2021年11月21日降誕前第5主日礼拝
聖書:マルコによる福音書10章17~22節
説教題:「欠けたいる一つのもの」
法亢聖親牧師
(Youtube配信はありません)
「天国に入るには何をすればよいですか」との問いに対するイエスさまの答に失望した青年は、悲しみながら去っていったと3つの福音書は記しています。また、3つの福音書は、この人が沢山の財産を持っていたからであると締めくくっています。永遠の命を求めてイエスさまのところにやって来たこの真摯な求道者である青年がイエスさまのもとを去っていったと言うことの意味付けを各福音書はしているのだと思います。当時の教会も信仰と経済の問題は切り離せないものであったようです。使徒言行録4:34,35によると初代教会は、「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り。使徒たちの足元に置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配された」と記されています。当時の信徒は持ち物を共有し分かち合って教会生活をし、信仰を守り合っていたことを伝えています。しかし、このようなことは長くは続かなかったようです。自分の土地や家を売って献金する人も徐々に少なくなり、アナニアとサフィラのように献金をめぐって誤魔化しをする人も出てきたことも記されています(使徒言行録5章)。当然信仰と財産のことで悩み教会を去って行った人もいたことと思います。ですから、教会を去って行った人たちにかつて熱心だった人たちに対して彼らは「沢山の財産を持っていたからである」と本日の聖書の箇所に去って行った理由づけとして記されているのです。この締めくくりの「沢山の財産をもっていたからである。」(マルコ10:22)と言う言葉は、23節の「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか」という「信仰と財産」を巡る問題への橋渡しの役割を果たしていて後代の教会の加筆と言うことができます。
以上の理由でこの物語は、「その人はこの言葉に気を落し、悲しみながら立ち去った。」で終わっていたと考えられます。ここに記されている、「気を落とす」と言う言葉は、「ふさぎ込んで」と言う意味にも取れる言葉で、「悲しむ」は、「苦しむ」と訳せる言葉だからです。この男の人は、イエスさまの言葉に悩むことなく立ち去ったのではなく、“ふさぎ込み、苦しんで”いたのです。こうした真相を知った私たちは、「沢山の財産を持っていたからである」という意味付けより、説明より大切なことがあることに気づかされます。この男の人は、ふさぎ込み苦しんだ末、立ち去ったと言うことです。教会を去って行った人は、初代教会のみならず私たちの深谷教会にも多くいらっしゃいます。もちろん金銭的なこと、献金のことだけで去って行った人ばかりではありませんが、私たちはとかく教会から離れて行ったのはその方の責任だ、教会は悪くない、牧師のせいではないと自己弁護してしまいがちですが、本日の聖書から教会から立ち去って行った人々は、この富める青年のように苦しみながら教会を去って行ったことに心を向けたく思います。
「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」とマルコは書いていますが、どのような思いでマルコは、こう記したのでしょうか。立ち去って行くその人の背中に向かってイエスさまの愛のまなざしがあったことを記したかったのだと思います。イエスさまが「わたしから去って行くあなたの背中を見ながらあなたと同じように悲しみ苦しんでいるのだ」というイエスさまの御心を伝えたかったのだと思います。
さて、本日の聖書の最後の部分からイエスさまの御言葉に聴いてまいりましたが最初の部分を見てみましょう。この男の人は、イエスさまに対して「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と質問しました。その男の「善い」と言う表現に対してイエスさまは、父なる神さま以外に善いお方はいないと言われています。ここでいう善いとは、人間の善い行いや性質について用いられているのではなく、神さまに対して用いられている善いです。つまり、イエスさまに神さまの目的に叶っている姿をこの人は、見たと言うことでしょう。「永遠の命を受け継ぐには、どうすればよいのでしょうか」、彼の問いは、当時のユダヤ教の質問の典型です。それは「何をすればよいのか」という立て方です。律法に従って生きようとする彼らにとってすべては律法を守ることと結びついているのです。永遠の命を受け継ぐことも、律法を守り行うことによってもたらされるものと考えていたのです。この人は、その意味でイエスさまの「殺すな、姦淫をするな、盗むな、偽証をするな、奪い取るな、父と母とを敬え」との答を聞いて必要かつ十分な答えと思った事でしょう。「神さまと律法のために生きること」、これがイスラエルの一員として生きる唯一の道だと理解していたのです。善い先生と信じていたイエスさまからこの期待通りの答を聞いた時彼は満足したのだと思います。
しかし、「イエスは、彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる』」(10:21)。すべてを売り払い貧しい人々に施しなさいという言葉通りに行うことは大変難しことです。私たちも礼拝ごとに献金をお献げ致します。それは、神さまからいただいたものの一部です。精一杯献身のしるしと感謝のしるしとしてお献げしています。神さまが喜ばれるのは、献金の額ではなくその心です。この世の命・人生を終えて神さまのもとに帰る時一つだけ条件があるとしたらどれだけのことをしたかの量ではなく、どう生きたかの人生の質が問わるのだと思います。ここでのイエスさまのお勧めの真意は、この富める青年がこの世のものに固執し、自分の救いのためだけに律法を守り善行を積む生き方を方向転換させることにあったのだと思います。イエスさまは、神さまからいただいた命も、時間も、仕事も、財産もみな神さまのために、また、自分も含めた家族のためと隣人のために用いることを求めておられるのです。実はその生き方こそ天国に宝を積む、天国に入ることのできる道なのです。この青年の「欠けたもの一つ」だったのです。神さのためと隣人のために生きることがイエスさまの願い神さまの御心なのです。この青年は、神さまのために生きていましたが、それは自分が救われるためだけだったのです。イエスさまは、そこをするどく指摘されました。このようにこの世の財産や物は、天国に誰も持って行くことはできません。しかし、愛は、この世に残された者の心の中で永遠に生き続けます。この青年も自分の欠けに気づき振り返れば、彼を慈しんで見守って下さるイエスさまの恵みの中に立ち返り永遠の命の恵みの中を生きることができたのだと思います。