「ひとつの体」コリント人への第一の手紙12:3~13

深谷教会復活節第6主日礼拝2026年5月10日
司会:山口奈津江姉
聖書:コロサイ人への第一の手紙13章3~13節
説教:「ひとつの体」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-346,348
奏楽:野田治三郎兄

    説教題:「ひとつの体」 コリント人への第一の手紙 12:3~13   佐藤嘉哉牧師

 コリント人への第一の手紙12章3節から13節、そして14節以下にも心を向けながら、「ひとつの体」という題で御言葉に聞いていきます。
人は自分が必要とされていないと感じるとき、深く傷つきます。「あなたはいらない」「ここにいるべきではない」と言われることは、単なる意見の違いではありません。その人の存在そのものを否定する言葉です。マザーテレサは、「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と語りました。人は憎まれること以上に、顧みられないことによって痛みます。無関心とは、「あなたがいてもいなくても同じだ」という態度だからです。と、ここまでは2週間前の説教で語りました。今日はその先にある主の御言葉が中心です。ただその前にもう一度、コリント教会の状況をおさらいしましょう。パウロが向き合っていたコリントの教会にも、互いに存在を認め会えないという問題がありました。コリントは豊かな港町であり、多様な文化と価値観が入り混じる都市でした。そのため教会にも、富む者も貧しい者も、知識のある者もそうでない者もいました。しかしその違いは、豊かさではなく比較と分裂を生み出していました。特に霊的な賜物について、「どの賜物が優れているか」が問題になっていたのです。
 そのような中でパウロは、「賜物にはいろいろの種類があるが、御霊は同じである」と語ります。知恵、知識、奉仕、癒し、預言、さまざまな働きがあります。しかしそれらは、互いを競わせるためではなく「全体の益」のために与えられているのです。ところが人は、賜物を比較の道具に変えてしまいます。目立つ働きは尊ばれ、見えにくい奉仕は軽く扱われます。教会の中にも、「あの人は必要だが、この人はそうではない」という空気が入り込むことがあります。直接そう言わなくても、「そのやり方は違う」「もっとこうすべきだ」という批判の積み重ねによって、人は次第に「自分はここにいてはいけないのではないか」と感じ始めます。だからパウロは14節以下で、教会を「ひとつの体」にたとえるのです。「足が、自分は手ではないから体に属さないと言ったとしても、そうではない」と語り、さらに「目が手に向かって、お前はいらないとは言えない」と言います。ここでパウロが伝えようとしているのは、教会には不要な部分が一つもないということです。
 しかもパウロはさらに踏み込みます。「からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのだ」と語るのです。これは、当時の価値観からすれば驚くべき言葉でした。人は普通、強いもの、有能なもの、目立つものを重要だと考えます。しかし神は違います。神は、人が弱いと思う部分をも、かけがえのないものとして見ておられるのです。
 日本の教会もまた、この問題と無関係ではありません。人数が少ないからこそ、同じ人が多くの奉仕を担うことがあります。その中で、奉仕ができる人、発言力のある人、中心に立てる人ばかりが重んじられてしまう危険があります。そしていつの間にか、教会が「役に立つ人」を中心に回り始めてしまうのです。
しかし教会は、能力によって価値が決まる場所ではありません。静かに祈る人、体調を抱えながら礼拝に来る人、誰にも気づかれず掃除をしている人、不器用でも懸命に教会につながろうとしている人、その存在によって教会は支えられています。弱く見える部分が、かえって必要なのです。
ここで大切なのは、教会は単なる組織ではなく、魂が生かされる場所だということを意識することだと思います。教会は主の体であり命そのものである愛がなければいけません。だからパウロは続く13章で、「愛」について語ります。愛がなければ、どれほど立派な言葉も空しいと言います。愛は寛容であり、情け深く、高ぶらず、自分の利益を求めません。この愛は、人を裁いて切り捨てる力ではなく、人を生かす力です。わたしたちのこの教会はその「愛」によって立つべきです。そしてパウロが語る「ひとつの体」は、単なる理念や個人的な信仰ではありません。わたしたちは聖餐において、そのことを具体的に知らされます。同じパンを受け、同じ杯にあずかるとき、わたしたちは「キリストの体」に結ばれていることを示されるのです。
 コリントの教会は、実は聖餐においても問題を抱えていました。裕福な者は先に飲み食いし、貧しい者は取り残されていました。本来、主の食卓は、立場や違いを越えて共に生きる恵みのしるしであるにもかかわらず、そこにまで分裂が入り込んでいたのです。しかし聖餐とは、「誰が優れているか」を示す場所ではありません。キリストによって招かれ、生かされている者が、共に同じ恵みにあずかる場です。わたしたちは聖餐によって、「自分一人で信仰を持っているのではない」ということを知らされます。同じ主によって赦され、養われ、結ばれているのです。
 日本基督教団の聖餐式文の最後の祈りには、このような言葉があります。「今、聖霊の助けにより、感謝をもって、この体を生きた聖なる供え物として御前に献げます。わたしたち、主の体の肢であることをわきまえ、ますます励んで主に仕えることができますように。」とても大切な祈りです。わたしたちは聖餐を受けるとき、「主の体の肢」であることを確かめられるのです。教会に来ているから主の体なのではありません。能力があるからでもありません。主が招き、主が養い、主が結び合わせてくださるから、わたしたちはキリストの体なのです。だから聖餐の食卓には、「必要な人」と「必要でない人」という区別はありません。そこには、主によって招かれた者たちがいます。弱さを抱えた人もいます。疲れている人もいます。自信を失っている人もいます。しかし主は、その一人ひとりを、ご自身の体の肢として受け入れてくださるのです。
 パウロは、「からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのだ」と語りました。人はどうしても、目立つもの、力あるもの、成果を出すものを重んじます。しかし神は、人間とは逆のまなざしを持っておられます。
 ジャン・ヴァニエは、知的障がいを持つ人々と共に生きる「ラルシュ共同体」を築きました。彼は当初、障がいを持つ人を助けるつもりで共同体を始めました。しかし後に、「本当に助けられていたのは自分の方だった」と語っています。社会は、生産性や能力によって人を評価します。「役に立つかどうか」が人の価値のように扱われます。しかしヴァニエは、弱さを抱えた人々と共に暮らす中で、人間の価値は能力ではなく、存在そのものにあることを学ばされました。彼は、「弱い人がいるから共同体が人間らしくなる」とも語っています。
 これは、まさにパウロが語った「ひとつの体」の姿です。もし教会が、よく働ける人、話すのが上手な人、中心に立てる人ばかりを重んじるなら、それはキリストの体ではなく、能力による組織になってしまいます。しかし教会は、本来そういう場所ではありません。静かに祈る人、誰にも見えないところで奉仕する人、病を抱えながら礼拝に来る人、不器用でも懸命にここに居続ける人、そういう人々も含めてすべての人が、教会を教会としているのです。弱く見える部分が、かえって必要なのです。
 この深谷の地に生きた渋沢栄一もまた、人を単なる利益や効率だけで見てはならないと考えました。渋沢は実業家でしたが、「論語と算盤」を通して、利益だけを追い求める社会の危うさを語りました。人間には道徳と尊厳が必要であり、社会全体が共に生きることを大切にしなければならないと考えていたのです。もちろん渋沢はキリスト者ではありません。しかしこの深谷の地から、「人を利益だけで測ってはならない」という声が生まれたことには、大きな意味があるように思います。
 教会もまた、人を「役に立つか」で測る誘惑にさらされます。奉仕ができるか、中心になれるか、教会にどれだけ貢献しているか。そのような基準で人を見始めるとき、わたしたちは知らず知らずのうちに、「弱く見える部分」を切り離そうとしてしまいます。しかしパウロは主の愛をもって言います。「そうではない」と。むしろ、弱く見える部分こそ必要なのだと。
 わたしたちは、一つの御霊によって、一つの体へと招かれています。そこには上も下もありません。ただ、主によって養われ、結ばれている命があります。その恵みの中で、互いを大切にし、「あなたがいてよかった」と言い合える教会として歩んでいきたいと願います。

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