深谷教会聖霊降臨節第12主日礼拝2025年8月24日
司会:佐藤嘉哉牧師
聖書:使徒行伝20章17~35節
説教:「苦難の共同体」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21-566,542
奏楽:野田治三郎兄
説教題:「苦難の共同体」 使徒行伝20:17-35 佐藤嘉哉牧師
使徒行伝20章17節から35節で、パウロはエペソの教会の長老たちに別れの言葉を語ります。この場面は単なる別れではなく、パウロがキリストのために生き、苦難を担った人生の核心を表す告白です。ここには、共同体が苦難を共に担う意義と、それが神の救いの計画にどう結びつくかが示されています。現代の私たちが直面する経済的困窮や自然災害、宣教の壁も、この聖書の言葉を通して神の希望と目的に導かれます。パウロの言葉から、苦難を共に担う共同体の姿と、そこに働く神の救いの計画を深く探っていきたいと思います。
パウロはミレトにエペソの長老たちを呼び寄せ、こう語ります。「わたしがアジヤの地に足を踏み入れた最初の日以来、いつもあなたがたとどんなふうに過ごしてきたか、よくご存じである。謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀による試練の中で、主に仕えてきた」(20:18-19)。彼の人生は迫害、投獄、船の難破、飢え、疲労といった苦難の連続でした。しかし、パウロは「弱いからこそ強い」と宣言し、福音を伝え続けました。その力の源は、ユダヤ教のエリートとしての背景や精神力ではなく、神の恵みを人々に届ける使命への全き献身にありました。パウロの姿勢は苦難が使命を妨げるものではなく、むしろ神の力を証しする機会であると信じ、前に進む力に変えていたのです。これも神の試練であり、乗り越えられるし逃れる道もある。だから神の御心に従って歩んでいこう。そういう信仰をもっていたのです。今日、私たちも経済的困窮、食料品の不足、仕事や家庭の重圧、自然災害による喪失など、さまざまな苦難に直面します。これらは絶望を招くかもしれませんが、パウロの生き方から学ぶなら、苦難は神に近づき、互いに支え合う共同体を築く機会となります。彼のように苦難を神の目的に仕える場と捉えれば、私たちの人生も希望と救いの証しとなるでしょう。
パウロは長老たちに、自分の宣教が「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである。」と語ります(20:21)。彼の使命は特定の民族や階級に限定されません。すべての人が主なる神に立ち帰り、キリストを信じるように導くことでした。この使命は、どんな苦難の中でも揺らぐことがありません。パウロはこの先に投獄と試練が待っていることを、聖霊によって知らされているにもかかわらず(20:23)、エルサレムに向かう決意を固めます。彼は命さえも福音のために捧げる覚悟でエルサレムへ向かいます(20:24)。この言葉は、私たちに大きな挑戦を投げかけます。現代の宣教は、時に無関心や敵意に直面します。社会の中で教会が疎外され、福音を語ることが難しく感じられることがあります。経済的な苦難や災害は、宣教のためのエネルギーを奪うかもしれません。しかしパウロの姿勢は、苦難が宣教を止める理由にならないことを教えてくれます。むしろその苦難の中でこそ、福音の真実が輝きます。共同体が一つとなって福音を生きる姿は、神の救いの力を証しします。たとえば、災害後の復興の場で、教会が地域の人々と共に働くとき、そこに神の愛が現れます。だからこそ教会はどこよりも早く災害の救援を行うのです。宣教の困難は、私たちに新しい方法で福音を伝える創造性を呼び起こします。パウロがどんな状況でも福音を宣べ伝えたように、私たちも苦難の中で神の目的を果たす使命を担っています。
パウロは長老たちに、教会を「神が御子の血であがない取られた教会」として守るよう命じます(20:28)。この言葉は苦難を共にする共同体の本質を明らかにします。教会は、キリストの犠牲によって贖い取られた神の民です。この共同体は単なる集まりではなく、神の救いの計画の中心にあります。パウロは「狂暴なおおかみが入り込む」と警告し(20:29)、偽りの教えや分裂の危険を予告します。エペソ共同体における苦難は、外からの迫害だけでなく内部の混乱からも生じます。今日、私たちも教会の中で意見の対立や誤解を経験することがありますが、こうした試練こそ、教会がキリストの贖いのゆえに一つであることを思い出す機会でもあります。神の教会は苦難を通して清められ強められます。互いに赦し、愛し合うことで、共同体は神の救いの計画を体現します。たとえば、怪我をされ礼拝だけでなく生活でも困難に直面する教会員を支えるとき、教会は神の愛を具体的に示してくださいます。パウロが長老たちに教会を守るよう命じたように、私たちもまた、苦難の中で共同体を愛と信仰で築く責任を負っているのです。
さらに、パウロは自分の手で働き、弱い者を助けたことを思い起こさせます(20:34,35)。彼は「受けるより与えるほうが、さいわいである」というキリストの言葉を引用し、共同体が互いに仕え合うことの大切さを教えます。パウロは宣教の旅の中で自らテントを作り、経済的な自立を保ちながら、困っている人を支えました。この姿勢は、苦難の中での愛の具体的な形を示します。彼は福音を伝えるだけでなく、実際の行動で神の愛を体現しました。現代の私たちも困難に直面する人々に手を差し伸べる責任があります。生活難は、時に私たちを自己中心にさせます。自分の問題に閉じこもり、他者を見ることが難しくなることがあります。今日本ではそうした不寛容で自己中心的な思いが支配しているように思います。パウロの生き方は、苦難の中でこそ他者に仕えることが神の民の証しであると教えてくれます。自分だけ救われてOKというわけにはいかないのです。三浦綾子さんの『塩狩峠』のモデルとなったクリスチャンの人物が、自分の命を投げうってまで顔も名前も知らぬ人を守ったという行為は難しさの極みでありますが、そのように他人を思えるかどうか。自分の命のように隣人を愛せるかどうかが問われているのです。隣人への神を現わす時、神の救いの計画を証します。共同体が互いに与え合うとき、そこに神の愛が現れるわけです。教会が地域社会の中で弱くされた人々を支えるとき、福音の力が具体的な形で示されます。パウロが自分の手で働いたように、私たちもまた苦難の中で具体的な愛の行動を起こすよう招かれています。
パウロの別れの言葉は、涙と祈りで締めくくられます(20:36-37)。長老たちは彼を抱き、キスし、悲しみます。この場面は苦難を共にした共同体の絆の深さを表しています。彼らはパウロの苦難を共に担い、福音のために共に戦ってきました。その絆は単なる友情を超え、神の目的に根ざしたすばらしいものです。彼らの涙は互いへの愛と、福音のために生きる決意を象徴します。今日、私たちも苦難の中で互いに支え合う共同体を築くよう招かれています。災害や生活の困難は、孤立を招くかもしれません。人は苦しみの中で自分だけに閉じこもりがちです。しかし教会は互いに祈り、涙を流し、希望を分かち合う場です。この共同体の中で、私たちは神の救いの計画を見ます。苦難は人生の終わりではありません。神はキリストの十字架と復活を通して、すべての苦難を贖い希望へと変えました。パウロと長老たちの別れの場面は苦難を共にする共同体が、どれほど力強い希望の源となるかを教えてくれます。
パウロの言葉は私たちに、苦難を共にする共同体の意味を教えてくれます。そこに神の愛が現れるのです。宣教の困難は福音の力を新たに証しする機会となります。社会の無関心や敵意の中で、福音を生きる姿は、人々の心に希望の種を蒔きます。苦難が神の救いの計画の一部であることを。パウロが命を懸けて走り抜いたように、私たちも苦難の中で神の恵みを宣べ伝える使命を担いましょう。共同体として一つとなり与え合うことで、神の希望が現れます。この希望はキリストの贖いによって確かなものとなりました。どんな苦難も、神の愛と救いの計画を止めることはできません。パウロがエペソの長老たちに残した言葉は今日の私たちにも響きます。苦難を共にする共同体の中で、神の救いの計画が実現し、希望が輝くでしょう。