「すべてがいとおしい」 雅歌5:9~16

「聖書の学びの会」2023年3月22日

 法亢聖親牧師からのメッセージ(奨励題)

 奨励題 「すべてがいとおしい」   雅歌5章9節~16節   

 雅歌は、全体的な展開がつかみにくい書物です。紆余曲折を経ながら、二人の関係が深まっていくことはわかりますが、明確な筋書きがあるように思えません。ただ、流れがはっきり見て取れる部分もあります。その一つが、今日の箇所です。8節から6章3節までは「女の中で最も美しい人」と、彼女を見守る「エルサレムの娘たち」の対話になっています。9節では、娘たちが「愛に病んでいる」女性に、彼女がそこまで彼に入れ込む理由を尋ねています。そして、その質問に答えて、10~16節では「愛する方」が、どのような点で勝っているかを、女性は説明します。
まず、10節において、女性は彼のことを全体的にとらえて、彼の卓越性を語っています。続いて、11節以降では、頭から足の先まで彼の素晴らしい所を、具体的に紹介しています。その多くは、視覚に訴えるものですが、「香料」や「良い香り」「没薬の液(滴り)」など、臭覚、触覚で味わうものも取り上げられています。そして、15節後半でもう一度彼の全身をとらえた後、最も魅力的な口元に焦点を当てて、いとおしさを言い表しています。
 さて、このように外面的、身体的な麗しさを賞賛する箇所が、雅歌にはいくつかあります(4:1~7、7:2~10)。そのような箇所を読むときには、以下の三つの点を心に留めておく必要があります。
 一つ目は、必ずしも写実的な描写がされているわけではないということです。たとえば、10節には、愛する方が「白く輝き、かつ赤く」とありますが、これは顔が日に焼けているとか、脂ぎっていると言いたいわけではありません。むしろ、若いころのダビデのように(サムエル記上16:12、17:42参照)、健康的で、生命力にあふれている様子を描いているのです。ほかの箇所も同様にことばと形を短縮的に結び付けるのではなく、著者の意図を汲み取っていく必要があります。
 二つ目は、いわゆる「外見至上主義(ルッキズム)」を奨励しているわけではないということです。実際、読めばすぐに分かりますが、雅歌の男性と女性は、相手の容姿を、特定の価値観に当てはめて評価してはいません。むしろ、「あばたもえくぼ」ではありませんが、相手を思うあまり、全身に魅力を感じているのです。
 三つ目は、女性が決して受動的な存在ではないということです。男性が女性の見た目を褒める詩は、古代中近東の文書でも珍しくはありませんでした。しかし、今日の箇所のように、女性が男性の外見のことを語る詩は、ほとんど見当たりません。そういう意味では、雅歌は時流に逆らう対抗文化的なものなのです。
 ところで、もし皆さんの周りに、公の場で10~16節のようなことを語るクリスチャンがいたとしたら、どんなふうに感じるでしょうか。もしかしたら、「世的」「俗的」と思われるかもしれません。しかし、言うまでもないことですが、このことばもまぎれもなく聖書の一部です。まねする必要はなかったとしても、私たちの価値観や感覚を見つめなおす鏡となるはずです。立ち止まって考えてみると、少なくとも神さまは、私たちにこのようなことばをかけてくださるのではないでしょうか。

 祈りましょう。
 神さま 私たちのものの見方を正してください。あれかこれかと切り分けて、大切なものを見失しなわないようにしてください。あなたが見ておられるとおりに、人や自分を見ることができるようにしてください。 
             御子イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン

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