉が指し示す受難について、深く考えましょう。イエスの受難は、突然の事故や予期せぬ悲劇ではありません。神の永遠の計画の中で、起こるべくして起きた出来事です。ヨハネ福音書全体を通じて、イエスはご自身の死を予告し続けられます。12章のこの箇所は、まさにその序曲です。マリアの香油は葬りの準備であり、入城は王としての到来を告げながら、十字架への道を象徴します。群衆の「ホサナ」は喜びですが、イエスはそれがすぐに「十字架につけろ」という叫びに変わることを知っておられました。
 ここで、他の福音書との違いにも触れておきましょう。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、イエスの受難は人間的な苦しみや孤独、弟子たちの失敗、群衆の拒絶として生々しく描かれます。ゲッセマネでの深い苦悩や、十字架上での叫びが、イエスの痛みを強調します。しかし、ヨハネ福音書では、イエスはすべてを知り、自ら命を差し出す主権的な姿として描かれます。受難は敗北ではなく、むしろ「栄光の時」であり、神の愛が頂点に達する瞬間です。十字架はイエスを高く上げ、すべての人を引き寄せる勝利の場となります。この違いは、ヨハネがイエスを神の御子として強調する福音書の特徴を表しています。共観福音書が受難の人間的なドラマを語るのに対し、ヨハネはそこに神の永遠の御心と愛の深さを鮮明に照らし出します。
 今日、この箇所を棕梠の主日礼拝で読むことには、深い意味があります。この日は、受難週の始まりを告げる日です。群衆がなつめやしの枝を持ってイエスを迎えた出来事を記念し、私たちも主を心に迎える時となります。しかし、ヨハネの記す物語は、単なる喜びの入城ではなく、すぐに訪れる十字架への備えを促します。枝を振る熱狂が、短い間に拒絶へと変わる現実を思い起こさせ、私たちの信仰が表面的なものではなく、神の愛の計画に根ざしたものであることを教えてくれます。棕梠の主日は、歓迎の喜びと受難の影を同時に見つめ、主イエスが平和の王として歩まれた道を、私たちも共に歩むよう招く日なのです。
 神学的に言えば、受難は神の愛の最高の証しです。ヨハネ福音書三章十六節にあるように、神は独り子をお与えになるほどに世を愛されました。イエスは自ら命を捨てる羊飼いとして、罪の贖いのために十字架を選ばれました。ユダの人間的な「もったいない」という思いは、神の愛の深さを理解できない限界を示しています。神は私たちの尺度を超えた愛をもって、罪ある私たちを救うために、御子を犠牲にされたのです。この愛は、計算や効率では測れません。無償で、惜しみなく、すべてを注ぎ出されるものです。
 さらに、イエスの王権は世の王権とは異なります。群衆が期待した政治的な勝利ではなく、十字架を通じた平和の王国です。ろばの子に乗られた謙遜な姿は、征服ではなく、仕える王の到来を表します。受難は、神が人間の罪を負い、死に勝利する神の力の現れです。ラザロの復活が命のしるしであるように、イエスの死と復活は、新しい命をすべての人に開きます。私たちはここで、信仰の眼を養われます。表面的な熱狂や反対の声に惑わされず、神の御心に耳を傾けるのです。
 このように、12章1節から19節は、受難週の始まりとして、イエスが神の愛の計画に従って歩まれる姿を明らかにします。ユダの視点は私たちの中にも潜む人間的な思いを映し出しますが、イエスの視点は、神の愛がすべてを貫くことを教えます。受難は、神の御心の成就であり、私たちへの究極の招きです。
 最後に、讃美歌21の304番「いばらの冠を主にかぶせて」を思い浮かべましょう。この歌は、人々がイエスにあざけり、茨の冠をかぶせ、紫の服をはぎ、葦の棒で打った姿を歌います。しかし、歌詞は繰り返し「かれらはその時知らなかった」と語り、その傷が私たちを癒し、恥を覆い、永遠の御国を建てる神の愛の計画だったことを告白します。まさに今日の御言葉が示す通りです。ユダが「もったいない」と感じた献身も、群衆の歓迎も、受難のすべてが、神の愛の証しでした。私たちも、この愛に心を開き、主に従う者となりましょう。

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