「宝を天に」 マタイによる福音書6:19~21

深谷教会聖霊降臨節第16主日主日礼拝2023年9月10日
司会:悦見映兄
聖書:ルカによる福音書6章19~32節
説教:「宝を天に」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-453
奏楽:野田治三郎兄

 説教題 「宝を天に」   マタイ6章19~21節       

 「むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」(マタイ6:20)
 「宝」とは、「積み上げられたもの」という元々の意味があります。つまりお金に限定されたものではなく、もっと広い意味を持つ言葉です。その人の中に貯えられたもの、大事なもの、才能や健康、経験や人間関係(子宝、恩師、親友)など「宝」に対する心の問題が語られています。沖縄では、「命どぅ宝」すなわち命こそ宝として大事にされています。
 しかし本日の聖句では、金銭「財力」「富」と言ったものに焦点があるように思います。新共同訳聖書では、本日の聖句の「宝」をはっきり「富」と訳しています。主イエスは、金銭に代表される宝を「地上ではなく、天国に積むよう」に勧めておられます。「虫が食い、さびがつき、また、盗人が押し入って盗みだすような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わずさびもつかず、また盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくえなさい」と。
 ここまでだけの勧めでしたら、かつて日本の銀行が本日の聖句を用いてつくったキャッチコピーと同じになってしまいます。そのキャッチコピーとは次のようなものです。「聖書にこうあります。『虫が食い、さびがつき、また、盗人が押し入って盗みだすような地上に、宝をたくわえてはならない。』と、ですから貸金庫をご利用ください。安全に、確実にあなたの宝を当銀行がお守りします」。
 しかしイエスさまは、銀行にあずけよとか貸金庫を利用しなさいとおっしゃっているのではありません。もっと深いことをもっと深刻な問題性を含んだことに言及しておられるのです。「むしろ自分のため、虫も食わずさびもつかず、また盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」と本日の聖句の後半に力点を置いてお勧めをされているのです。
宝に対する心の持ちよう。心の持ち方の勧めをされたのです。つまり、宝即ち富をコントロールする心、振り回されない心を持つようにとの勧めです。「あなたの宝のある所には、心もあるからである」(6:21)と記されている通りです。
 お金・富をどのように守るかではなく、富をどのように用いるか心の問題を説いておられるのです。どのように生かし用いることが天に宝を積む生き方なのかをです。パウロは、その道の達人です。「わたしは貧に処する道を知っており、富みにおる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている」とピリピ4章12節で語っています。そうです、貧しい中でも、豊かな暮らしが約束されている中でも感謝と喜びとをもって生きる生き方の秘訣をパウロは、身に着けていたのです。天に宝を積む生き方です。
 聖書は富、財産・金銀を悪いものなどとは言ってはいません。かえってそれらは神さまの恵みで祝福のしるしとさえ言っています。
 無教会主義の創始者内村鑑三先生は、聖書集会に集まってきた会衆に向かって「みなさんは、儲けることを知っていますから。皆さん大いに儲け・稼いでください。私は使うことを知っていますから大いにささげてください。」と。つまり内村鑑三は、金は天下のまわり物ではなく、神さまからいただく恵みであって、その恵みの賜物を神さまと人のために役立てることを知っていると言っておられるのです。献金はそういう意味から、献身のしるしとして神さまにお捧するとともに、神さまからいただいたものの一部を感謝のしるしとしてお返しし神さまの御用のために用いていただくという意味があるのです。自分が儲けたお金を自分のためだけに使い、神さまや人に対して出し渋る者には、神さまも恵みを出し渋られることと思います。神さまと人とに対して心を閉  ざすのは、心の貧しさからくる貪欲(どんよく)がこれを妨げる時もあるのではないでしょうか。富それ自体が有害であるのではなく、富が貪欲と利己心を刺激するから有害なのです。キリスト教国の外資系の日本にある企業は、自分の会社や工場がある町や地域に感謝をすることを忘れません。その町に公園を造り町に寄贈したり、図書館を建て寄贈したりします。それは、神さまとその地域の人々への感謝のしるしだからです。献金もこれと同じで神さまへの感謝のしるしでもあるのです。
本日の聖句は、お金や富そして財産がどこから来たのか、またどのように用いればよいかが問われています。答は、神と人(もちろん自分や家族のために用いることは言うまでもありませんが)のために用いるということです。また感謝のしるしとして神さまにささげ、困っている人に無利子でお貸ししたり、災害などで被害を受けた地域や被災者そして被災した教会のために寄付したりすることも、みな天に宝を積むことになるのです。
 「信仰があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何一つ持たないでこの世に来た。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。・・・」(第1テモテ6:6~9)口語訳聖書のp331
 元来お金(富)は、オールマイティでないのに全能であるかのように錯覚させる力を持っています。聖書は、マモンと言っています。富は、元来神さまからさずかったものですから、そうしたものを拝んだり、そうしたものの奴隷となることに注意したいものです。
 富やお金の奴隷にならないためには、人間の尊厳を保ち、人間性を高めていただく必要があります。つまり信仰を高めていただきつつ、天に宝を積む生き方を喜びとする者に変えていただく必要があります。
 「この世で富んでいる者たちに命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろわたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませてくださる神に、望みをおくように、また、良い行いをし、良いわざに富、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちをえるために、未来に備えてよい土台を自分のために築きあげるように、命じなさい。」(第1テモテ6:17~19)
 

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