「東の国から」マタイによる福音書2:1~12

深谷教会降誕節第1主日礼拝2024年12月29日
司会:西岡義治兄
聖書:マタイによる福音書2章1~12節
説教:「東の国から」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-278
奏楽:落合真理子姉

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  説教題:「東の国から」 マタイによる福音書2章1~12節    佐藤嘉哉牧師

 「賢者の贈り物」という絵本を皆さんはご存じでしょうか。オー・ヘンリー作、リスベート・ツヴェルガー作画による児童向け絵本です。あるところに若い夫婦のジムとデラはクリスマスに互いへプレゼントを用意しようとします。しかし決して裕福ではない二人でしたので、ジムは懐中時計を、デラは自慢の長い髪を切って売ってしまいます。そして互いにプレゼントを渡したのですが、デラは懐中時計につけるプラチナの鎖、ジムはきれいな櫛でした。互いの為に用意したプレゼントは、互いの為に手放したものであったのでした。しかしそれは二人の絆を固く結ぶものであったという、とても心が温まる物語です。これがなぜ「賢者の贈り物」という題名なのか。それは東の国から来た占星術の学者たちが主イエスに黄金・乳香・没薬を献げたというクリスマスの出来事。この学者たちの主イエスキリストへの献身が、このジムとデラの、他人から見たら愚かだと思われるような姿に現れているというメッセージが題名に込められています。今朝はクリスマスの物語の中でも特に印象的な場面、占星術の学者たちの旅について考えてみたいと思います。
 イスラエルから東にあるペルシャは、イスラエルとは違う文化と宗教を持っており、両国間には大きな溝がありました。ペルシャは幾度もイスラエルと軍事的に衝突していましたから、イエスが生まれた時代でも仲は良くなかったでしょう。特にイスラエルは神の言葉によらず未来を予言する占星術を忌み嫌っていました。口語訳聖書では「博士」と言っていますが、「占星術の学者」であるとされています。占星術の学者たちは、星の導きを信じて遠い旅路に出ました。彼らは快適な生活を捨て、未知の地へと向かいました。しかも長年対立し、特に占星術を忌み嫌う人々が住むイスラエルへと向かったのはなぜでしょうか。それは、真理を探究する強い思いがあったからです。向かった先で「おい見ろよ、占星術の学者たちだ。罪深い奴らだ。」と口々に言われていても、全人類を救う神の子の誕生という真理を探究する強い思いがあったのです。わたしたちはどうでしょうか。安定や安全を求めるあまり、神が私たちに示される道を見失っていないかと思いめぐらせたいと思います。
 学者たちは、最初エルサレムの神殿を訪れました。真の王が生まれたとなれば、どこかの王宮に生まれるに違いないという一般的常識からの判断でしょう。ここからも主イエスの誕生が、一般的常識から外れた本当に意外で驚くべき事であったことがここで示されます。もしもイエス・キリストがこうした王宮で生まれたとしたら、どうなっていたでしょうか?神が人のもとに来られた、という福音はまずないでしょう。神が人のもとに来られたという神からの福音は、主イエスの馬小屋での誕生がなければ意味をなさないのです。神の大いなる計画を感じます。神は占星術の学者やわたしたちの想像や期待を超えた場所で働かれるということです。社会的地位や外見的な華やかさではなく、謙虚な心の飼い葉おけに宿られるのです。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました。」とヘロデ王のもとに訪れた学者たちが尋ねました。ヘロデ王にとって「ユダヤ人の王」が自分の他にいるのかと不安になり、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから。」と言います。ヘロデ王は占星術の学者を利用してイエスを探そうとします。このヘロデ王はやはり占星術の学者たちを見下していたから、このような態度を見せたのではないかと思います。そしてそのことは学者たちも感じ取っていたのではないかとも思います。後の話ですが、主イエスと出会った後に夢の中で「ヘロデのところには戻るな」というお告げを受けた時、そのお告げに従ったという記述があるからです。自分たちを見下す王に対しての思いがなければ、彼らはヤハウェとは違う神を信じていたわけですから、このお告げに従う必要も義理もないはずです。ですが彼らは夢でのお告げに従って、今まで来た道と異なる道を通って帰りました。これは単なる物理的な迂回路ではありません。主イエスとの出会いは、出会う人の人生の歩み方をまるっきり変えていく。旧い生き方や旧い考えに戻るのではなく、新しい生きる道を通らせてくださるのです。
 さて、話が前後しましたが、星の導きによって学者はイエスのいる場所へとたどり着きました。彼らは非常に喜びにあふれたと書いてあります。学者たちは「家に入った」と書いてある部分に注目したいと思います。「馬小屋」ではなく「家」にイエスはいたということです。ページェントでは幼子マリアとヨセフ、羊飼いと学者たちが馬小屋に集合している場面が最後にあるのが一般的なイメージです。しかし聖書には「馬小屋」ではなく「家」に学者たちはたどり着いたとあります。主イエスが生まれてからずっと馬小屋で過ごしていたとは当然考えられません。つまりイエスが生まれてから学者が訪れるまでに一定の空白期間があったということが考えられます。学者たちがどれほどの信念と確信を持って旅行してきたかがここで表現されている様に感じます。
 学者たちは東の国からはるばるやってきて、幼子イエスと出会いました。彼らは喜びに溢れましたが、目的を忘れることはありませんでした。彼らはイエスの前にひれ伏し、黄金・乳香・没薬を献げ礼拝しました。黄金は王を表し、乳香は神を表し、没薬は人としての苦しみを表しており、ただ人の宝を渡したのではなく「神の子であり救い主イエス・キリスト」の使命を表していたのです。ヤハウェとは違う神と違う神を信じ、違う文化を持った学者たちは、その違いを受け入れたうえでユダヤ人の王への献身を表したのです。黄金・乳香・没薬は彼らが思いもよらない形で用いられることとなります。それは主イエス・キリストがただ神の子としてあゆむだけでなく、人類の罪のすべてを担って十字架で亡くなられるという出来事によって用いられたのです。弟子たちとの宣教の歩みでは黄金を、十字架へと向かうまでの苦難の道で乳香を、そして十字架での死で没薬を。彼らが予言していたわけではありませんが、この一連の出来事は主イエスが生まれた時からすでに定められていたということになります。その主イエスへの献身のしるしとして学者たちは自分の務めを全うしたのです。
 占星術の学者たちは、東の国から来た異邦人でありながら、救い主を探し求め、見出し、礼拝しました。この出来事はわたしたちに与えられるということだけでなく、自らの献身の尊さを表し、また神の救いの計画が人類すべてにまで及んでいることを表しているのです。わたしたちはただ与えられるクリスマスを歩むのではなく、そのクリスマスを経て自らを献げる尊さをも知り、歩むことができるのです。2024年ももうすぐ終わります。これまでの歩みを振り返りつつ、2025年は自らを生きた贈り物として、神の御前に立てるよう歩んでいきたいと思います。

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