「新しくなりなさい」 ルカによる福音書5:27~39

深谷教会受難節(レント)第3主日礼拝2023年3月12日
司会:廣前成子姉
聖書:ルカによる福音書5章27~39節
説教:「新しくなりなさい」
   法亢聖親牧師
讃美歌:21-480、476
奏楽:小野千恵子姉

説教題 「新しくなりなさい」   (ルカ5章27節~39節)                            

 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」(ルカ5章38節)
 イエスさまは、中風の者を癒された後、レビと言う男を招かれました。彼は、徴税人でした。イスラエルを支配していたローマ帝国のために税金を集めていた人です。ですから、イスラエルの同胞から嫌われていた仕事をしていた人です。
 イエスさまは、徴税所に座っているレビを「見て」(セアオマイ)、「私に従いなさい」と言われ、彼を招かれました(5:27)。すると彼は、何もかも捨てて従いました(5:28)。
 イエスさまが、レビを「見られた」のです。どうしてでしょうか。レビは、富こそ人生を支えてくれると信じていたのか。富は人生を支えるものではないと気づき空しい思いにとらわれていたのか、それは誰にも分かりません。でもイエスさまが彼を見て招かれた時、彼は何もかも捨てて従いました。それだけではありません。彼は、イエスさまを自分の邸宅に招いて盛大な宴会を催したのです。
 ここに「立ち上がり」(アムステーミ)と言う言葉があります。イエスさまが「復活する」(24:7)時にも用いられた言葉です。レビは、イエスさまに「見ていただいた」時に、新しく生まれ変わったのだと思います。それは、彼が催した大宴会に見て取れます。
 ユダヤ人にとって食事は、祈りから始まる一種の宗教的な行事です。レビと一緒に食事をする人は、神さまではなく、富を人生の支えにしてきた人々だったことでしょう。そういう人々をイエスさまに合わせたい。そうすれば、彼らも新しい人間になれるかもしれない。レビは、そう考えたのではないでしょうか。彼自身もそうだったからです。
 レビが催した宴会を見て、「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて」(5:30)、イエスさまの弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪びとなどと一緒に飲んだり食べたりするのか」(5:30)と言いました。イエスさまが生み出した共同体は、マタイによる福音書が書かれた時、既に地上に誕生しおり、「教会」と呼ばれていました。 
 このマタイ福音書は、マタイ教団(教会)の聖典であったのです。その教会の様子は、ユダヤ教の会堂(シナゴク)とは全く違っていました。ユダヤ教のシナゴクは、健康な人、律法を守る人、つまり、正しい人が来ていました。神さまは、そういう人がお好きだと思われていたからです。しかし、神さまが必要とする人間は、神さまを必要とし、神さまと共に生きる人間、自分のために生きる人間ではなく、神さまのために生きたいと願う人間なのです。 
 イエスさまは「罪びとを招いて悔い改めさせる」(5:32)と言いました。悔い改めること、反省することは違います。「悔い改め」とは、方向転換のことです。自分のために生きていた人が、方向転換し、神さまのために生きることです。そのためには、神さまから見れば自分は一人の罪びとであることを認めることが前提です。イエスさまがその罪を赦してくださる。その信仰抜きに、人間の目に見える正しさなどにしがみついている限り、私たちは決して正しくはなれないのです。この世で何をしているかではなく、自分の罪を認め、悔い改めるか否かです。イエスさまは、ただそれだけを問われておられるのです。
 今がどういう時であるのか、そのことを見極めることは大事なことです。今は花婿であるイエスさまが一緒におられる時なのです。即ち、2000年前イエスさまは、十字架上で死なれ、三日目に復活され、40日後、天に昇り神の右の座に着かれ、即ち、天の父なる神さまのお力を表す聖霊となられました。そのイエスさまは、聖霊となられ今も永遠に生き働かれておられるのです。今は、その花婿である聖霊なるイエスさまがいつも一緒にいてくださることを証しする時です。つまり、今は、「イエスさまをキリストと信じ受け入れる者は、皆、救われる」新約の時代です。2000年は、長い年かもしれませんが、神さまから見て長いか短いかは別問題として、私たちは、世の終わりに神さまの国を完成させるために、イエスさまが来られる再臨の日を目指して生きているのです。イエスさまは、聖霊により教会を建て、私たちと共に生きてくださるお方です。そして、今も罪びとを悔い改めさせるために招いておられるのです。罪びとは、自分勝手に的外れに生きている人のことで、天の御国に向かって生きていない人の事です。そうした人々をイエスさまは、悔い改め、方向転換させるために招いておられるのです。しかし、今も聖霊によってイエスさまが生きておられることが私たちにはなかなか理解できないのが現状です。
 イエスさまが、当時のユダヤでは罪びととされていた人々を招かれたように、主の体なる教会は、あらゆる人を主にあって招き受け入れて行くように建てられているのですが、私たちは、無意識のうちに自分たちと似ている人や常識をわきまえている人、私たちと気の合う人だけを招いてしまう傾向があります。また、私たちも知らず知らずのうちに、この世と同じ原理に戻って生きてしまっていることがあるのです。つまり、新しく生まれ変わった前の、これまで使っていた革袋に。しかし、それでは新しいものにはなれず、いずれ朽ち果ててしまうことになるのです。
 「だれでも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れだし、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれでも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(5:37~39)。
 私たちは、知らず知らずの内にファリサイ派の人々や律法学者のように、教会の中に徴税人のような人が入って来ると顔をしかめる、あるいは困ったもんだと言う思いを持ってしまう傾向があります。
 多くの人が「自分にとって良い教会」をと願っていますが、「神さまにとって良い教会」を目指していきたく思います。
 イエスさまは、「日々新たに生まれ変わらなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5~7)と言われました。日々悔い改めて即ち、方向転換して神さまに立ち返り生きて行きたく思います。また、新しい革袋とされている私たち教会も、日々新しくされて行きたく思います。イエスさまは「新しくなりなさい」と今日も私たちを招いて下さっておられます。

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