深谷教会降誕節第1主日礼拝(降誕前第4主日)2025年11月30日
司会:岡嵜燿子姉
聖書:イザヤ書51章4~11節
説教:「我が民よ、わたしに聞け」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-231,457
奏楽:落合真理子姉
説教題:「我が民よ わたしに聞け」 イザヤ書51:4~11 佐藤嘉哉牧師
アドベントの第一週を迎えました。私たちは今日から、再び主の来臨を待ち望む季節に入ります。アドベントとは、ラテン語で「来臨」という意味です。イエス・キリストがこの世に人として来てくださったこと、そして再び栄光のうちに来てくださることを、心を込めて待ち望む時です。アドベントカレンダーは、子どもたちに「一日一日、少しずつ近づいてくるクリスマスを楽しみに待つ」ということを、視覚的に教える目的があります。アドベントクランツの蝋燭に1週間ずつ火をともしていくのも、「救いを待ち望む」という意味を伝えているわけです。しかしわたしたちはたった4週間の間も待ちきれない思いを抱くわけですが、イスラエルの民はわたしたちとは比較すらできないほどの長い年月、神の救いを待ち望んでいたのです。彼らの信仰のあつさに感心すらします。
今朝与えられた御言葉は、イザヤ書51章4節から11節です。イザヤ書は、ひとりの預言者の言葉ではなく、3人の預言者の業績がまとめられた書物です。第一イザヤは、主に紀元前8世紀、ユダ王国がアッシリアの脅威にさらされていた時代に語りました。正義と裁きを強く告げ、残れる者による回復を預言しました。第二イザヤは、バビロン捕囚の時代、紀元前6世紀後半に現れました。捕囚の民に慰めと希望を与え、特に「主の僕」の苦難と栄光によってもたらされる新しい救いを告げました。今朝の箇所は、まさに第二イザヤの中心的なメッセージです。第三イザヤは、捕囚から帰還した後のエルサレムで、再建の困難の中にあった民に語りました。神の栄光が再びシオンに満ちる日を指し示しました。
今朝の箇所は、第二イザヤの声が最も高く響くところです。神は「わが民よ、わたしに聞け」と二度も呼びかけられます。この呼びかけは、捕囚の民が絶望の中に沈み、バビロンの神々や力に目を奪われそうになっていた時にこそ、強く必要とされた言葉でした。神が語られる内容は驚くべきことです。律法も救いも義も、すべて神ご自身から出る。もろもろの民が待ち望む光も、神の腕そのものであると告げられます。そして天と地は過ぎ去っても、神の救いと義だけは永遠に続くと言われます。
この「待ち望む」という姿勢こそ、クリスチャンの信仰の本質です。私たちはすでに救われた者です。しかし、同時にまだ完成していない救いを、なお待ち望む者でもあります。パウロはローマ8章23~25節でこう言いました。「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」初代教会のクリスチャンたちは、まさにこの「見ないものを望む」信仰を生きていました。彼らはローマ帝国の迫害を受け、財産を没収され、投獄され、剣で殺されました。ヘブル書の著者は、10章32節から36節で彼らのことをこう証ししています。
「あなたがたは、光に照らされたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産を奪われても喜んでそれを忍んだ。だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その核心には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」
彼らは「もっとまさった永遠の宝」を持っていることを知っていました。だからこそ、目に見えるものを失っても、決して信仰を捨てませんでした。彼らの望みは天にあり、再び来られる主にありました。ペテロもまた、迫害の中にあるクリスチャンたちに手紙を書きました(Ⅰペテロ1:3~9)。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生まれさせていける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受けつぐ者として下さったのである。あなたがたは、終わりの時に啓示さるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかもしれないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、賛美と栄光と誉れとに変わるであろう。」
彼らは苦しみの中にありながら、喜びにあふれていました。救いの完成を待ち望む信仰が、彼らを支えていたからです。
今朝、神は私たちにも同じように呼びかけておられます。「わが民よ、わたしに聞け」。この声に耳を傾けることは、単なる習慣ではありません。それは、私たちがどこに希望を置いているかを示す、信仰の行為そのものです。世の中は目に見えるものに目を奪われ、速やかな解決を求めます。現代人は目に見える富、成功、快楽に心を奪われやすくあります。便利さばかりが先行し、本来あるべき思いやり、隣人をいつくしむ心がどんどんと消えて行っているように思います。しかし聖書は「目に見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永遠に続く」(Ⅱコリント4:18)と告げています。そこに潜む危険は、神の約束よりも一時的な安心を選び、永遠の救いを軽んじてしまうことだと思います。富に心を奪われれば「富める者の天国入りはラクダが針の穴を通るより難しい」(マタイ19:24)という警告が現実となります。快楽に溺れれば「この世と調子を合わせてはならない」(ローマ12:2)という戒めを破り、魂を失う恐れもあります。見えるものに目を奪われるとき、私たちは「今だけ、ここだけ、自分だけ」の狭い世界に閉じ込められ、主の再臨という最大の希望を見失ってしまいます。神の民は違う道を進むべきです。神の約束は、人の目には遅く見えるかもしれません。でも、天と地が過ぎ去っても、神の言葉は決して過ぎ去りはしません。神の救いは永遠に続くものなのですから。
アドベントの第一週に、私たちは再びこの約束を心に刻みます。すでに来てくださった主を思い、再び来てくださる主を待ちます。暗闇の中にあって、光を待ち望む。それこそが、私たちに与えられた信仰の生き方です。
どうかこのアドベントの季節、私たちが「見ないものを望む」者として歩むことができますように。苦しみの中にあっても、試練の中にあっても、主の約束に信頼して忍耐することができますように。そして最後に、主の御前に立たされる時、「よくやった、忠実な僕だ」と言われる者となることができますように。