深谷教会聖霊降臨節第10主日礼拝2022年8月7日
司会:蜂巣恵子姉
聖書:マタイによる福音書18章1~5節
説教:「子供を模範として」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-509、579
奏楽:杉田裕恵姉
説教題 「子供を模範として」 マタイ18章1節~5節
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。」(マタイ:18:1)
私たちのこの世界では、何事も競争です。子供たちも学校で順位付けされ、その学校も偏差値で順位付けされています。早く正確に問題を解くというテクニックを磨く教育が、今では主流のようです。これでは、豊かな教育は望むことができません、知恵を学ぶというより勝つためのノウハウを学ぶようになってしまいます。
子供の世界に限らず、大人の世界でも同じです。会社でも、競争社会の中で生き残っていかなければなりません。しかし競争に明け暮れて、気がついたら死ぬ時を迎える時になっていたという人生はいかがなものでしょうか。
私たちは、どれだけ到達したかではなく、どちらを向いて生きるかによって私たちは生きる意味や喜びを見いだすのです。信仰をもって生きるとは、そうしたことを確認することだと思います。
ところがこうした競争という問題は、2000年前のイエスさまのお弟子さんたちの中にもあったのです。彼らは「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」とイエスさまに尋ねました。
この質問に対してイエスさまは、不思議な答え方をされました。
「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せて、言われました。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ』」(2~4節)。
これは単純な言葉のようですが、かなり難しい言葉です。「子供の心のように純真になりなさい」と言っているのでしょうか。
子供の心は、純真な側面もありますがそればかりでないように思います。子供の世界は子供の世界で残酷な一面があります。たとえば、新聞やTVニュースを騒がせている「いじめ」の問題です。子供のいじめの世界では、大人の世界以上に、遠慮や自制心が働かない分、陰湿になります。
そもそも「誰がいちばん偉いのか」という問い自体が、ある意味子供ぽっい質問であるように思います。ですからイエスさまは、あえて「子供を模範としなさい」とおっしゃったのではないでしょうか。
では、一体私たちは子供の何を学べばよいのでしょうか。
答えの一つとして、子供は自分一人で生きているのではないということを本能的に知っています。子供は、一人で遊んでいる時もいつも親を気にしています。それは親の目に守られていることを直感した時、自由でいることができる、それが子供だと思います。このことは、信仰と深い関係があります。自分を守ってくださるお方、自分をあるがままに受け止めて下さるお方がいらっしゃるということを、子供は大人が教える前からわきまえているのでしょうか。
また「自分を低くして子供のようになる」とは、どういうことでしょうか。
天国に入るための一つのテクニックなのでしょうか。私たち日本人は、実のところ「自分を低くする」のが得意です。見せかけの謙遜ということをマナーとして身に着けています。「謙譲の美徳」と言う出世のための処世術のひとつとして身につけているのです。イエスさまは、そのような出世のためのテクニックを勧めておられるのではありません。イエスさまは、ご自分の生き方から学ぶようにと勧めておられるのです。
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるためにこの世に来た」(マタイ20:28)
イエスさまは、「わたしが天の御国からこの世に来たように、あなた方も、私の生き方を通して、本当の謙遜を、また仕える生き方を学びなさい」とおっしゃっておられるのです。