深谷教会聖霊降臨節第9主日礼拝2023年7月23日
司会:廣前成子姉
聖書:マタイによる福音書5章1~12節
説教:「柔和な者の幸い」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-280
奏楽:野田治三郎兄
説教題 「柔和な者の幸い」 マタイ5章1節~12節
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)
本日の聖句は、主イエスの山上の説教の9つのうちの一つですが、「心の貧しい人々は幸いである」の別の言い方です。音楽で言いますと変奏曲と言ったところでしょうか。
物事の意味を問う時、その反対語を上げてそこから考えてみると、その意味が浮き彫りにされることが良くあります。その方法を適応して「柔和」の意味を探ってみましょう。柔和の反対語は、「頑(かたく)な」だと思います。「頑な」には、頑固、いこじ、考えを変えない、人の話や助言を聞かないなどの意味があります。旧約聖書を読みますとあちらこちらに主の民イスラエルが頑で、即ち心を堅く閉ざして神さまのご命令に聞き従わなかったこが記されています。ですから「柔和な人たち」というのは、神さまの声に対して、柔軟にしかも喜んで神さまの御心を受け入れようとする人々のことであるということができます。しかし、軟弱なイエスマンと言うことでもないと思います。しっかりと神の言葉を聴き分けることのできる人です。神さまがおっしゃっていることはどういうことなのだろうかとその真意を追い求める人です。
「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:8)
神さまの御心にすべてをゆだね謙虚に従われる主イエスの姿がここに浮き彫りにされています。同時に、主イエスは十字架上で叫ばれました「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と。柔和な者とは、主イエスのように神さまの御言葉に自分の思いを捨ててへりくだった心を持って従う者のことです。その時は、神さまの真意がわからなくとも主イエスの十字架の先に復活の栄光の道が備えられていたように、神さまにすべてを委ねて生きる者こそ柔和なるものなのです。自分の負うべき十字架を捨てて逃げださない、神を信じ神に助けを求め、神にのみよりすがって生きる信仰者の姿がそこにあります。これが第1に「柔和な者は幸い」から学ぶことであるように思います。
マルティン・ルターは、エフェソ4:26の「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」というところをドイツ語に訳すときに「怒れ、されど罪を犯すな」と訳しました。怒るべき時に怒るということを本日の柔和と言う言葉から学ぶことができる2番目のことがらです。
主イエスご自身、十字架にかかる直前、祭司長、長老たちが訴えている間、一言もお答えになりませんでした。弁解することもなく、ずっと耐え忍んでおられた主イエスも宮清めの(エルサレム神殿を清める)際、烈火のごとく怒り「父の家、祈りの家を強盗の巣としてしまった」と言われ縄で鞭をつくり牛や羊をエルサレム神殿から追い出されました。
もう一つ柔和と言うことで思い出す人物はモーセです。「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(民数記12:3口語訳)。聖書は、モーセの生涯の要約をこのように記しています。口語訳では「柔和」、新共同訳では「謙遜」な人と訳しています。モーセは失敗したことも多くありましたが、聖書の評価は、柔和さにおいて随一で右に出るものがないと言っています。モーセは戦う時には、戦い抜き、服従する時には服従する人物であったのです。つまり「柔和」とは、単に優しく、穏やかな人と言うのではなく、「然りは然り、否は否」と言える強い信念に裏打ちされた人のことです。「柔和な人」と言うのは、単に謙遜でひかえめであるのではなく、言うべき時には言い、行うべき時には行い、決断すべき時には決断する、そして、怒る時には怒ると言った成熟した人間、自己抑制のできる人間のことです。そのようになるには、神さまに支配して戴かなくてはいけないということを思い知らされます。つまり、神さまのお力が全身全霊に満ち働くときそのような言動、行動をとることができるからです。ですから「柔和な人たちは、幸いである」ということは、自分を変えることを願い、つまり成熟させていただくことを願い、自分の弱さ欠点を知りながらも「神さま、どうかこの私をあなたが支配し造り変えてください」という祈りを祈りつつ歩む人は幸いであるということなのだと思います。
本日の聖句の後半に、「その人たちは地を受け継ぐ」(新共同)とあります。この地を受け継ぐとは、どういう意味が込められているのでしょうか。
「地を受け継ぐ」とは、詩編37編の9節~11節「悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄を楽しむことができる。」(口語訳)というこの御言葉を思い浮かべながら主イエスが語られたものと思われます。
「柔和な者は地を受け継ぐ」ということは、本当に地を自分のものとする。神さまが造られた地、この世を文字通り地に足をつけた歩みをして全うすることができるということです。この地・この世は、富と権力に恵まれた者が受け継ぎ、支配するように思われますが、そうではなく、そうした人々は自分たちの輝きを失うまいと戦々恐々として本当に地を受け継ぎ生きる喜びも平安も持てないでいることを詩編の詩人は告げています。
過去の偉大な指導者、支配者は去り、彼らの帝国は崩壊し消えてしまいましたが、ただ愛を基とした堅固に建設された主イエスの帝国は、今も脈々と世界に広がり続けています。 まことのナザレの主イエスは十字架につけられました。しかし、その十字架により勝利され、愛の基の上に堅固に土台を築き、柔和な者こそが、地を受け継ぐことを自ら示され、主イエスに従う者がそうであることを約束されました。
「イエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従って来なさい。』」(マタイ16:24)
地を受け継ぐとは、世を本当に自分のものとして活かしていくということにとどまらず、御国を継ぐ、つまり永遠の生命を得ることとして私たちに与えられるものであることを約束されたのです。この世にあっては共に住み、来るべき世にあっては永遠の生命を受け継ぐ者とされている。これが私たちに与えられる祝福であり、恩寵です。