深谷教会待降節第第2主日礼拝(アドベント)2022年12月4日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:ルカによる福音書1章1~25節
説教:「神の歴史が始まる」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-229、244
奏楽:杉田裕恵姉
説教題 「神の歴史が始まる」 ルカによる福音書1章1節~25節
「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」(ルカ1:13)
ルカ福音書は、イエスさまがお生まれになられた時代の描写から書きはじめられています。イエスさまがこの世に生まれたのは、ヘロデ大王がユダヤ地方の王であった時代で、ヘロデ大王の上には、ローマ帝国の皇帝アオグストゥスがいました。このようにイエスさまがお生まれになられた時代背景を史実に基づいてルカ福音書は記しています。
もう一つ興味深いことは、ルカ福音書はユダヤの都の中心にあるエルサレム神殿を舞台に始まり(ルカ1:5~25)、エルサレム神殿で終わります(ルカ24:52)。
本日の聖書の箇所には、イエスさまがお生まれになられる直前に一人の赤ん坊が生まれることが記されています。
エリサベトは「不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人ともすでに年をとって」(1:7)いました。エリサベトも続く話に登場する婚約中の年の若いマリアも生理学的には決して子供が生まれるはずのない人たちでした。しかし、ルカ福音書は、そういう人たちを通して、神さまが新しい歴史を始められると告げています。
「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻のエリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいる時から聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち返らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(1:13~17)
エリサベトはヨハネを産みます。後に「洗礼者ヨハネ」(バプテスマのヨハネ)と呼ばれます。そのヨハネは、「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」ために生まれるのです。「神である主」という表現には特別な意味が込められています。イエスさまがどのようなお方であるかを言い表している言葉です。イエスさまは神であり、人であり、イエスさまを通して、神さまはご自身を現される。イエスさまを知らなければ、私たちは神さまと出会うことはない。「神である主のもとに立ち帰らせる」とは、「イエスさまを通して神さまと出会う」と言うことであるということです。ヨハネは、そのことのために生まれました。
ザカリアは天使の言葉を受け入れることはできませんでした。それは仕方のないことです。「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人です。妻も年をとっています。」(1:18)と答えるしかなかったのです。
だが天使は、「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話かけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時がくれば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(1:19,20)と言いました。
「信じる」ということは、今まで通りの歩みのままではできません。特に、「時がくれば実現するわたし(神さま)のことば」を信じることは、それまでの自分が砕かれ、新しい自分、神さまにゆだねる自分が誕生しなければ信じることはできないのです。
このみ言葉で使われている「時」とは、ギリシア語の「カイロス」と言う言葉です。「実現する」とは、「時が満ちる」ということです。カイロスは時計で表すことができる「時間」ではありません。マルコ福音書で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と語られている「時」のことです。神さまの歴史は、この世の有限の時間の中で実現していきます。しかし時間の中にただ生きているだけでは、「時」は経験することはできないのです。
ルカ福音書で大切な言葉がもう一つあります。冠詞付きのロゴス(言葉)と言う言葉です。「最初から目撃してみ言葉のために働いた人々」(ルカ1:2)とある言葉です。この言葉は、「御言葉」とも訳される言葉です。神さまの言葉も時間の中で実現していきます。そうです、「時が満たされる」ことによって実現していく言葉です。
洗礼者ヨハネが誕生し、ヨハネが「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(ルカ3:3)ことによって、主イエスの道が整えられたことは、「神さまの歴史」です。
ヨハネの誕生は、罪にまみれ(自己中心に生き)、自分がどこにいるかもわからなくなった人間の罪を赦し、新しい人間に造り変える、神さまご自身に立ち帰らせる救いの歴史(救済史)の始まりなのです。
ザカリアには、しばらくの間分かりませんでした。それゆえに彼は口が利けなくなったのです。だが、そのおかげで神さまのなさる歴史(神さまの時、み言葉の実現)をじっと見ることができたのです。
エリサベトも妊娠がはっきりするまで身をひそめていました。そして、はっきりした時、「主は今こそ、私に目をとどめ、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(ルカ1:25)と言ったのです。
エリサベトがヨハネを身ごもったことは、のちにマリアが「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(ルカ1:49)と賛美したことに通じます。エリサベトは、自分の身に起こったことの中に神さまの言葉を見たのです。
イエスさまのペトロに言われた言葉が心に響きます。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、わかるようになる」(ヨハネ13:7)。
待降節(アドベント)のこの期間、悔い改め、主に立ち返り、クリスマスの主を心の王座にお迎えする心備えの時といたしましょう。