深谷教会元旦礼拝2023年1月1日
司会:斎藤綾子姉
聖書:マタイによる福音書2章1~12節
説教:「別の新しい道を通って」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-18、280
奏楽:杉田裕恵姉
説教題 「別の新しい道を通って」 マタイ2章1節~12節
「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(マタイ2:12)
「誓うより願うばかりの初詣」と言う読み人知らずの句がありますが、私たちは、決意を持って新年を迎えました。キリスト教徒である私たちは、クリスマスをもって新しい年を歩み出した所です。特に、クリスマスの究極のメッセージは、インマヌエル(神我らと共におられる)です。主イエスご自身が新しい年も私たちと共に歩んでくださるから感謝です。
神学者のワルター・リュティは次のように言っています。「私たちは降誕祭から歩み始めている。降誕祭は、今や過ぎ去ったのではない。降誕祭は今あり、この一年全体を貫いて存在している」と。
また、1月6日のエピファニー(公現日)をもって降誕祭クリスマスは終わるのではないのです。エピファニー(公現日)は、主が共にいてくださり日々降誕され私たちをあがない、清め、生まれ変わらせてくださることの宣言の日です。主は、共に歩んでくださるとともに私たちの祈りと業そして決意とを継続的にさせて神の子として成長させてくださるのです。
本日の御言葉は、東方の博士たちは「ひれ伏して幼子を拝み」とあり博士たちがイエスさまをひれ伏し拝んだことを伝えていますが、最初のクリスマスの礼拝者となった博士たちはヘロデ王にひれ伏し彼を拝んだとは記していないのです。従って本日の御言葉を通して示されている真理は、この世の力に追随することなく、まことの神さまを礼拝することで自分たちの生き方の姿勢を貫くことが私たちの決意でなければならいと言うことです。
つまり、ヘロデの生き方をしないことが、私たちの生き方、あり方、処し方となるのです。
では、ヘロデ王の生き方とはどういう生き方だったのでしょうか。それは、「奪う事、従わせること、無き者にすること」ということを当然とする生き方です。「ヘロデは、キツネのように王位につき、虎のように支配し、豚のように死んだ」と言われている人物です。しかし、奪う・従わせる・亡き者にすると言った悪しき権力志向は、誰もが持っているものであるように思います。神さまの御声を聞かず、人の意見も助言も聞かず、自分の思い考えを押し通し、自分の意見に反対する者をぶっ潰す生き方をしたヘロデの場合は、自分の脅威となる者は、重臣(じゅうしん)だけでなく妻や自分の子供までも抹殺しました。その延長線上にベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を殺せと言うキリスト抹殺命令を下したのです。
私たちは、ヘロデほどではありませんが小さなヘロデ性を持っているのではないでしょうか。そうした傾向を持っている私たちは、どのようにしたら変わることができるのでしょう。努力や根性と言ったものでは変えられるはずはありません。ある革命家が述懐(じゅっかい)しています。「社会変革を叫んだが、自己変革ができなかった」と。人や社会を変えることより自分を変えることはいかに難しい事か。人は、「自分にやさしい弁護士となり、敵には最も厳しい検事となる」実態を持っているのです。
では人は、どこで変えられるのでしょうか。まことの愛に出会った時、その時に変えられるのです。三人の博士たちは、人の救いのために来てくださった幼子の内に、人間が永遠の生命を得るために自らは死に、そのために誕生された愛の直観によって幼子をひれ伏して拝したのです。彼らの賢者としての才覚で変えられたのではなく、神の子キリストの内に内在する神の愛を見て幼子を救い主として拝み従う者と変えられたのです。その意味で、現在の私たちは礼拝をささげることによって変えられるのです。イデオロギーなどによってではなく、神が御臨在する、「二人または三人わが名によって集まる所に私もいる」(マタイ18:20)と言われた三位一体の神、主イエス・キリストの御言葉を覚えたいものです。
私たちは、この礼拝に与かることによって変えられ、即ち、神の愛の内に入れられ癒され、贖われ、慰めと力とを受けて新しい1週間を主と共に歩むことができるのです。
大分前のことですが海釣りに行かれた人が次のような体験を話してくださいました。「海釣りに夢中になっているうちに日がどっぷりと暮れ方角が分からなくなってしまった。懐中電灯やランプやあらゆる明かりをつけて方角を探したが全く分からなくなってしまった。その時、「明かりを消せ」との声がかかりすべての明かりを消すと。目が暗がりに慣れてきて夕闇のかなたに港の灯が見えて来ました。こうしてついに私たちは方向、方角を見出し、帰港することができました。」と。慣れ親しんだ生き方、考え方を捨てることは人間には、できないと言うことを暗示しているお話だと思います。
私たちはどうしても今まで慣れ親しんできた慣習や考えにとどまり、問題を解決しようとしてしまうのです。「小さな事柄に対する人間の感じやすさと、大きな事柄に対する人間の無感覚とは奇妙な転倒のしるしである」とパスカルが言っています。つまり、「どうでも良い事で夜も眠れず過ごす人が、間もなくあるいは、やがて死によって決定的に崩壊する有限性を担っていることに無関心でいる。これが人間の奇妙な転倒のしるしだ」とパスカルは言っているのです。この点を聖書の福音は突くのです。「ヘロデの所に帰るな」と夢でお告げを受けて別の道を通って自分たちの国へ帰って行った博士たちのように、キリストに出会い拝んだなら、それぞれの国即ち、それぞれの遣わされている場所で神の御声に従って歩みたいものです。礼拝と礼拝の間に私たちの人生は存在し、常に付きまとう偶像礼拝に陥る心に勝利しながら礼拝を大切にし、礼拝において変えられ、それぞれの遣わされている場所でインマヌエルの主と共に生き主の恵み深い事を証しし伝道する一年としていきたいものです。また、主の恵みをおおいに伝道していく教会としていきたいものです。このことを私たちの年頭の決意といたしましょう。