「迷子の羊ー本当の平和ー」マタイによる福音書18:10~20

深谷教会聖霊降臨節第18主日礼拝2026年9月20日
司会:野田治三郎兄
聖書:マタイによる福音書18章10~20節
説教:「迷子の羊ー本当の平和ー」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-58,200
奏楽:野田周平兄

         説教題:「迷子の羊―本当の平和―」佐藤嘉哉牧師
              マタイ福音書18:10~20

 本日の聖書箇所は、マタイによる福音書18章10節から20節です。この箇所を読みます と、特に心に残るのが、迷い出た一匹の羊を探しに行く羊飼いの姿ではないでしょうか。「ある人が羊を百匹持っていて、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておい て、その迷い出た一匹を捜しに出かけないであろうか」。私たちは、この言葉を読むと、「一 匹の羊を探しに行くなんて、なんと慈悲深く優しい羊飼いだろう」と思います。一方で、少 し考えてみると、「それでは、残された九十九匹はどうなるのだろう」とも思います。羊飼いは一匹を探しに行ってしまった。九十九匹は山に残されている。もしかしたら羊飼いがい ない間に九十九匹を獣が襲うかもしれない。九十九匹の方もかわいそうではないか。そんな 疑問も出てくるかもしれません。過去、別の教会での聖書研究会でも、実際にそうおっしゃった方がいるほどです。しかし、この九十九匹について、もう一度よく考えてみたいと思い ます。羊飼いは、九十九匹を危険な場所に放り出して、一匹だけを大切にしたのでしょうか。 そうではありません。羊飼いは九十九匹を「山に残しておいて」、一匹を探しに出かけたの です。つまり、九十九匹は羊飼いのもとから失われたわけではありません。九十九匹は、そこにいるのです。羊飼いが一匹を探しに行っている間も、九十九匹は羊飼いの群れの中に置 かれています。 ここで、もう一つ注目したいのが、九十九匹が残された場所です。マタイでは「山に残し て」とあります。マタイ福音書において山は、イエスが教えを語り、神の御心が示される場 所として繰り返し登場します。山上の説教もそうですし、イエスの姿が変わった出来事も山 で起こり、復活されたイエスが弟子たちと出会うのも山です。ですから、この九十九匹が残 されている「山」という場所を、マタイ福音書全体の流れの中で読むなら、羊飼いから遠く 離れた場所に放置された姿ではなく、神の臨在を思わせる場所に、羊飼いの群れとして残されている姿を思い浮かべることができます。ルカによる福音書では「荒野に残して」と表現 されていますが、そこでも九十九匹は群れとして残されています。大切なのは、九十九匹が 捨てられているのではなく、羊飼いのもとに残されているということです。 そう考えると、この九十九匹について、少し見方が変わってきます。私たちはつい、「一 匹のために九十九匹が犠牲になっている」と考えてしまいがちです。しかし、そうではあり ません。九十九匹は、羊飼いのもとにいる。だから心配する必要がないのです。むしろ羊飼 いが心配しているのは、今そこにいない一匹です。迷い出てしまった一匹が、どこにいるの か。どこで傷ついているのか。どこで困っているのか。そのことを羊飼いは心配して、探し に行くのです。これは、私たちが人を見るときの視線とは、少し違うように思います。私たちは、百人いるなら百人全体を見ます。そして九十九人が大丈夫なら、「ほとんど大丈夫だ」 と考えます。一人がそこから離れていても、「仕方がない」と考えてしまうことがあります。 しかし羊飼いにとっては、一匹がいないことが問題なのです。「九十九匹いるのだから、一 匹くらいいなくてもいい」とは考えません。いない一匹を、そのままにしておくことができ ないのです。 10 節でイエスは、「これらの小さい者の一人をも、軽んじないように気をつけなさい」と 言われました。ここで言われている「小さい者」とは、社会の中で小さくされている人、信 仰において弱さを抱えている人、共同体の中で目立たない人などを含んでいると考えられ ます。そしてイエスは、そのような一人を軽んじてはならないと言われます。なぜなら、そ の人を神は軽んじておられないからです。人間の目には、「この人は大切だ」「この人はそれほど大切ではない」という違いが見えるかもしれません。全体を通して個を見るのが私たち であります。しかし、神の目には、一人ひとりが神に覚えられています。だから、一人が迷い出れば、羊飼いはその一人を探しに行くのです。 ここで私は、「九十九匹」という存在にも目を向けたいと思います。私たちは一匹の羊に 心を寄せるあまり、九十九匹のことを忘れてしまうことがあります。しかし、九十九匹もまた、羊飼いにとって大切な羊であることに違いはありません。ただ、今は迷い出ていない。 だから、羊飼いのもとに残されています。この九十九匹を、聖書の別の言葉で言えば「残り の者」と重ねて考えてみることもできるでしょう。聖書にはさまざまな時代に「残りの者」 という考え方が出てきます。多くの人が離れていく中で、神のもとに残される者たちです。 「残りの者」とは、特別に優れた人々という意味ではありません。神に守られて、そこに残 されている者たちです。九十九匹は、羊飼いから忘れられた者ではありません。羊飼いのもとに残されています。だから、羊飼いが一匹を探しに出かけたからといって、「私たちは置 いていかれた」と思わなくてよいのです。九十九匹は、その場に残され、羊飼いの守りの中 に置かれています。 そして羊飼いは一匹を見つけると喜びます。13節には、「もしそれを見つけたなら、よく 聞きなさい、迷わないでいる九十九匹以上に、その一匹のために喜ぶであろう」とあります。 これは、九十九匹より一匹の方が大切だと比較しているわけではありません。九十九匹を大 切にしないという意味でもありません。ただ、失われていた一匹が見つかった。そのことを、 羊飼いは心から喜ぶのです。
 私たちの人生にも、これとよく似たところがあるのではないで しょうか。私たちは、いつも同じ場所にいるわけではありません。信仰がしっかりしている ときもあれば、迷うときもあります。礼拝に喜んで来ることができる日もあれば、教会から 心が遠くなるような日もあります。神を近くに感じるときもあれば、神が遠く感じられると きもあります。私たちは、「私は信仰が弱いのではないか」「こんな自分ではだめなのではないか」と思うことがあります。このたとえを読むとき、迷い出た羊は、自分で羊飼いのところへ戻ってきてはいません。羊飼いが探しに行っているのです。ここに慰めがあります。私 たちが神を見失ったように感じるときにも、神が私たちを見失っておられるわけではあり ません。私たちが神を探せなくなったときにも、神が私たちを探すことを諦めることがない ということなのです。 そしてここで私たちは、自分自身を一匹の羊としてだけ考える必要はないのだと思いま す。私たちは、人生のある時には迷い出た一匹の羊です。しかし同時に、人生の別の時には 九十九匹の羊でもあります。教会に⾧く通ってきた人も、ある時には迷い出ることがありま す。反対に、今、教会から離れている人を心配し、祈り、待つ側に立つこともあります。誰 かが弱っているときには、その人を支える九十九匹の一人になることもあります。そして、 自分自身が弱ってしまったときには、探される一匹になるのです。ですから、「私は九十九 匹の側だ」と思っている人も、「私は迷い出た一匹の側だ」と思っている人も、どちらも神 の羊であるのです。これは、教会にいる人と教会にいない人を分ける話でもありません。信 仰の強い人と弱い人を分ける話でもありません。今日の自分が九十九匹であったとしても、 明日は一匹になるかもしれない。今は一匹であったとしても、いつか誰かを支える九十九匹 の一人になるかもしれない。そのように、私たちは人生の中で何度も、羊飼いに導かれながら歩んでいくのです。 だからこそ、私たちは誰かを見て、「あの人は迷い出ている」と簡単に決めつけることも できません。自分もまた、迷い出ることのある羊だからです。そして同時に、今ここに置かれている私たちは、羊飼いのもとに残されている九十九匹でもあります。九十九匹であると きには、心配しなくてよいのです。羊飼いが一匹を探しに行っているからといって、自分まで見捨てられたと思わなくてよい。羊飼いは九十九匹を山に残しておられる。神の守りを思 わせるその場所に、群れとして残しておられる。そして、一匹を探し終えたなら、その一匹 を連れて、また群れのところへ帰ってくるのです。私たちが追い求める平和も、誰一人として置き去りにされることなく、一人ひとりが神に覚えられ、互いに支え合うところにこそ、 本当の平和があるのではないでしょうか。 このことは、私たちの教会の姿にも重なります。教会には、今ここに集まっている人がいます。その中には、⾧く信仰生活を送ってきた人もいれば、まだ教会に来始めたばかりの人 もいます。元気な人もいれば、いろいろな心配を抱えている人もいます。今は礼拝を楽しみ にしている人もいれば、神を信じることが難しくなっている人もいるでしょう。教会は、いつも全員が同じ状態である場所ではないということです。一人が迷えば、その一人を心配す る。一人が弱れば、その一人を覚える。一人が戻ってくれば、一緒に喜ぶ。そしてそこに残 されている者たちは、「私たちは忘れられた」と思う必要がない。羊飼いが私たちを守って くださっているからです。 15 節からは、「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら」と、少し厳しい言葉が続きます。し かし、ここも一匹の羊の話とつながっています。罪を犯した人を切り捨てるためではなく、 その人をもう一度、兄弟として取り戻すために、「行って、彼とふたりだけの所で忠告しな さい」と言われるのです。そして最後にイエスは、「二人または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」と言われます。教会が誰か一人を 大切にしようとするとき、そこにキリストがおられる。一人を失ったままにせず、その人を 心にかけるとき、そこにキリストがおられる。私たちが互いに支え合うとき、そこにもキリ ストがおられるのです。 私たちは、いつも九十九匹でいられるわけではありません。また、いつも一匹でいるわけ でもありません。迷い出ることもあります。誰かを待つこともあります。誰かを探す側に立 つこともあります。しかし、そのどの場合にも私たちは羊飼いの視線の中にあります。 今日、もし自分を「迷い出た一匹」だと感じている方がいるなら、覚えていただきたいと思 います。あなたが羊飼いを探し出せなくても、羊飼いはあなたを探しておられます。あなた が自分の居場所を見失っていても、神はあなたを見失っておられません。そして、今ここに いて、「自分は九十九匹の一人だ」と思っている方にも、覚えていただきたいと思います。 羊飼いはあなたを置き去りにしたのではありません。あなたは羊飼いのもとに残されてい ます。だから心配しなくてよいのです。羊飼いは、一匹を探しに行くことができる。そして、 九十九匹を守りながら、一匹を探すことができるお方です。どちらであっても、私たちは羊 飼いの視線の中にあります。「そのように、これらの小さい者の一人が滅びることは、あな たがたの天の父のみこころではない」。この御言葉を心に留めたいと思います。私たちの天 の父は、一人を失ったままにされないお方です。迷った一匹を探し、見つけたなら喜び、そ してその一匹を再び群れの中へ連れ帰ってくださる。その羊飼いのもとに、私たちは今日も 置かれています。ですから、迷ったときには探されていることを思い、残されているときに は守られていることを思いながら、主の群れの中を歩んでいきたいと思います。

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