「愛ってなに?」マタイによる福音書3:13~17

深谷教会降誕節第3主日礼拝ー公現日ー2026年1月11日
司会:山口奈津江姉
聖書:マタイによる福音書3章13~17節
説教:「愛ってなに?」
  佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-454,484
奏楽:落合真理子姉

  説教題:「愛ってなに?」 マタイによる福音書3:13~17 佐藤嘉哉牧師

 今日はマタイによる福音書3章13節から17節を一緒に考えていきたいと思います。この箇所は、イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受ける場面です。そこに神の声が響き、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と告げられます。キリスト教はしばしば「愛の宗教」と呼ばれます。教会で集まる人々が「神に愛されている」と口にし、互いに励まし合う姿は、心温まるものです。でも、ふと立ち止まって考えてみたくなります。この「愛」とは、一体どんなものなのでしょうか。日常で使う愛の言葉は、家族への温かさや友人への思いやりを指すことが多いですが、神が語る愛は、それとは少し違う深みを持っているように思います。今日の聖書から出発して、神の愛の本質を探り、その尊さと広大さを味わってみましょう。
 まず本日の聖書箇所を振り返ってみます。イエスはガリラヤからヨルダン川へやって来て、ヨハネにバプテスマを求めます。ヨハネは驚いて、思いとどまらせようとしました。「わたしこそあなたからバプテスマを受けるべきなのに」と。ヨハネはイエスが特別な存在だと感じていたのでしょう。しかし、イエスは「今は受けさせてもらいたい。そうするのが、すべての正しいことを成就するためである」と答え、洗礼を受けます。水から上がると、天が開き、神の御霊が鳩のように降り、天から声が聞こえます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」。この言葉は、神がイエスを深く大切に思っていることを示しています。父なる神が子を慈しむような、親密な関係が浮かび上がるのです。
 ここで注目したいのは、この愛の宣言がイエスの公的な歩みの始まりであるということです。イエスはこれから人々の間で教え、癒し、最後には十字架にかかる道を進みます。神の愛は、単なる甘い言葉ではなく、苦しみや犠牲を伴うものです。イエス自身が罪のない身でありながら、罪人たちの悔い改めの象徴として洗礼を受ける。これは、神の愛が私たち人間の弱さを引き受ける形であることをあらかじめ伝えているのです。洗礼は、自分の過ちを認め、神の赦しを受け入れる行為ですが、そこに神の愛が根ざしています。神は私たちをそのまま受け止め、変えていく力を持っています。
 キリスト教全体を見渡すと、神の愛は旧約聖書から一貫して描かれています。例えば、ホセア書では、神が不忠な民を妻のように愛し、繰り返し呼び戻す姿が語られます。神の愛は、条件付きのものではなく、相手の失敗を超えて続くものです。新約ではイエスがその愛を体現します。ヨハネによる福音書3章16節で、「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります。イエスは十字架で死ぬことで、神の愛を最大限に示しました。それは自己中心的な人間の罪を肩代わりする犠牲の愛です。イエスは敵さえ愛せと教えました。マタイ5章44節で、「あなたがたの敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と。こうした愛は、人間の常識を超えています。相手の利益を優先し、時には痛みを伴う選択です。
 パウロの書簡は、この愛をさらに詳しく解き明かします。ローマ人への手紙8章35節から39節では、「わたしたちをキリストの愛から引き離すものは何もない」と断言します。患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣さえ、神の愛から私たちを切り離せない、と。パウロは、キリストが私たちのために死んでくださったことで、神の愛の確かさを強調します。神の愛は、永遠で、無条件で、変えられないものです。また、第一コリント人への手紙13章では、愛の性質を詩のように描きます。「愛は寛容であり、愛は親切である。また人をねたまず、愛は高ぶらない、うぬぼれない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。この言葉は、愛が一時的な感情ではなく、行動と忍耐の積み重ねであることを教えてくれます。パウロは、信仰、希望、愛のうちで最も大いなるものは愛だと結びます。
 こうした教えから、神の愛の尊さが浮かび上がります。それは、私たちを造った神が、失われた者を求める情熱です。神は私たちを単なる被造物としてではなく、子として愛します。エペソ人への手紙2章4節で、パウロは「しかし、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって」と語ります。この愛は、死んでいた私たちを生かします。神の愛は偉大で、宇宙全体を包むほどです。詩編103編11節では、「天が地よりも高いように、そのいつくしみは主をおそれる者に向かって高い」とあります。人間の愛は限界がありますが、神の愛は無限です。私たちがどれほど離れても神は待ち続け、迎え入れてくれます。
 洗礼の場面に戻ってみましょう。イエスが受けたバプテスマは、私たちの洗礼の原型です。私たちは洗礼を通じて、自分の罪を告白し、神の愛に浸されます。それは、過去の自分を水に沈め、新しい命に生きる象徴です。しかし、この愛を確信する機会は、意外と少ないかもしれません。日常の忙しさの中で、神の愛が十字架の苦難を意味することも忘れがちです。イエスは神の愛を信じて、十字架への道を歩みました。私たちも、その愛を信頼して、日々の試練に立ち向かえるのです。神の愛は、喜びだけでなく、成長のための鍛錬を含みます。ヘブル人への手紙12章6節で、「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれる」とあります。この愛は、私たちをより良く形作るものです。
 神の愛の偉大さを思うとき、私たちは謙虚になります。神は全能でありながら、私たち一人一人に目を注ぎます。ヨハネの第一の手紙4章16節で、「神は愛である。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにいます」とあります。この愛に留まることで、私たちは互いに愛し合う力を得ます。キリスト教の歴史は、この愛の実践で満ちています。例えば、初期教会では、迫害の中で信徒たちが互いの絆を強めました。パウロ自身、牢獄から手紙を書き、愛の重要さを伝え続けました。
 まとめとして、この聖書箇所にまつわる歴史的なエピソードを一つ思い浮かべます。4世紀のアウグスティヌスは、若い頃に放蕩生活を送っていました。母モニカの祈りが続き、ある日庭で聖書を開くと、ローマ13章13節から14節の言葉に出会います。「昼のように正しく歩こうではないか。…主イエス・キリストを着なさい」。これがきっかけで、彼は回心し、洗礼を受けました。アウグスティヌスは後に『告白』で、神の愛が自分を追い求めたことを記します。「あなたは私をあなたのために造られたのに、私の心はあなたのうちに憩うまで、安らぎを得なかった」。この体験は、神の愛が人を変える力を示しています。洗礼は、そんな愛の出会いの場です。
 また、キリスト教の詩として、フレデリック・レーマンの「神の愛」を思い起こします。「神の愛は広大で、測り知れない。海よりも深く、空よりも高い。天使の筆でも書き尽くせない。神の愛は永遠に続く」。この詩は、神の愛のスケールを歌い上げます。私たちも、この愛に包まれているのです。
 今日の聖書から、神の愛が単なる優しさではなく、犠牲と永遠の絆であることを学びました。この愛を心に留め、日々を歩みましょう。神の愛が、皆さんの人生を豊かに照らしますように。

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