「聖書の学びの会」2023年4月19日
★ 法亢聖親牧師からのメッセージ
箴言から学ぶ 箴言1章20~33節
皆さんは、「知恵」と聞いて、どのようなものを想い浮かべるでしょうか。辞書やインターネットで検索すると、「日常生活を改善したり、豊かにしたりするための知識や工夫」と言うようなことが出てきます。「まるまる、おばあちゃんの知恵袋」とか。
聖書の伝える知恵は、そういうことも含まれますが、工芸学(出エジプト31:6参照)や帝王学にまで及ぶ、もっと広い概念です。聖書学辞典には、「人生の正しい操縦法」であり、「共同体の中で人がどのように生きるかについて焦点を当て」るものと記されています。つまり、知恵とは個人的で一時的なものと言うよりも、それを得る者の生涯や生活空間に影響を与えるものなのです。
また、箴言では、知恵は主への畏れに基づくものである、と記されています(1:7)、9:10,15:33)。主への恐れ、つまり、主を信頼し、尊敬し、服従することが、知恵の歩みの出発点であり、目的地でもあるのです。
それでは、このような知恵は、何処で、どのようにして得ることができるのでしょうか。8節によると、それは家庭において両親から子へと伝達されるとあります。しかし、それだけではありません。本日の箴言の1章20節以降には、知恵が、大通り、広場、街角、門の入り口で、語りかけている様子が描かれています。つまり、知恵は家庭のような閉ざされた空間だけでなく、人々が行き交う社交の場でも得られるのです。しかも、知恵はささやくように、弱々しく諭すのではなく、喧騒の真っただ中で、声をあげて叫ぶのです。その迫力とことば遣い(づかい)は、まるで旧約の預言者たちのようです。
ただ、その知恵のことばに、誰もが耳を傾けるわけではありません。特に嘲(あざけ)る者や分別のない者は、知恵の呼びかけを拒みます。彼らは、忠告を聴き、叱責を受け入れることよりも、むしろ現状維持を願うのです(25、30節)。そのため、彼らは悲惨な結果を引き受けることになります。神さまの裁きをおもわされる「嵐」や「つむじ風」に襲われ(27節)、その時になって慌てて知恵を呼び求めても、応えてはもらえず(28節)むしろ、知恵から笑い返されてしまうのです(26節)。
みなさんは、この知恵の呼びかけを、どのように受け止められるでしょうか。今日の箇所には、騒がしい街角においても、知恵は語りかけていると記されていましたが、その声に日々耳を傾けておられるでしょうか。むしろ、一般社会を「世俗的な場所」と切り捨てて、そこから知恵を見出すことを怠っていないでしょうか。その在り方は「安全」に思えるかもしれませんが、主の与えてくださっている機会をみすみす逃していることになるのです。今の現場においてくださった主を畏れつつ、謙遜に学ぶ者でありたいものです。
祈り
天の父なる神さま いつも、主を畏れ、知恵の呼びかけに耳を傾け、聴き従う者にしてください。日々造り変えられ、誤っていたら方向転換することができる者としてください。
み子の御名によって祈ります。 アーメン