「真のいこいと安らぎ」 マタイによる福音書11:25~30

深谷教会聖霊降臨節第7主日礼拝2022年7月17日
司会:斎藤綾子姉
聖書:マタイによる福音書11章25~30節
説教:「真のいこいと安らぎ」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21-532,533
奏楽:杉田裕恵姉

説教題 「真のいこいと安らぎ」            マタイ11章25節~30節     

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

 イエスさまにとって祈りは、願い事をすることではなく、父なる神さまとの交わりを確認する時でした。真の理解者のいないこの地上では(27節)、唯一の理解者と交わるいこいのひと時であったのだと思います。このことは、私たちにおいても、祈りの本質が何であるかを示されているように思います。「これらのこと」(25)とは、直前の言葉というよりは、上の聖句の神秘、あるいは救いの道ということではないでしょうか。それを理解するには、この世の知恵はあまり役に立たない。しかし、不思議なことに、私たちが幼子のようになって素直に聞く時、その知恵は向こうから私たちの手の届くところまで降りてきてくださるのです。
 使徒パウロが言っています。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者にするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それはだれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(Ⅰコリント1:27~29)。
 「父のほかに子を知る者はなく」(27)とあります。誰一人、弟子たちでさえもイエスさまのことを理解していませんでした。私たち一人ひとりが、キリストを十字架にかけていることを思い知らされます。しかしながら、これに続く言葉に驚かされます。「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(27)と続くのです。イエスさまが選び、招かれる者は、父なる神さまを知ることができる。イエスさまが知っておられるのと同じように、はっきりと父なる神さまの姿を知ることがゆるされているということです。ここに不思議な救いの道が示されています。
信仰とは、自分でもがきながら、神さまに到達すようなものではありません。イエスさまが私を選び、父なる神さまの御旨を私たちに開示して見せてくださっているのです。知恵を開示してくださるだけではなく、両手を広げ、体を開いて、十字架に今もおかかりになっておられるのです。「あなたのために十字架にかかっている私を見なさい」と呼びかけておられるのです。信仰とは、この声に素直に従って行くことなのです。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28)と、イエスさまは言われました。この重荷とは、「使命」です。神さまから委ねられたものです。イエスさまは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)と言われました。自分の十字架こそ、私たちが任されている重荷・使命です。それは家庭であり、仕事であり、学業などで、生きている限り途中で放り出すことはできないことです。たとえば、疲れたからと言って育児放棄、家族の介護放棄、職場放棄などはゆるされることではありません。イエスさまは「疲れた者」や「重荷を負う者」すべての人に語りかけておられるのです。
 「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」「わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(29)
 軛とは、二頭の家畜の首にかけ、畑を耕す作業をさせる時に用いられるものです。軛があれば、軛なしではできない力を出すことができます。ここで言う軛とは、イエスさまに従う道のことであり、天国に向かって歩む道をイエスさまが共に歩んでくださるということです。
 イエスさまに従う時、私たちは重荷を負うのをやめるのではなく、それをかついでいく勇気と大きな支えをいただくことができるのです。イエスさまは「わたしの軛を負って」と言われ、「わたしはあなたと軛を共にして、あなたと一緒に生きる」と語りかけておられるのです。
 イエスさまは、私たちの十字架という重荷を負われました。このお姿こそイエスさまの「柔和さと謙遜」(29)の極みです。また、イエスさまの存在そのものが、神さまの柔和さと謙遜のしるしです(フィリピ2;6~8)。このイエスさまとしっかりつながっているときこそ、真の安らぎがあるのです。

あしあと👣             マーガレット・F・パワーズ

ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、
わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」      

 

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