深谷教会聖霊降臨節第16主日礼拝2022年9月18日
司会:廣前成子姉
聖書:マタイによる福音書21章28~32節
説教:「考え直すこと」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-444、436
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「考え直すこと」 マタイによる福音書21章28節~32節 法亢聖親牧師
「ある人に息子が二人いたが。彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。」(マタイ21:28~30新共同訳)
イエスさまは、本日のたとえ話を祭司長や長老たちに向かってお語りになられました。「この二人のうちどちらが父親の望み通りにしたか」と問われました。彼らは兄の方ですと応えました。誰でも理解できる話です。口で「はい」と言っておきながら実行しない人間と、口では「いやです」と言っておきながらも、言われたことを実行する人間とどちらがよいでしょうかと問われれば、それは誰でも「実行する方だ」と答えるはずです。
私たちの父である神さまもご自身の言いつけを守り行う人をお喜びになられます。ところが本日の聖書には、2種類の聖書テキスト(原本)があると言われています。口語訳聖書では、弟が考え直すことによって「いやです」と答え、後で心を変えてぶどう園に行って働いたと記されています。そしてイエスさまはこのたとえに続いて、「祭司長や民の長老たち」と「徴税人や娼婦たち」を比較して後者の人たちの方が先に天国に入るだろうとまとめられました。
このことからみますと口語訳の従わなかったのが、兄即ち祭司長や長老たちより、従った弟即ち、徴税人や娼婦たちの方が先に天国に入るという方が整合性があり、分かりやすいたとえ話になるのではないでしょうか。ところが新共同訳聖書では、兄が考え直しぶどう園に行き働き、弟は「はい、行きます」と言いながらぶどう園に行って働かなかったと記しているのです。
実は、本日の聖書の箇所には、2つの異なるテキストがあるのです。そして2つのテキストがある場合、どちらが古いテキストを写本、つまり写したかと言いますと分かりづらい方のテキストが古いと聖書学的には考えられています。聖書学では、分かりづらいほど古い(オリジナルの写本に近い)と言う原則があります。分かりやすいものほど分かりやすくするために後の時代の誰かが書き変えた可能性があると考えられるからです。
初代教会の早い段階で口語訳聖書のような書き換えがなされたのには、深いわけがありました。それは、兄であるユダヤ教の人々は、せっかく神さまに選ばれながら、形式だけの信仰であり、それに対してクリスチャンは割礼などといった形式的なことなどはしていないが神さまを信じているという図式です。ですから後から救われた弟のクリスチャンが先に天国に入り、先に救われたユダヤ人は後になると言うわけです。
それではなぜ新共同訳聖書は、考え直したのは兄であるという分かりづらい方のテキストを写本として用いたのでしょうか。私はこの新共同訳のテキストでハッとさせられるところがあります。それは「後なる者が先になり、先なる者が後になる」とマタイ20:16と19:30に記されているように逆転が起こり得ると言うところと合わせて読んでみることによってです。最初に呼びかけられた兄は、「いやです」と答えましたが、あとで考え直して仕事に出かけました。これがユダヤ人だとしましょう。クリスチャンは、しばしばユダヤ人を「イエス・キリストを受け入れない、かたくなな人たち」とみなします。それはちょうど、「いやです」と言っているようなものかもしれません。でもイエスさまをメシアと受け入れていなくても神さまの御心に従って生きているユダヤ人は多くいるのです。
一方、弟は「承知しました」と言いながら、行きませんでした。こちらが洗礼を受けたクリスチャンとしましょう。つまりよい返事をしたのに、クリスチャンになったのに神さまの御心に従って生きているとは限りません。そのように理解すれば、この新共同訳のたとえ話は洗礼を受けたクリスチャンにこそ、悔い改めを迫っているたとえであると読むことができるのではないでしょうか。
洗礼式の時よく歌われる讃美歌に「主よ、終わりまで仕えまつらん」があります。この讃美歌のように「主に一度仕える決心をしたのですから、行(おこな)いの上でも御心を実行していきましょう」ということを本日のたとえでイエスさまは伝えようとされたのだと思います。
パウロは、ローマの信徒への手紙9章~11章にかけて次のようなことを記しています。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画を知ってもらいたい。即ち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救われるまでであり、こうして全イスラエルが救われると言うことです。」(ローマ11:25,26)と述べ、最後に「ああ、神の富みと知恵と知識のなんと深い事か。・・すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:33~36)と結んでいます。
ユダヤ人であるパウロや弟子たちが救われたようにまだイエスさまを救い主と信じていないユダヤ人たちも救われるのです。どうして神さまはユダヤ人の多くをかたくなにされているのか、それはすべての異邦人が救われるためにそうされているのです。神さまの遠大なご計画は人智では到底計り知ることはできませんが、パウロの言う事が事実だとすれば全人類が救われる希望がここにあります。
本日の結論ですが、兄と弟どちらがクリスチャンで、どちらがユダヤ人かという固定して読むことは、聖書の真理からそれてしまう危険性があると思います。むしろ「後の者が先になり、先の者が後になる」という入れ替わりがいつでも起こり得るとして読む態度が必要だと思います。日々新たに、「今日の自分は兄だろうか弟だろうか」と。なぜなら父なる神さまは聖書を通して、わたしたち一人一人に語りかけてくださっておられるのですから。29節と32節に2度にわたって「考え直す」という言葉が出てきます。私たちも自分を振り返り、いつも考え直して、主に従って生きて行きたいものです。