深谷教会受難節第1主日礼拝2026年2月22日
司会:西岡まち子姉
聖書:コリント人への第二の手紙12章1~10節
説教:「弱さって素敵だ」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-298,54年版533
奏楽:野田周平兄
説教題:「弱さって素敵だ」 コリント人への第二の手紙12:1~10 佐藤嘉哉牧師
今日は「弱さって素敵だ」という題でお話しします。この言葉を聞くと、少し意外に感じるかもしれませんね。私たちの日常では、弱さを人前に出すのは避けるべきことのように思われています。子どもの頃から、「強くなれ」とか「弱音を吐くな」と言い聞かされてきた人も少なくないでしょう。社会では、力強さや完璧さが評価され、弱みを隠すのが当たり前のような風潮があります。でも、聖書はそんな常識を優しく覆してくれます。コリント人への第二の手紙12章1節から10節で、パウロは自分の体験を通じて、弱さを誇ることの意味を語っているのです。ここでは、弱い状態こそが本当の強さにつながる、というメッセージが込められています。
私自身、この聖書の言葉に深く救われてきました。昔から、ある弱さを抱えていて、それがいつも心の負担になっていました。例えば、他人と比べて自分は劣っていると感じ、自信を失うことが多かったのです。普通なら、そんな部分を周囲に知られないよう振る舞うものですが、隠せば隠すほど内側で苦しみが募っていきました。仕事や人間関係でつまずくたび、「なぜ自分はこんなにダメなんだろう」と自問自答する日々でした。でも、ある時、この聖書の箇所に出会って、視点が変わったのです。弱さは神様から与えられた特別な贈り物で、それを認めるときにこそ、真の力が現れるのだと気づきました。今日は、そんな体験を交えながら、聖書の言葉に沿って、弱さの魅力をお伝えしたいと思います。
では、聖書のこの部分を振り返ってみましょう。パウロはここで、自分の見た幻や啓示について触れています。彼は14年前に、天に引き上げられるような不思議な体験をしたと言います。でも、それを詳しく語る代わりに、自分の弱さを強調するのです。5節では、「わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい」と述べています。これは、ただの謙遜ではなく、深い信仰の表れです。パウロのような人物が、なぜ弱さを前面に出すのか。それは、彼が経験した「肉体のとげ」に関係しています。7節で、彼はこのとげを「高慢にならないように、わたしを打つサタンの使い」と表現します。具体的にどんなものだったかは明かされていませんが、痛みや苦しみを伴うものだったようです。このとげに悩まされ、パウロは主に祈りを捧げます。三度も「これを離れ去らせてください」と願ったのです。
そんな祈りに対する主の答えが、9節にあります。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。この言葉は、パウロの人生を変えました。彼は、それ以降、自分の弱さを喜んで受け入れるようになったのです。10節で、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」と結論づけています。ここで大事なのは、弱さがそのまま強さに変わるわけではないということ。むしろ、弱さを認めることで、神の恵みが満ち、神の力が働くと信じることです。パウロは、使徒として多くの伝道を成し遂げましたが、それは自分の力ではなく、神の支えによるものだったと悟ったのです。このメッセージは、私たちにも当てはまります。弱さを恥じず、神に委ねることで、新しい道が開かれるのです。
考えてみてください。私たちの生活の中で、弱さはさまざまな形で現れます。体調の悪さ、精神的な不安、失敗の記憶など。それらを隠そうとすると、かえって孤立しやすくなります。でも、聖書のように弱さを誇る姿勢を取ると、周囲とのつながりが深まることもあります。私が経験したように、弱さを打ち明けたとき、意外と共感してくれる人がいて、心が軽くなったことがありました。それは、神の恵みが働いている証拠です。パウロの時代、コリントの教会では、力強い体験や奇跡を競うような雰囲気があったようです。そんな中で、パウロはあえて弱さを語ることで、真の信仰を示したのです。私たちも、完璧を装うより、ありのままの自分を神に差し出すことが大切です。
さらに、この箇所から学べるのは、弱さが神の計画の一部だということです。パウロのとげは、高慢を防ぐためのものでした。もし彼が完璧な体調でいたら、傲慢になって神から離れていたかもしれません。弱さは、私たちを謙虚に保ち、神に頼る心を養います。9節の「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という言葉は、弱い部分こそ、神の力が輝く場所だと言っています。これは、逆説的な真理です。人間の目には弱く見えても、神の目にはそれが強さの源になるのです。私自身、弱さを抱えながらも、神の助けで乗り越えてきた出来事がいくつかあります。例えば、大きな挑戦に直面した時、最初は絶望しましたが、祈る中で力を与えられ、予想外の解決を見ました。そんな時、弱さが素敵なものだと実感します。
この聖書の教えは、単なる慰め以上のものです。弱さを活かす生き方を提案しています。パウロは、弱さ、侮辱、危機、迫害、行き詰まりに甘んじると言いますが、それは諦めではなく、キリストのためなら喜んで受け入れるという積極的な態度です。私たちも、日常の小さな弱さを、そんな視点で捉え直せば、心が自由になります。たとえば、健康に不安がある人は、それをきっかけに他者の痛みに敏感になり、支え合う関係を築けるかもしれません。失敗を繰り返す人は、そこから学んで成長する機会を得ます。聖書は、弱さを否定せず、肯定するのです。それが、神の恵みの豊かさを教えてくれます。
今、私たちの社会は、強さを求める傾向が強いです。SNSでは、成功した姿ばかりが目立ち、弱さを共有しにくい空気があります。でも、そんな中で聖書の言葉は新鮮です。弱い時にこそ強い、というのは、キリストの十字架を思い起こさせます。イエスは、十字架の上で最大の弱さを示しましたが、そこから復活の力が現れました。パウロはその模範に従ったのです。私たちも、弱さを神に委ねることで、同じような力を体験できます。私の場合、弱さを隠さなくなってから、人間関係が豊かになりました。友人たちと本音で話せるようになり、互いの支えを感じるのです。これは、神の恵みが働いている証です。
弱さを素敵だと感じるためには、信仰の目が必要です。パウロのように、幻や啓示を体験しなくても、日常の中で神の声を聞くことができます。祈りの中で、「わたしの恵みは十分」と語りかけられるのです。それを信じると、弱さが負担から宝物に変わります。私が苦しんだ時期を振り返ると、今ではあの経験が自分を形作った大切な一部だと感謝しています。みなさんも、自分の弱さを振り返ってみてください。それは、神が与えた特別なもので、そこに神の力が宿るのです。
モーセは、エジプトから民を導く使命を与えられましたが、最初は吃音の弱さを理由に拒みました。「私は口が重く、言葉が不自由です」と神に訴えたのです。でも、神は「わたしがあなたと共にいる」と約束し、モーセはその弱さを抱えながらも、紅海を分ける奇跡を成し遂げました。この話は、弱さが神の栄光を現す手段になることを示しています。モーセの人生は、完璧さではなく、神への信頼によって輝いたのです。
また以前お読みしたことがあるかと思いますが、アメリカのあるリハビリテーション病棟にて誰が書いたかわからない有名な詩「病者の祈り」をお読みします。
勝利者になれるようにと強さを祈り求めたが/謙遜と従順を学べるように弱さを授かった
より大きな事ができるようにと健康を求めたが/より相応しい事ができるように病弱を授かった
幸せになれるようにと豊かさを求めたが/思慮深い者となれるように貧しさを授かった
人々の称賛を得られるようにと力を求めたが/神の前にひざまずけるように無力を授かった
人生を楽しめるようにとあらゆる事を求めたが/あらゆる事を楽しめるように人生を授かった
祈り求めたものは何一つ与えられなかったが/私の本当の望みはすべてかなえられていた
驚いたことに/私が言葉にしなかった祈りはすべて聞かれていた
私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福された者
弱さって、素敵だ。そう思える日々が歩めるよう、共に祈りましょう。