「お前はいらないなんて言わないよ」コリント人への第一の手紙12:3~13

深谷教会復活節第4主日礼拝2026年4月26日
司会:落合正久兄
聖書:コリント人への第一の手紙12章3~13節
説教:「お前はいらないなんて言わないよ」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-89,417
奏楽:野田治三郎兄

   説教題:「お前はいらないなんて言わないよ」 コリント人への第一の手紙 12:3~13 佐藤嘉哉牧師

 人にとって最も深い痛みとは何でしょうか。それは単なる身体の苦しみではなく、自分の存在そのものが否定されることにあります。「あなたはいらない」と言われるとき、人は居場所を失い、自分の価値を見失ってしまいます。この言葉は、直接的であれ間接的であれ、人の心に深く突き刺さり、その人の尊厳を揺るがします。聖書においても、人が退けられ、顧みられないことの痛みは繰り返し語られています。人は関係の中で生きる存在であるがゆえに、「いらない」とされることは存在そのものを否定される経験なのです。マザーテレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と語りました。この言葉は、人の心の痛みの核心を突いています。人は憎まれること以上に、顧みられないこと、見向きもされないことによって深く傷つきます。そこには、「あなたはどうでもよい存在だ」という無言のメッセージが含まれているからです。
 わたしもかつて「お前はいらない」と言われたことがあります。中学生の時に受けたいじめから身を守るために入ったグループのリーダーから「お前いらない」と言われたとき、もうついに自分は生きていけない。もうだめだと、正直その時はこの後どうなってもいいやと思うほどの経験でした。
 コリントの教会は、そのような痛みを内側に抱えていました。当時のコリントは繁栄した都市であり、異なる文化や社会階層の人々が集まっていました。その教会にも、富む者もいれば貧しい者もおり、知識のある者もいればそうでない者もいました。本来であれば、その多様さは豊かさとなるはずでした。しかし現実には、違いが分裂を生み、互いを測り合う空気が広がっていました。特に霊的な賜物をめぐっては、あるものは優れているとされ、あるものは軽んじられる傾向がありました。その中で問題となっていたのは、単に自信を失うことではなく、互いに対して「お前はここにいるべきではない」と言い合うような関係が生まれていたことです。言葉に出さなくても、そのような評価やまなざしが共同体の中に広がっていたのです。そのような状況に対してパウロは語ります。「イエスは主である」と告白することは、聖霊によるのだと。この言葉は、すべての出発点を示しています。どれほど目立つ働きや特別な経験があったとしても、キリストを主とする信仰がなければ、それは土台を欠いてしまいます。逆に、この告白に立つとき、すべての者は同じ恵みのもとに置かれているのです。
続いてパウロは、賜物の多様さについて語ります。賜物にはさまざまな形がありますが、それらは同じ御霊から与えられています。そしてその目的は、「全体の益のため」とされています。賜物は自分の価値を示すためではなく、他者を生かすために与えられているのです。しかし人はしばしばこの視点を失い、違いを比較に変え、評価に変え、ついには排除へと向かってしまいます。そのとき教会の中に、「お前はいらない」「ここにいるべきではない」という言葉が、見えないかたちで入り込んでしまいます。
 日本の教会においても、この問題は現実のものです。人数が限られているがゆえに関係が固定しやすく、新しく来た人が入りにくい空気が生まれることがあります。また、特定の人に働きが集中し、他の人が関わる機会を持ちにくくなることもあります。対立を避ける文化の中で、本音が語られないまま、評価や不満だけが心の中に蓄積されることもあります。そして気づかないうちに、自分の考えや好みを基準にして、他者の働きを測り、批判する姿勢が生まれてしまいます。そのとき直接的な言葉でなくても、「そのやり方は違う」「それではだめだ」という評価が重なり、結果として「あなたはふさわしくない」というメッセージとして伝わってしまうことがあります。そのような空気は、人を黙らせ、関わる意欲を奪い、やがて交わりから遠ざけてしまいます。
 ここで大切になるのが、魂への配慮です。教会は単に集まりの場ではなく、一人ひとりの魂が神の前に生かされる場です。だからこそ、目に見える働きだけでなく、その背後にある心の状態に目を向ける必要があります。誰かの言葉や態度が、他者の魂を傷つけていないかを問い続ける姿勢が求められます。表面的には正しい意見であったとしても、それが相手を押しつぶし、沈黙させるものであれば、そこには愛が欠けています。魂の配慮とは、相手の弱さや不安に寄り添い、その人が神の前で生きることができるよう支えることです。
 パウロはその危険性を見据え、教会を「からだ」にたとえます。からだは一つでありながら、多くの部分から成り立っています。どの部分も欠かすことができず、互いに必要とし合っています。「自分はいらない」と言うことも、「あの人はいらない」と言うことも、このからだの理解とは相容れません。むしろ、どの部分もなければならない存在として置かれています。そこには上も下もなく、優劣もありません。ただ一つのからだとして結び合わされているのです。神はそれぞれを意図をもって置かれ、互いに支え合う関係を築かれました。
 さらにパウロは続く13章において、このすべてを支える根本として「愛」を語ります。ここで語られる愛は、感情としての好意ではなく、具体的な関わりの姿勢です。愛がなければ、どれほど雄弁に語っても、どれほど深い知識を持っていても、それは空しい響きに過ぎないとされます。また、自分の持っているものをすべて施し、命さえ差し出したとしても、愛がなければ何の益にもならないと語られています。それほどまでに、愛はすべての土台なのです。そしてその愛は、寛容であり、情け深く、ねたまず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不義を喜ばず、真理を喜びます。さらに、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えると記されています。この愛に照らされるとき、「お前はいらない」と切り捨てる態度が、いかに愛とかけ離れているかが明らかになります。
 この視点からイエスの十字架を見つめるとき、わたしたちはさらに深い意味に導かれます。イエスは本来、最も必要とされるべき方でした。しかし人々はそのイエスを拒み、「この人を除け」と叫びました。それはまさに、「お前はいらない」「ここにいるべきではない」という人間の姿の極みでした。十字架は肉体の苦しみだけでなく、完全な排除と尊厳の剥奪の場でもありました。しかし神は、その否定の中でイエスを復活させました。人が退けた命を、神は新しく立て上げられたのです。この出来事によって、わたしたちは新しく招かれています。神は決して「いらない」とは言わず、むしろ一人ひとりを必要な存在として呼び集めておられます。そして御霊によって一つのからだへと結び合わせてくださいます。だからこそ、教会の中で誰かに対して「ここにいるべきではない」というまなざしが向けられるとき、それは福音に反することになります。わたしたちはむしろ、「あなたはここにいてよい」という言葉をもって互いに向き合う者とされています。
「お前はいらないなんて言わないよ」という言葉は、単なる励ましではありません。それは福音そのものの響きを持っています。神がわたしたちに語っておられる言葉であり、わたしたちが互いに語るべき言葉です。
 マザーテレサはインドのカルカッタで「死を待つ人の家」を開き、道端に倒れている人々を一人ひとり抱き上げ、最後の時まで人としての尊厳をもって生きることができるよう支えました。あるとき彼女は、排水溝のそばに横たわり、誰からも顧みられずにいた人を見つけます。その人の体は衰弱し、傷には虫がわいていました。しかし彼女はその人を抱きかかえ、体を洗い、清潔な場所に寝かせました。その人は静かに「今まで私は動物のように扱われてきた。しかし今は天使のように扱われている」と語ったと伝えられています。マザーテレサは、ただ命を延ばすことではなく、「あなたは大切な存在である」ということを、その最期の瞬間まで伝えようとしました。また彼女は「わたしたちは大きなことはできません。ただ、小さなことを大きな愛をもって行うだけです」と語り、さらに「もし百人を助けられないなら、一人を助けなさい」と繰り返し語りました。その働きの中心には常に、「見捨てない」という姿勢がありました。無関心によって人が押しやられていく現実に対して、彼女は関わり続けることで応えたのです。
 わたしたちもまた、その愛に生かされています。神の愛に支えられ、互いを受け入れ、それぞれの賜物をもって仕え合う群れとして歩むことが求められています。その歩みの中で、「お前はいらない」という言葉ではなく、「あなたは必要な存在だ」という福音の言葉を、共に生きる中で表していきたいと願います。

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