「キリストがすべて」コロサイ人への手紙3:1~17

深谷教会復活節第5主日礼拝2026年5月3日
聖書:コロサイ人への手紙3章1~17節
説教:「キリストがすべて」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-197,225
奏楽:杉田裕恵姉

    説教題:「キリストがすべて」コロサイ人への手紙3:1~17   佐藤嘉哉牧師

 本日の聖書箇所、コロサイ人への手紙3章1節から17節は、「キリストがすべてである」という信仰の中心を、具体的な生き方として示している箇所です。2週間前の説教では「古い姿を脱ぐ」というテーマでお話ししましたが、今日はその先にあるもの、すなわち「では何によって生きるのか」という点に目を向けたいと思います。パウロはまず、「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのであるから、上にあるものを求めなさい」と語ります。ここで示されているのは、信仰者の出発点です。私たちは努力して新しくなるのではなく、すでにキリストと共に新しい命に生かされている存在です。この事実に立つとき、人生の重心そのものが変えられていきます。地上の出来事に振り回されるのではなく、「上にあるもの」、すなわちキリストに心を向けて生きることが求められます。しかし、その新しい命に生きると言われても、私たちはすぐに古い生き方へと戻ってしまう弱さを持っています。2週間前にも話しましたが、人は慣れ親しんだ習慣や考え方に安心を覚え、それにしがみつこうとします。だからこそパウロは、「地の肢体を殺してしまいなさい」と語り、古い人を脱ぎ捨てるように強く促します。ここで語られているのは単なる行動の改善ではなく、生き方そのものの転換です。
 今日の箇所で特に注目したいのは、その先に語られている内容です。古いものを脱ぐだけでは終わりません。パウロは「新しい人を着たのである」と語り、その新しい人がどのような姿であるのかを、12節以下で具体的に示します。そこには、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容といった姿が挙げられています。そして互いに忍び合い、赦し合うことが求められています。ここにはキリストにある新しい命がどのように現れるのかが、はっきりと描かれています。
ここで少し、この徳目の言葉そのものに目を向けてみたいと思います。たとえば「あわれみの心(1)」と訳されている言葉は、もともと「内臓(スプランクナ)」という意味を持つ語が使われており、相手の苦しみを自分の内側で感じてしまうような、深い共感を表しています。また「寛容(5)」と訳されている言葉も、単に穏やかな性格というより、「長く怒らないこと」、関係の中で耐え続ける忍耐を意味しています。さらに「赦し合う(6)」という言葉は、「恵みとして与える」という意味を含んでおり、赦しが義務ではなく、神から受けた恵みが他者へと流れていく出来事であることを示しています。このように見ると、ここで語られている新しい人の姿は、表面的な態度ではなく、内側から変えられた命の現れであることが分かります。
 この12節から17節の部分は、パウロ神学の核心が非常に凝縮された箇所でもあります。まず注目すべきは、「神に選ばれ、聖なる者、愛されている者として」という言葉から始まっている点です。ここでもやはり順序が重要です。どのように生きるかという命令の前に、「あなたがたはすでに何者であるか」が語られています。パウロにとって倫理は常に、存在に根ざしています。人は神に選ばれ、愛されているがゆえに、そのように生きるのです。逆ではありません。この構造は、律法主義とは決定的に異なる福音の特徴です。ここで挙げられている徳目は、単なる理想ではなく、キリストご自身の姿を反映しています。あわれみ、柔和、寛容、赦し、そして愛(アガペー)。これらはすべて、主イエスが地上で示された生き方そのものです。したがって新しい人を着るとは、道徳的に優れた人間になることではなく、キリストの姿にあずかることだと言えます。10節で「造り主のかたちに従って新しくされる」と語られていたことが、ここで具体化されています。
 また、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」という言葉も重要です。ここで用いられている「支配する」という表現は、単なる感情ではなく、判断や方向を決定する基準としての平和を意味しています。つまりパウロは、共同体の中で何が正しいかを決める最終的な基準として、キリストの平和を据えているのです。これは対立や分裂が生じやすい人間関係の中で、極めて現実的な指針となります。さらに「キリストの言葉を豊かに宿らせなさい」と続くことで、内面的な基盤が示されます。御言葉が内に住むとき、賛美や感謝が自然にあふれ出てくるとパウロは語ります。ここには、外面的な行為と内面的な状態が分離されていないという理解があります。信仰は内側だけのものでも、外側だけのものでもなく、その両方が一つに結びついたものです。
17節の「すべて主イエスの名によって行いなさい」という言葉によって、この段落は締めくくられます。これは生活の一部分ではなく、すべての領域がキリストに属しているという宣言です。言葉も行いも、日常の些細なことも含めて、すべてが主に結びつけられていく。この全体性こそが、パウロの描く新しい人の姿です。
 ここでこの箇所全体に流れているパウロの神学的特徴に目を向けることができます。それは「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中で生きる信仰です。すでに私たちはキリストと共によみがえらされ、新しい人を着た存在とされています。しかし同時に、その新しさは完成された形で現れているわけではなく、「新しくされ続ける」と語られています。ここに、救いの現在性と継続性が結び合わされています。また、「上にあるものを求める」という姿勢は、単なる内面的志向ではなく、終わりの時に現れるキリストの栄光に向かって生きる終末論的な視点を含んでいます。つまりパウロにとって信仰とは、過去の出来事に支えられ、未来の完成に向かいながら、現在を生きるという三つの時間が交差する歩みです。この時間的広がりの中で、「キリストがすべてである」という宣言が、単なる教理ではなく、生き方全体を方向づける中心となっています。
 このように見ると、12節から17節は単なる勧めの集まりではなく、「キリストがすべてである」という真理が、どのように具体的な生活として現れるのかを示している箇所だと言えます。信仰は観念では終わらず、関係の中で形を取り、日々の行いの中に現れていきます。その中心にあるのがキリストご自身です。
ここで問われるのは、この「古い姿を脱ぎ、新しい人を着る」ということを、どのように日々の中で実践していくかという点です。これについては、2026年度の年間聖句でもあるエペソ人への手紙4章1~7節と17~24節の言葉が助けになります。「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」ことが語られ、その具体例として、偽りを捨てて真実を語ること、怒り続けるのではなく和解へと向かうこと、人を傷つける言葉ではなく益となる言葉を語ることが示されています。ここから分かるのは、新しい生き方とは特別な場面で発揮されるものではなく、日常の小さな選択の積み重ねであるということです。一つひとつの言葉、一つひとつの応答において、古い反応をそのまま繰り返すのではなく、キリストにあって与えられている新しいあり方を選び取っていく。その繰り返しの中で、少しずつ私たちの内側も外側も変えられていきます。大きな変化を求めるよりも、日々の具体的な場面において御言葉に従うことが、新しい人として生きる道となります。
 私たちにとって身近な一人の歩みを思い起こしたいと思います。同志社大学の前身となった同志社英学校を設立した新島襄の生涯です。新島は、武士の家に生まれ、当時の価値観の中で育てられました。しかし彼は、その枠組みの中にとどまるのではなく、命がけで海外へ渡り、キリスト教に出会います。その出会いは単なる知識の獲得ではなく、生き方そのものを変える出来事でした。身分や名誉に縛られる古い価値観から解き放たれ、「キリストにある新しい人」として生きることを選び取ったのです。新島の歩みの特徴は、その変化が個人の内面にとどまらなかったことです。彼は、自らが新しくされたという確信に立って、「新しい人を育てる」働きへと導かれていきました。それが同志社の設立です。その建学の精神として語られる「良心を手腕に運用する人物の養成」という言葉は、まさにコロサイ書の語る新しい人の姿と重なります。知識や能力だけではなく、内側に与えられたキリストのいのちに基づいて生きる人を育てる。それは、キリストがすべてであるという信仰に立つ教育でした。新島自身もまた、葛藤や困難の中で歩み続けた一人です。しかし彼は時代の価値観や周囲の評価に自分を委ねるのではなく、キリストに根ざした判断を選び取り続けました。その姿は、「古い人を脱ぎ、新しい人を着る」という御言葉が、現実の人生の中でどのように生きられるのかを具体的に示しています。そしてそれは特別な人だけの歩みではなく、今を生きる私たちにも開かれている道です。
 さて、11節に戻ると「キリストがすべてであり、すべての中におられる」と語られています。この言葉は単なる教理的な宣言ではありません。これまで語られてきたすべての内容を支える土台です。私たちの新しい命も、他者との関係も、日々の行いも、そのすべてがキリストによって成り立っているということです。私たちはしばしば、自分の力で何とかしようとします。より良くなろうと努力し、失敗すると落ち込みます。しかしこの御言葉は、出発点を別のところに置いています。「キリストがすべて」であるという事実に立つとき、私たちは自分中心の生き方から解放されていきます。自分の限界にとらわれるのではなく、キリストの恵みによって生かされているという現実に目を向けることができるようになります。ここにおいて、「古い姿を脱ぐ」というテーマも改めて理解されます。何かをただ単にやめることではなく、キリストにある新しい現実に生きるための転換です。古いものにしがみつくのではなく、キリストにすべてを委ねる。そのとき、私たちの生き方は少しずつ変えられていきます。日々の生活の中で、この御言葉をどのように受け取るかが問われています。すぐに大きく変わることはないかもしれません。今目の前にある問題・疑問・苦しみ・課題・悩みがすぐに解決されることもないかもしれません。しかしキリストの平和に心を委ね、御言葉に耳を傾け、隣人との関係の中で愛を選び取っていくとき、確かに新しい歩みが形づくられていきます。
 「キリストがすべてである」。この言葉を、自分の生活の現実の中で受け取りたいと思います。そこから、新しい生き方が始まっていきます。

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