「海の幽霊」マタイによる福音書14:22~36

深谷教会降誕節第10主日礼拝2025年3月2日
司会:佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-484
聖書:マタイによる福音書14章22~36節
説教:「海の幽霊」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-287
奏楽:杉田裕恵姉

  説教題:「海の幽霊」 マタイ福音書14:22~33   佐藤嘉哉牧師

 今日は海の上を歩くイエスとそれを恐れる弟子たちの話をしたいと思います。海の上、つまり水の上を歩くということは人間にはできることではありません。イエス・キリストが行った奇跡の内の一つであり、様々な絵画や映画で描かれています。アメリカ人小説家のダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』の最後の場面で、主人公と共に行動していた女性が水たまりにつま先をつけ、「水の上は歩けないけど、水をワインに変えることならできそう」と言います。聖書にはこうした印象深い場面、主イエスが行った奇跡が多く書かれています。それはどれも主イエスに焦点を当てています。しかしわたしが注目したいのは、海の上を歩く主を見た弟子たちが「幽霊だ」と言って恐れたことです。しばしば弟子たちは主をこういう形で恐れることがあるな…。幽霊だとか、庭師だとか、旅の者だとか…。わが師と仰ぐ主イエスをどうしてこう言ってしまうのか。それがどうしても解せないのです。
 本日の聖書箇所が書かれている14章は衝撃的な内容から始まります。イエスがいたイスラエルはヘロデが領主でした。このヘロデは主イエスが生まれた時に3歳以下の男児を殺せと命じたヘロデ王の息子です。このヘロデが洗礼者ヨハネを捕らえていました。自分が兄弟の妻をめとることをヨハネが批判していたからです。ヘロデはヨハネこそ預言者だと認めていた群衆の反乱を恐れ、ヨハネを殺す事が出来ませんでしたが、自分の誕生日にその兄弟の妻の娘「サロメ」が祝いの舞をし、その報酬に洗礼者ヨハネの首を要求されます。最初は困ったヘロデも自分の面子を守るため家来にヨハネの首を切らせ、盆にのせてサロメに渡しました。ヨハネの弟子たちはそのヨハネの死体を引き取って葬り、ヨハネが死んだことがイエスに知らされました。イエスはこのことを聞き、舟に乗って自分ひとりで寂しい所へ行かれました。親戚であり自分に洗礼を授けた、尊敬する洗礼者ヨハネが無残に殺されたことに悲しみ、一人その寂しい所へ行かれたのです。しかし群衆は主イエスの後を追ってきたとあります。主はその王税の群衆を見て憐れみ、そのうちの病人を癒されました。弟子たちは「もう遅い時間になったから皆を解散させましょう」と提案します。しかし主イエスは「彼らを帰らせるには及ばない。あなたたちの手で食物をやりなさい」といい、手元にある2匹の魚と5つのパンに祈りを捧げて配りました。するとそれを食べて約5000の人々が満腹しました。洗礼者ヨハネの死が5000人の給食のきっかけになっており、その5000人の群衆を解散させた後に「水の上を歩くイエス」のエピソードが描かれているのです。これはまさに洗礼者ヨハネの死の流れであります。この流れはマタイによる福音書だけでなくマルコ福音書にもあります。洗礼者ヨハネの死によって、時代が大きく変わったことを物語っています。
 それにしてもなぜイエスは弟子たちを強いて船に乗り込ませ、向こう岸へ先に行くよう命じたのでしょうか。恐らくですが、この洗礼者ヨハネの死を思い一人寂しい所へ行き、その死に祈りを捧げたかったのに、群衆がわらわらと集まり祈るどころの話ではなくなりました。だからこそ、群衆を解散させ、自分といつも一緒にいようとする弟子たちに強いて船に乗り込ませ、「向こう岸へ行け」というあいまいな指示をして、一人になろうとしました。マルコ福音書には、「しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった」とあります。マタイ福音書にはその向こう岸に何があるかは書いてありません。とにかく向こう岸へ行けと弟子たちへ命じたのです。それほどまでにヨハネの死が主イエスに大きな衝撃を与えたのでしょう。弟子たちと離れて6時間以上の時間、一人で主イエスは祈っていたことがわかります。
 その間に弟子たちはというと、対岸へ行けと命じられてただひたすら数キロも進んでいたのですが、逆風が吹いていたため思うように進むことができずにいました。弟子たちの多くは漁師でしたから、舟の扱いには慣れていたでしょう。シモン・ペテロとアンデレはまさにこのガリラヤ湖で漁師をしていたのですから、自分の庭のような場所でしょう。そのような場所で夜の航行、暴風の際には危険が伴うということはわかり切った事であったはずです。普通の漁師の判断であればその経験から暴風がくることくらい想定は出来たでしょう。しかしそうはならず、夜通し風にあおられ続けた弟子たちは取り乱していたのです。そこに突然人影が水の上を歩いて来るというのです。聖書において「幽霊」という言葉はこの場面にしか出てきません。陸から陸へ渡ろうとしている舟はいわば不安定であり、生と死のはざまにあることを現わしています。自分はもしかしたら死んでしまうかもしれない。そのような恐れを抱いていた時に人知を超えた者が近づいて来るならば、それはもう「死へといざなう海の幽霊である」と感じたのでしょう。まだ死にたくない。その悲痛な叫びをあげたのです。
 主イエスと弟子たちの間には距離という見えない壁があった事がわかります。親愛なる洗礼者ヨハネを喪い悲しみ、ただ一人になりたいと願った主イエス。目的もなく命じられるままに船に乗り込み、嵐に巻き込まれ命の危険を感じて主イエスを幽霊と思ってしまう弟子たち。この間に完全なる壁があるように思うのです。しかし主イエスはその弟子たちに「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と呼びかけます。自分が離れたことによって弟子たちが恐れおののき、取り乱す様を見た主イエスは、この者たちに自分という存在が必要であるということを自覚したのであり、海の幽霊だと勘違いした弟子たちを安心させるために「わたしだ。恐れるな」と呼びかけたのです。自ら彼らを追い払ったことを主は思いなおされたのではないかと思うのです。
わたしは先ほど、洗礼者ヨハネの死によって時代は大きく変わったと言いました。洗礼者ヨハネの死によって、大いなる力を持つ者は主イエスのみになった事。そのことは主イエスにとって大きな負担であったのではないかと思うのです。だから弟子たちを追い払うように船に乗せてまで、自分ひとりで祈る時間を欲したのではないでしょうか。しかしいざ弟子たちを見てみると、自分の存在がないため恐れ惑っているではないですか。主イエスはその姿を憐れに思い、自分で舟に乗って近づくのではなく、神の力によって水の上を歩いて近づいて行ったのです。
 ペテロが「あなたでしたか。ではわたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と願い出ます。ペテロは何とかして主イエスからの命令を受けて安心したかったのではないかと思うのです。無目的に対岸へ行けと言われたとき、ペテロはこれから嵐が来ることを知っており、風にあおられている間も主イエスから何も命令がなく不安に押しつぶされそうな状況であったからでしょう。主イエスは「おいでなさい」と言われ、舟から降りたペテロは水の上を歩いてイエスの所へ行きました。しかし風が強く吹いたことで恐れを抱き溺れかけ「主よ、お助け下さい」と言います。ペテロは今までに感じたことのない恐怖を覚えたのではないでしょうか。そのペテロを救い出した主イエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と問います。これはペテロの信仰を試す行為と捉えることができますが、わたしは親が子を慰める時にしばしば使う「馬鹿な子だね」という意味合いにも聞こえてきます。そして二人が船に乗り込むと風は止んだとあります。彼らの恐れと悩みの根源を断ち切ったのです。
 この出来事は全て水と船の上の出来事です。これはノアの箱舟を想起させます。神が人の罪を浄化するために洪水を起こした際、大波にさらされながらもノアの箱舟は海の上を漂い続け、新しい時代の始まりの象徴となりました。それと同じように、世がまさに主イエスの時代となったことを象徴している、新しい時代の始まりを伝えているのです。わたしたちは主イエスを知らない間、まさに風にあおられる舟の弟子たちと同じようでした。どうやって生きていけばよいのか分からず逃げ惑う。舟から降りても溺れて死んでしまうような絶望的な状況。先週も話しましたが、わたしが受けたいじめがまさにそうでした。そんな逃げ惑うわたしたちに主イエスは神の力を用いて近づいてきてくださいます。そしてみもとへと「来なさい」と招いてくださいます。その道が険しく恐れてしまっても、「主よ、お助け下さい」と祈るような状況にあっても、主イエスは深い慰めを持って私たちを救ってくださるのです。わたしたちはそうした主イエスの世に生きており、主イエスを信じることが許されていることに感謝したいと思います。そしていつも深い憐れみと慰めを受けていることを心に留めているならば、水の上のようなあやふやで不安定な状況であってもしっかりと立って歩んでいけるのです。

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