深谷教会降誕前第7主日礼拝2026年11月1日
司会:野田治三郎兄
聖書:イザヤ書40章1~11節
説教:「慰めよ、慰めよ」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-393,525
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「慰めよ、慰めよ」佐藤嘉哉牧師
イザヤ書40章1~11節
「慰めよ、わが民を慰めよ」。イザヤ書40章は、この言葉から始まります。待降節を迎え ると、私たちはやがてベツレヘムに生まれる幼子イエスを思い起こします。しかし、主イエ スの降誕は、ある日突然始まった神の計画ではありません。神は⾧い歴史の中で、ご自分の 民に語り続け、救いの約束を与え、その約束を主イエスによって成し遂げられました。です から、クリスマスを本当に知るためには、飼葉おけの場面だけを見るのではなく、そのはる か前から響いていた神の言葉に耳を傾ける必要があります。その言葉を私たちに伝えているのが、旧約聖書の預言書です。預言書というと、未来に何が起こるかを言い当てる書物の ように思われるかもしれません。もちろん、そこにはこれから起こることを告げる言葉もあります。しかし、預言者の第一の務めは、神から託された言葉を、その時代を生きる人々に 語ることでした。神から離れて歩む民に立ち帰るよう求め、権力や富に頼る社会に神の正義 を告げ、苦しみの中で希望を失った人々には、神がなお見捨てておられないことを伝えます。 預言者が語るのは、人間の予想ではなく、歴史の中で働かれる神の御心です。そして、その 言葉は一つの時代だけで終わらず、やがて主イエスにおいて、その深い意味が明らかにされ ていきました。 イザヤ書の前半には、神に背き続ける民への厳しい言葉が数多く語られています。しかし 40 章に入ると、響きが大きく変わります。エルサレムは傷つき、多くの人々は故郷から遠 く離れたバビロンで生きることになりました。自分たちは神に見捨てられたのではないか、 もう故郷へ帰ることはできないのではないか、神との関係も終わってしまったのではない か。そのような思いに沈んでいた民に、神は「慰めよ、わが民を慰めよ」と語られます。し かも続いて、服役の時は終わり、そのとがはすでにゆるされたと告げられます。慰めとは、 つらい人に気休めの言葉をかけることではありません。神が罪をゆるし、失われた関係を回 復し、もう一度ご自分の民として歩ませてくださるという救いの宣言です。イスラエルの民 は、自分たちが神の民であるという事実を当然のもののように受け止め、神に従うよりも、 自分たちの国の力や周囲の大国との関係に頼ろうとしてきました。預言者は、その歩みの中 にある罪を厳しく指摘しました。そして実際に国は敗れ、エルサレムの都も神殿も失われます。彼らにとって、それは政治的な敗北だけではなく、神が共にいてくださるという確信まで揺さぶられる出来事でした。だからこそ、40 章の最初に置かれた「慰めよ」という言葉 には重みがあります。神は、彼らが何も間違えなかったかのように過去を消してしまわれる のではなく、罪を罪として扱いながら、それでも「わが民」と呼ばれます。裁きの後にも、 関係を断ち切らない神がおられる。その神の決意が、慰めの出発点です。
そこで3節から、荒野に主の道を備え、神のために大路をまっすぐにせよと、呼ばわる者 の声が聞こえます。谷は高くされ、山と丘は低くされ、険しい所は平らにされる。これは、 主が来られる道を備えよという呼びかけです。ここで注目したいのは、苦しんでいる民が自 分の力で荒野を越え、神のところまでたどり着くのではないということです。神ご自身が道 を通って民のもとへ来られます。救いの始まりは、私たちが神へ近づいたことではなく、神 が私たちへ近づいてくださったことにあります。そして新約聖書は、この言葉を洗礼者ヨハ ネの働きに重ねています。ヨハネは荒野に現れ、人々に悔い改めを求め、後から来られる方 のために道を整えました。ヨハネ自身が救い主なのではありません。彼は、来られる主のために道を整える声です。その声の後に、主イエスが来られました。ですから教会は、イザヤ 40 章を主の降誕と到来を告げる預言として読んできました。遠い昔、捕囚の民に向かって、 神が彼らのもとへ来られると語られた約束が、主イエスにおいて新しい仕方で実現したの です。 このことは、教会の歴史の中でも繰り返し受け止められてきました。ヘンデルの有名な 『メサイア』もその一つです。私たちは『メサイア』と聞くと「ハレルヤ・コーラス」を思い浮かべるかもしれません。しかし、序曲の後、救い主について最初に人の声で歌われるの は、イザヤ40章の「慰めよ、わが民を慰めよ」という言葉です。そして「荒野に主の道を 備えよ」「主の栄光があらわれる」と続いていきます。つまり、救い主が来られるという知 らせは、まず「慰めよ」という言葉から始まるのです。キリストが来られるとは、神の慰め が私たちのところへ来ることなのだと、教会はこの言葉を歌い継いできました。 洗礼者ヨハネが求めた悔い改めも、この福音を受け取るための道備えでした。悔い改めと は、自分を立派に作り替えてから神を迎えることではありません。自分の向きが神から離れていたことを認め、来られる方へ心を向け直すことです。谷を埋め、山を低くし、曲がった 道をまっすぐにするというイザヤの言葉は、私たちが救いを完成させるという意味ではなく、救い主を迎えるために、自分の誇りや思い込み、神なしで生きられるという考えを手放 していく姿を思わせます。道を整えた先に現れるのは、私たちが作り出した希望ではなく、 神が遣わされた主イエスです。待降節に預言書が読まれてきたのは、この神の約束の⾧さを 知るためでもあります。人間の側では何度も信仰が揺らぎ、歴史も大きく動きましたが、神 は救いの約束を捨てられませんでした。クリスマスは、⾧く語られてきた神の到来の約束に、 神ご自身が忠実であったことのしるしです。
それでは、なぜ主イエスはこの世に来られたのでしょうか。イザヤの言葉に従って答える なら、それは神の民を慰めるためです。ただし、その慰めは苦しみを一時忘れさせるもので はありません。人間を神から引き離している罪をゆるし、神との交わりを回復し、失われた 者をもう一度神のもとへ連れ帰るために、主は来られました。私たちは、自分の力で人生の すべてを整えることができません。正しく生きたいと思いながら過ちを犯し、大切にしたい 人を傷つけ、過ぎ去ったことを悔やみ、これから先を恐れます。健康も、仕事も、人との関 係も、いつまでも自分の思いどおりになるわけではありません。イザヤは、人は草のような ものだと語ります。草は枯れ、花はしぼみます。人間の強さも美しさも功績も、永遠に残る ものではありません。しかし、その直後には、神の言葉はとこしえに変わることがないと告げられます。私たちが揺らぐ時にも、神の約束は揺らぎません。私たちが神を見失う時にも、 神は私たちを見失われません。 クリスマスとは、この変わることのない神の約束が、言葉だけでなく一人の方となって私 たちの世界に来られた出来事です。主イエスは、人間の痛みから離れた安全な場所におられたのではなく、私たちと同じ世界に生まれ、悲しむ者と共に悲しみ、病む者に触れ、罪人と 呼ばれた人々と食卓を囲み、見失われた者を尋ね求められました。そして最後には、人間の 罪と死を背負って十字架へ進み、復活によって死の力を打ち破られました。そこまでして神 は、私たちを御自分のもとへ取り戻そうとされたのです。九節では、よきおとずれをシオン に伝える者へ向かって、「あなたがたの神を見よ」と告げられます。福音とは、まず何かを しなさいという命令ではなく、神がここにおられるという知らせです。神は来られ、民を忘 れず、罪のゆるしと帰る道を備えてくださる。この知らせこそ、クリスマスの喜びです。私 たちが神にふさわしい者になったから主が来られたのではありません。むしろ、神を必要と しながら自分では神のもとへ帰ることのできない私たちのために、主が来られたのです。 私たちは慰めを求める時、状況が変わることをまず願います。病が癒やされること、問題 が解決すること、失ったものが戻ること、人との関係が修復されることを願うでしょう。それらは切実な祈りです。しかし、聖書が告げる慰めは、それよりさらに深いところにありま す。状況がすぐには変わらない時にも、神との関係が回復され、神が共におられるなら、そ の人は見捨てられてはいません。主イエスが来られたのは、人生から苦しみをすべて取り除くためだけではなく、苦しみの中にある私たちを神から引き離すものが最後には何一つないようにするためです。十字架において罪が担われ、復活において死の支配が破られたから こそ、私たちはどのような時にも、神の愛の中に置かれていると信じることができます。 しかも、この方についてイザヤは二つの姿を続けて語ります。十節では、主なる神は大能 をもって来られ、その腕は世を治めると言われます。ところが十一節では、その同じ主が牧 者のように群れを養い、小羊をその腕に抱き、ふところに入れて携えてくださる姿が描かれ ます。力ある神が、小羊を胸に抱く牧者として来られるのです。ここに、主イエスの姿が重 なります。すべてを治める方が幼子となり、人の手に抱かれるほど小さくなられました。そ して成⾧された主は、疲れた者、重荷を負う者、罪に苦しむ者、居場所を失った者を御自分 のもとへ招かれました。神の力は、人を押さえつける力としてではなく、失われた者を抱き 上げ、最後まで手放さない愛として現されたのです。 「慰めよ、わが民を慰めよ」。この言葉は、遠い昔のイスラエルだけに向けられたもので はありません。私たちもまた、人生の中で荒野のような場所を通ります。祈っても答えが見 えず、自分だけが取り残されたように感じる時があります。過去の失敗を思い返し、神の前 に顔を上げられないと思うこともあります。そのような私たちに、神は遠くから「しっかり しなさい」とだけ言われるのではありません。主イエスを遣わし、私たちのところまで来て くださいました。そして、ご自分の民として呼び、牧者が小羊を抱くように、その命を御手 の中に受け止めてくださいます。待降節に私たちが待つのは、まだ来るかどうか分からない 救いではありません。すでにこの世に来られ、十字架と復活によって救いを成し遂げ、今も 共にいてくださる主を覚えながら、その主が再び来られることを待つのです。だからこそ、 荒野のただ中にも道があります。人は草のように過ぎ去っても、神の言葉は変わりません。 罪に捕らわれていた者にもゆるしがあり、神から遠く離れたと思う者にも帰る道がありま す。主イエスが来られたからです。 クリスマスが告げる慰めは、「何も心配しなくてよい」という軽い言葉ではありません。 神ご自身が私たちの苦しみの中へ入り、罪と死の現実を担い、それでもなお私たちを愛し抜 いてくださるという福音です。神はそのために御子をこの世へ遣わされました。ですから今、 どのような荒野を歩んでいるとしても、私たちはこの知らせを聞くことができます。「慰め よ、わが民を慰めよ」。主は来られました。そして今も、牧者として私たちを抱き、永遠命へと導いてくださいます。