「わたしはあなたの盾である」創世記15:1~18

深谷教会降誕前第7主日礼拝2025年11月9日
司会:西岡まち子姉
聖書:創世記15章1~18節
説教:「わたしはあなたの盾である」
   佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-18,463
奏楽:小野千恵子姉

    説教題:「わたしはあなたの盾である」 創世記15:1~18前半   佐藤嘉哉牧師

 今日は創世記15章1節から18節を深く掘り下げ、神の約束の深さと広さを共に味わいたいと思います。タイトルは「わたしはあなたの盾である」です。この言葉は、アブラムが激しい戦いの後に抱いた不安に対して、神が幻の中で直接語られたものです。勝利の余韱が冷めやらぬ中で、報復の影が忍び寄っていたのでしょう。神はアブラムの心の奥底を見抜き、守りと報酬を力強く宣言されました。アブラムはソドム王たちとの戦いで甥のロトを救い、圧倒的な勝利を収めました。しかし、戦場での興奮が収まると、敵の残党による報復の恐れが心を蝕み始めます。異邦の地で孤立無援の状態です。そんなとき、神は「恐れるな。アブラム。わたしはあなたの盾である。あなたの報酬は非常に大きい」と語ります。ここで注目すべきは、神がアブラムの現実の脅威を無視せず、それを正面から受け止め、圧倒的な保護を約束している点です。盾とは、古代戦場で矢や槍を防ぐ決定的な防具です。神ご自身がその盾となるのですから、どんな敵の攻撃も無力化されるに違いありません。
 アブラムは神の言葉に対して、遠慮なく本音をぶつけます。「主よ。わたしに何をくださるのですか。わたしには子がいないのです」と。嗣業を継ぐ者がいないという現実が、彼の心を重くのしかかっていました。ダマスカスのエリエゼルが相続人になる見込みでしたが、アブラムにとってそれは受け入れがたいものでした。神は即座に明確に答えます。「あなたの身から出る者が嗣業を継ぐ」と。続けて、空を見上げなさいと命じ、星の数を数えられるかと問います。星のように子孫が増えるという約束です。この比喩は、夜空に広がる無数の光が永遠の広がりを象徴し、人間の想像を超えた祝福を示します。アブラムはこれを信じ、神はそれを義と認められました。信仰とは、目に見えない約束を確かな現実として受け止める姿勢であり、心の確信です。
 神はさらに自己紹介をされます。「わたしはあなたをカルデヤのウルから導き出した主である」と。過去の導きを思い起こさせることで、未来の約束に確固たる裏付けを与えます。アブラムは祭壇を築くよう指示を受け、特定の動物を準備します。三歳の牝牛、雌山羊、牡羊を選び、鳩と山鳩の雛を加えます。これらを半分に裂き、向かい合わせて置く儀式です。血の道が作られ、契約の厳粛さと不可逆性を象徴します。古代中近東では、契約当事者が裂いた動物の間を通ることで、違反すれば同じ運命を招くという誓いを立てました。日が沈み、暗闇が訪れると、アブラムは深い眠りに落ちます。神は恐怖と大きな暗闇が彼を覆うと予告します。これは、子孫がエジプトで四百年の苦難を経験することを指します。異国の地で奴隷となり、過酷な労働と虐待に耐える日々です。しかし、神は圧迫する民をさばき、子孫を莫大な財産とともに導き出すと約束します。第四世代になって子孫が帰還する理由は、アモリ人の罪がまだ満ちていないからです。神のさばきは、忍耐を伴う公正なものであり、罪の成熟を待つ姿勢に神の憐れみが表れています。
 煙の立つ炉と燃える松明が、裂いた動物の間を通り抜けます。これは神の臨在の象徴であり、契約の成立を視覚的に示します。神は一方的に契約を結び、アブラムの子孫にエジプトの川からユーフラテス川までの広大な土地を与えると宣言します。ケナン人、ケナズ人、カドモ人、ヒッタイト人、ペリジ人、レパイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を具体的に挙げて、所有権を明確にします。この儀式は、古代の契約慣習を神が用いた形で、約束の絶対的な信頼性を強調します。神は自ら通り抜け、約束を守る全責任を負われたのです。
 この箇所から私たちは何を学び取るでしょうか。まず、神は私たちの不安を先回りして語られるということです。アブラムの戦いの後遺症のような恐れは、私たちの日常にもあります。悩みなく生きている人などこの世にはいません。その悩みから抜け出したいと願い求め、教会の門を叩く人がほとんどでしょう。神は今も「わたしはあなたの盾である」と語られます。盾は単なる受動的な守りではなく、敵の攻撃を積極的に防ぎ、時には反撃する力です。詩編91篇では、わたしたちがただ神の翼の陰に隠れるイメージがありますが、ここでは盾として前面に立ちはだかり、敵を威圧します。次に、報酬の大きさについてです。アブラムはすでに物質的な富を蓄えていましたが、神の報酬はそれを遥かに超えるものでした。子孫の繁栄、広大な土地の約束、信仰による義の認定です。私たちには、永遠の命、天の国、聖霊の賜物、キリストにある兄弟愛が与えられます。これらは人間の努力で得られるものではなく、信仰による恵みです。アブラムが星を数えられないように、私たちの祝福も計り知れず、想像を超えたものです。
 アブラムの率直な問いかけは、信仰の模範です。彼は不満を隠さず、神に直接ぶつけます。私たちも祈りの中で本音をさらけ出せます。神は沈黙されず、具体的に答えます。エリエゼルの相続を否定し、血肉の子を約束するのです。現代の不妊治療や後継ぎの問題、家族の断絶に、神の言葉が希望を与えます。人間の限界を、神の無限の可能性が覆い尽くします。信仰が義とされる点は、福音の核心です。パウロはローマ人への手紙4章でこの箇所を引用し、行いではなく信じることで正しいとされることを強調します。アブラムは約束を信じ、神との関係が深まりました。私たちも、イエスの十字架と復活を信じることで義とされます。これは一度きりの宣言ではなく、日々の歩みの中で更新される関係です。毎朝、信仰を新たにし、神の義に与るのです。
 儀式の詳細は、神の真剣さと契約の重みを教えます。動物の裂き方は、契約違反の罰を象徴し、死を意味します。私たちとの新約も、イエスの血と死によって結ばれました。主の晩餐で杯とパンを通して、それを思い起こし、契約の恵みに与ります。キリストの体と血は、私たちを神と結びつける永遠の証です。苦難の予告は、神の現実的な配慮を示します。四百年の奴隷状態は、出エジプト記の予型であり、モーセの時代を予見します。神は試練を隠さず、脱出と報復を約束します。私たちの人生にも暗闇の時期があります。病による苦痛、愛する人の喪失、信仰ゆえの迫害、精神的な荒野です。しかし神は圧迫者をさばき、解放し、報いてくださいます。アブラムの平安な死のように、私たちも最終的な安息と栄光が待っています。
 土地の約束は、究極的に天のエルサレムを指します。ヘブル人への手紙11章では、アブラムが天の都を待ち望み、地上を旅人として歩んだと記されています。地上的なカナンは影に過ぎず、本物は神の国です。私たちは天の市民権を持ち、約束の地を目指して旅します。地上の所有は一時的ですが、天の相続は永遠です。神の忍耐は、アモリ人の罪が満ちるまで待つ姿勢に表れます。これは、悔改めの機会を与える神の憐れみです。ペトロ第二の手紙3章9節では、神が忍耐して誰も滅びないことを望むとあります。私たちも、罪人に福音を伝え、さばきを急がず、祈り続けたいと願います。どれだけ自分を迫害するような人がいたとしても。神の時が満ちるまで、希望を持って待ち望みます。さらに、この箇所は神の主権と人間の応答のバランスを示します。神は一方的に約束し、アブラムの信仰が求められます。信じることで約束が活性化し、義が与えられます。私たちの救いも、神の選びと信仰の応答の交わりです。エフェソ2章8節の「信仰による恵み」を思い起こします。
 皆さん、「わたしはあなたの盾である」という言葉を心に刻みましょう。恐れが襲うとき、夜空を仰ぎ、星の約束を思い浮かべます。煙と火の臨在が、私たちを包みます。信仰で応答し、義の道を歩み、契約の恵みに与りましょう。神の約束は、時代を超えて揺るぎなく、私たちを導きます。試練の中でも、盾なる神が守り、報いてくださいます。

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