「思い出を超えて」ヨハネによる福音書20:11~18

深谷教会イースター礼拝2023年4月9日
司会:西岡義治兄
聖書:ヨハネによる福音書20章11~18節
奉唱:イースターの朝には
説教:「思い出を超えて」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-333
奏楽:小野千恵子姉

説教題 「思い出を超えて」    法亢聖親牧師(ヨハネ20章1節~18節)

 「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』と言う意味である。」(ヨハネ20:16)
 今年も皆様と共にイースターを祝えますことを感謝致します。復活の喜びをヨハネ福音書20章1節から18節を通して、ご一緒に味わいたいと思います。
 1節にマグダラのマリアが登場しています。マグダラのマリアは、七つの悪霊をイエスさまによって追い出していただいた女性です。彼女は週の初めの日、即ち、安息日の終わった一日目のまだ暗いうちにやって来て、イエスさまの納められていた墓の石が取り除けてあるのを目にします。そして、シモン・ペトロともう一人の主が愛した弟子のもとに走って告げます。「誰かが、イエスさまのご遺体を運び去りました」(2節)と。
ペトロともう一人の弟子は、墓へと出かけ、走りますが、イエスさまの愛された弟子のほうが早く走り、先に着きました。彼は、墓を覗きますが中には、入りませんでした。続いて到着したペトロは中に入り、イエスさまの着せられた亜麻布と、それとは別のところに置いてある顔覆いを目にします。そして、続いて中に入った別の弟子は、見て、信じたとありますが(8節)、9節には、「彼らは、主が復活することになっているという聖書をまだ知らなかったからである」と記されています。弟子たちは空の墓の壁にぶつかり、更に、復活の主が彼らに何度も姿を現されてから、初めて主の復活を信じるに至ったのです。
 さて、ペトロともう一人の弟子が家に帰って行ったあと(10節)、マグダラのマリアは、いつの間にか墓の前にひとりで立ち、イエスさまの死を悲しみ、泣いています。墓とは、地上の一切が無に帰してしまうところです。しかも彼女は他の弟子たち以上に、イエスさまを慕っていましたから、イエスさまの遺体も奪われ、虚脱感に包まれていました。つまり、彼女にとってイエスさまの遺体が安置してあった墓は、彼女がイエスさまとの思い出に浸る場所になるはずだったのです。
 その彼女が不意に墓を覗き込むと、二人の天使が、イエスさまの遺体が置かれてあった頭の部分と足の部分に座っているのが見えます。「天使の二人は、『なぜ、泣いているのか』と尋ねると、マリアは、『誰かがイエスさまの遺体を運び出しました。遺体をどこに置いたのか私には、分かりません』」(13節)と答えます。そして振り向くと、イエスさまが立っておられるのが見えましたが、彼女はイエスさまだとは分かりません。「イエスさまは、『なぜ泣いているのか、誰を捜しているのか』と尋ねますが、彼女は園(その)の園丁だと思って、『もしあなたが運び去ったのでしたら、何処に置いたのか教えてください、私が引き取ります』」(15節)と言いました。その時、「イエスさまは、『マリア』と呼びかけました。そして、マリアは振り向き『ラボニ(私の先生)』」(16節)と返事をしました。
 なぜ、マリアは、15節でイエスさまから声をかけられ振り向いたのにイエスさまだと分からなかったのでしょうか。
 その理由は、彼女は「思い出、つまり過去に捕らわれていた」のです。ですから15節の時は、振り向いたことは振り向いたのですが、声の主(ぬし)を見ようとはしなかったのです。しかし、16節では、「マリア」と名前を呼ばれたことによって、しっかりとイエスさまを見るために振り向いたのです。そうすることができたのは、イエスさまから名前を呼ばれ、その声の主はまぎれもないイエスさまだと分かったのです。名前には人格が備わっているのです。イエスさまの声がマリアの人格に響き、彼女を虜にしていた思い出を超えさせたのです。つまり、マリアは、復活の主から名前を呼ばれ、振り向いて復活されたイエスさまを見上げた時、彼女の心は喜びで満たされたのです。
 ところが、マリアが喜んでイエスさまに抱き着こうとすると、復活されたイエスさまは「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」と言われ、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなた方の父である方、また、わたしの神であり、あなた方の神である方のところへわたしは上る』と。」(17節)。
 福音書記者ヨハネにとって、イエスさまが十字架に上げられ、苦しみを受け、また、天に上げられることは、栄光の出来事なのです。上から来られた者意外に、上に上げられる者はいないのです。そして、その方以外に、私たちを天に上げられるお方はいないのです。
 若くして未亡人となったご夫人は、夫の葬儀が終わってから部屋に閉じこもりがちになりました。来る日も来る日もタンスの中のご主人の衣服を手に取り、アルバムを眺め、涙の日々を過ごしていました。そんなある日、子どもが教会学校から目を輝かせて帰って来ました。そして、母親がこもっている部屋に入り、言いました。「お母さん、教会の先生がお父さんは、タンスの中ではなく、天国でぼくたちが来るのを待っているんだって。イエスさまの言うことを聞いて歩んで行けば天国のお父さんに会えるんだって」と。
 この母親は、子どもを通して「イエスさまの声」を聴き、過去の思い出から、復活のイエスさまの方へ、つまり天国(未来)へと振り返り(向き)、御主人の待っている天国への道を歩まれるようになられたのです。イエスさまが、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われた道を。
 イエスさまから、直接語りかけられたマリアは、もはや以前のようなマリアではありませんでした。復活の主との新しい関係が始まり、マリアは、教会で最初のキリストの伝道者へと変えられたのです。そして、マリアからその知らせを聞いた弟子たちもまた、この後、幾度も復活の主イエスに出会うことを通して、復活の命、永遠の命を証しする者とされていったのです。
 

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