「永遠のいのちにいたる水」 ヨハネ4:1~15

☆ 「小羊の会」2022年11月10日
☆ 法亢聖親牧師からのメッセージ

「永遠のいのちにいたる水」-イエスさまとサマリアの女-    (ヨハネ4:1~15)

 イエスさまは「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」(3)のです。南の方をユダヤ地方と呼び、北側のガリラヤ湖の周辺をガリラヤ地方と呼びます。南ユダヤから北ガリラヤに向かいますと、その距離は150キロになります。イエスさまの時代は、この領域の間にサマリア(4)という地域がありました。現在は、ナブロスと呼ばれています。当時この地域をユダヤ人(イスラエル人)が通るには、かなりの困難があったようです。これには、大変深い歴史的な背景があります。
 紀元前720年にアッシリア軍がこの地に侵入し、男性を捕虜として連れて行きました。残された女性とアッシリアの兵隊との間に混血が起こりました。以来、純血を尊ぶユダヤ人は、サマリア地域の人は雑婚の民族であるとして交わりを絶ったのです。そればかりかこの両者の間では紛争が絶え間なく続き現在でも変わりません。(侵略をされやむなくそいうことになったのですし、もともと同じユダヤ民族であったのですから、もっと真摯に人道的に受け止めることもできたはずです)。しかし紀元前450年にバビロン捕囚から解放され、再びイスラエルの地に戻り、エルサレムに神殿を再建する時、サマリア人も手伝おうとしました。ところがユダヤ人は、その申し出を拒否してしまったのです。この時に完全に両者の関係は絶たれました。サマリアの人々は、エルサレム神殿に立ち入ることすら禁止されましたので、彼らはサマリア地方で一番高い山ゲリジム山の上に神殿を建て、そこを聖地としました。彼らの聖典は、トーラーと言われるモーセ五書だけです。2700年たった今でもユダヤ人との関係は変わっていません。
注 今では、サマリア人は、200人ほどになり小数民族としてアムネスティの保護を受けています。
 そのサマリア地方にあるヤコブの井戸が本日の聖書の箇所の舞台となっています。ヘルモン山の雪解け水がここにあふれ出てきているのでしょう。ヤコブの井戸、即ち水のある周辺に町ができていたのです。パレスティナ地方を旅行すると分かるのですが町のあるところには、必ず井戸か、そのほかの水源があるのです。(砂漠では、オアシスのあるところに町ができるわけです。)考えてみましたら都市でも上下水道が整ってはじめて発展していけるのです。一昔前までは、世の東西を問わず川の岸辺に町が作られ栄えていたのです。日本もしかりです。人間は、水がなければ生きて行くことのできない存在です。
 創世記33章によりますと、3代目族長のヤコブがこの地方に土地を買って、井戸を掘り当てたのです。エジプトの宰相となってエジプトを飢饉から救ったヨセフの遺体は、ヨセフの遺言通りこの地シカル(スカル)に埋められました。またこのヤコブの井戸は大変深い井戸(30メートル)でもありました。このような背景の中、本日の出来事が起こったのです。
「サマリアを通らねばならかった」
 ガリラヤからユダヤに行く道は、3本(3ルート)あります。一つは、ヨルダン川のふちを通る道です(海面下300メートルの所をヨルダン川は流れていますので大変蒸し暑いようです)。2つ目は、地中海寄りの所を通る道です。そして3つ目は今回イエスさまたち一行が通った山の中を抜ける道です(山といっても標高500メートルくらいの所を抜けて行く道です)。この道が一番景色も美しく気候も穏やかな道ですが、この道の真ん中にサマリアがあるのです。
 そこにイエスさまが登場します。ユダヤ人とサマリア人はすでに長い間犬猿の仲になっていました。イエスさまは旅に疲れて、ヤコブの井戸の側に座られたのです。そこにサマリアの女が水を汲みに来ました。イエスさまは何のためらいもなくその女に水を飲ませてくれるように頼んだのです(7)。サマリアの女は、驚いてユダヤ人のあなたがなぜサマリア人の私に声をかけるのですか、その上水を飲ませてほしいと頼むとはいったい何を考えているのですか(9)と返答しました。「イエスは、『水を飲ませてください』と言った人が誰であるか知っていたならば、あなたのほうからその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10)と言われました。
 この女性は、井戸が深いのにどのようにして水を汲み与えてくれるというのか、また、自分たちは2代目族長のヤコブが掘り当てたこの井戸によって生活が支えられ今日に至っている、この人はそのヤコブより偉大な方だと言うのか?などなどさまざまな疑問を持ちました(11、12)。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4:13)
 ヨハネはこの女性の疑問を解く鍵を13、14節に置いています。これまでの水の話との大転換(大きな展開)が起こっています。また渇いてしまう水とその人の中で泉となって永遠に湧き出る水との違いへと。ヨハネは水と洗礼を常にセットにして展開します。そして本日の聖書の箇所でもそれをしているのです。ですからここでは、洗礼の水を示しているのですが、もう一つ大事な点を見逃していけないと思います。
私たちの信仰の内には、「自分自身の中に永遠のいのちに至る水が湧き出る」という点です。つまり、私たちは喉が渇くと水を飲みます。その水は汗となったり体に吸収されてまた渇きます。しかし、自分の内に、永遠のいのちに至る水が湧き出る泉をもっているということになってきますと、考え方が変わってくるのではないでしょうか!
 私たちはヨハネが私たちに語っていることを、豊かに受け止めたいと思います。
このテーマは、ヨハネの黙示録にも深く関わっています。21章6節以降で新しい天と新しい地について述べているところです。「事は成就した。わたしはアルファーであり、オメガである。初めであり、終わりである」(6)これは永遠の神の言葉として述べられているところで、続いて「渇いている者には、いのちの水の泉から値なしに飲ませよう」(6)と記されています。このような信仰が、キリスト教の初期からしっかりとキリスト者の心の中に植えつけられていたことを知らされます。
 人の言葉、その時代の言葉は、有限ですぐに変わり、消えて行きます。しかし神の言葉は永遠です。表面的に動いて行く世界の中を生きて行くものでありますが、その中に渇いてしまうことのない永遠のいのちに至る泉、永遠のいのちに至る水が湧き出る泉を一人一人が持っているのだ、それは主を通して与えられているのだ、と言うのが本日の聖句の主張点です。

 「命の水」とは、「イエスさまの十字架の贖いの血と復活の体(霊の体)を象徴する聖餐のパンとぶどう酒」と「命のみ言葉」の事です。

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