「むずかしいたとえ話」マタイによる福音書13:10~17

深谷教会降誕節第7主日礼拝2025年2月9日
司会:野田治三郎兄
聖書:マタイによる福音書13章10~17節
説教:「むずかしいたとえ話」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-58,57
奏楽:小野千恵子姉

  説教題:「むずかしいたとえ話」マタイによる福音書13章10~17節   佐藤嘉哉牧師

 今日の御言葉は、イエス・キリストが譬えを用いて教えられる理由について、深く学びたいと思います。弟子たちがイエスに近づいて「なぜ、たとえを用いてお話になるのか」と尋ねました。そもそもたとえ話とは、「ある事柄を理解できるようにするために、他の事柄に置き換えて説明するもの」だそうです。主イエスはこれまでも、そしてこれからも多くのたとえ話をします。それは神の国について、また神とご自身のことを証し、重要な真理を明らかにするために用いていました。主イエスが語ったたとえ話は、すべての福音書や書簡による記述によれば31個もあるそうです。有名なところで言えば「放蕩息子のたとえ」「善きサマリア人のたとえ」「ぶどう園の労働者のたとえ」「迷い出た羊のたとえ」などでしょう。たとえ話は主イエスがなさった事柄の中でも有名なのではないでしょうか。主イエスの時代は識字率がとても低く、また記録を紙などに書くことができなかったので、人々にとって身近な事柄に当てはめて、神と神の国・ご自身とはどんなものであるかを伝えようとされたのです。はて。たとえ話は「ある事柄を理解できるようにするために、他の事柄に置き換えて説明するもの」ですよね。「迷い出た羊のたとえ」はまぁわかりやすいと思うのですが、先ほど挙げたいくつかのたとえ話のほとんどを理解できているでしょうか。一回でスッと頭に入り、主イエスが何を言いたいのかが理解できているでしょうか。正直主イエスのたとえ話はとても難しくわかりづらいと率直に思います。放蕩息子のたとえ話やぶどう園の労働者のたとえなんて理不尽の極みだと思う状況が書かれていますよね。しばしばこのたとえ話について教会内外で尋ねられることがあります。もっとわかりやすい内容にしたら良いのに…と思うのですが、その難しくわかりづらいからこそ、神学や聖書学があり、毎週の説教があるわけです。もしすべての言葉がわかりやすい内容なら、それを読んで自分で理解することができるので、神学も聖書学も説教も聖書を学ぶ会も必要ありません。主が必要だと思うからこそ、このような学びがあるのです。
 11節には「あなたがたには天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。」とあります。この言葉は、私たちに重要な真理を伝えています。神の国の理解は、単なる知的な理解や学問的な知識ではありません。神からの贈り物、恵みだからです。時に私たちは神の国・天国はどこにあるのかを知りたくて宗教に興味を持つでしょう。神や神が支配される国なんて科学ではありえないと否定する人もいるでしょう。おそらく主イエスの「彼ら」はそうした主イエスと神の国を疑い信じない人のことを指していると思います。
 イエスは、イザヤ書の言葉を引用しながら当時の人々の霊的な状態について、厳しい警告を発します。「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。/見るには見るが、決して認めない。その民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためである。」主イエスがたとえを用いて話されていた場に、沢山の人がいたことは想像できます。そのひとりひとりは主がなさった奇跡と言葉に心を打たれて来ていたのでしょう。しかしその中には疑う人もいました。ファリサイ派や律法学者や祭司長たちがそうです。主イエスが人々の間で有名になればなるほど、そうした疑いの目も多く向けられるようになります。主イエスのことを信じるなと言う人も出てきます。単に知的な理解力の問題ではなく、何よりも彼ら主イエスに対峙する人々の心を主は言い、そうであってはならず主に立ち返るためにたとえを用いて語られたのです。主を信じる人はそのたとえを聞かなくても信じることができるからです。わたしたちも時として、自分の先入観や価値観・固定概念に囚われて、神の真理を受け入れることを拒んでしまうことがあります。しかしそうした弱い私たちにも神の恵みは与えられるのだということを伝えるために、主はたとえを用いて話されます。私たちの心を開くように呼びかけます。神の真理はそうした心に入ってきて、固い心を解き放してくださいます。
 しかし冒頭でも言いましたが、今でもわたしたちは主イエスの語ったたとえ話に頭を悩ませます。放蕩息子の話はその代表と言えるでしょう。理不尽だ。兄がかわいそうだ。そう思うのは当然のことです。道徳的な点では、兄への周囲の仕打ちはあまりにもひどいでしょう。しかし宗教は道徳ではありませんから、兄がかわいそうということにはなりません。自分がどれだけ妬ましく思う相手も主が愛された人であるのだから、自分が愛されたようにその相手も愛するべきであったのに、兄はそうせず不平を父に言います。これが兄の過ちでありました。またぶどう園の労働者のたとえも、最初から働いていた人がかわいそうだと思うでしょう。しかしこれも「神に救われ愛されたということは早い遅い関係がなく平等である」ということを伝えたいのでしょう。どちらも道徳的な観点からの理解と宗教的な観点からの理解で読み方捉え方が異なります。そのことで悩むことは当然のことです。しかし道徳と宗教を同じ目線で見るのではなく、このたとえ話が自分にどう関わって来るのか、主イエスは何をお語りになりたいのかと、目と耳と心で感じ取ることが何よりも大切だと思います。これ以上放蕩息子とぶどう園の労働者のたとえを話すと終わりが見えませんから、これくらいで終わりにしたいと思います。主イエスのたとえ話を聞く時、わたしたちの心がどこにあるのか。その心の場所によってそのたとえ話が分かりやすかったり難しく感じたりするのでしょう。躓く人だっているわけです。世の中には多くの誘惑にまみれています。その誘惑によって心乱され、神の言葉の真意を読み解くことに疲れを覚えることだってあります。しかしこの誘惑に支配された世界は、神の恵みに支配された世界には到底太刀打ちできません。圧倒的な力と栄光と祝福に満ちた御国を主は用意されており、神が私たちを招いてくださいます。これほどまでの喜びと幸せがあるでしょうか。わたしたちはこの喜びにこそ目を向けて歩んでいくべきだと思います。
 「しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。」と16節では、主を信じる人々を祝福します。私たちにとって大きな励ましになります。疑ったり、その言葉を読み取ろうと必死になったり、解説を求めたりという態度ではなく、何よりも主は「目で見て、耳で聞き信じる」ことを祝福します。多くの預言者や義人たちが、救い主の到来を待ち望みました。私たちは、イエス・キリストを通して示された神の救いの計画を知ることができる、恵まれた立場にいます。この祝福を心から感謝したいと思います。そして時に神の言葉と主のたとえ話の難しさに悩み躓くことがあっても、それを受け入れて神の国に与る喜びを感じていきましょう。

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